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推し活はキモい

 欲しているものが手に入らない時、対象の価値を下げてはじめから「あんなものは欲しくなかった」ことにすることを、合理化あるいは「酸っぱい葡萄」と言う。
 しかし一方で、手に入らないと分かっているからこそ対象の価値を上げて、「あれさえあれば幸せなのに」と現にある自分の不満足の見せかけの理由として対象を利用することがある。
 そのように言う人たちにとって、手に入らないからこそあの葡萄は「甘い葡萄」なのである。「甘い葡萄」は実際に手に入ってはいけない。手に入ってしまっては、もう欲することができなくなるからだ。


 ファンにとって「推し」とは、現実の人間とは違って手を伸ばしても手に入らないと分かっているから安心して欲しがることができるモノである。
 整形依存者が美しい顔さえ手に入れば幸せになれると思い込み、インセル男性が恋人さえいれば自分の人生は輝くのにと恨み嘆き、陰謀論者が諸悪の根源はディープステートであると語る時、彼らは各々、複雑で手に負えない現実と向き合わなくすむ現状の不満足の「見せかけの理由」を手に入れる。
なにか特定のモノに対して「それさえあれば全てがうまくいく」と考えることで、自分の存在を切り崩してしまうような核心的な問題からは目を逸らすことができるのだ。

 しかし、現実では、何かを得たところで欠如が埋まることはない。
全ては「愛の代償」に過ぎないからだ。

 だからこそ、対象が実際に手に入った時にも満たされなさは残り続け、それ故に「私が実際に欲していたのはこれじゃなかった」とまた新しい対象を探さなくてはならない事態に陥る。
 手に入った瞬間に葡萄は「はじめから酸っぱかった」ことにならなくてはいけない。
「甘い葡萄」があれば私は幸せになれるはずなのに、私はこの葡萄を手に入れても依然として不満足なままなのだから。


 推し活の話に戻ると、推しはリアルの異性(や同性)と違ってこちらの愛情表現に応じることがない。ファンはいくら愛しても、手に入ることがないからこそ安心して推しに「愛している」ということができるのだ。

 蛙化という言葉は昨今は「ちょっとしたことで相手を嫌いになる」くらいのニュアンスで使われがちだが、一昔前は「好きな相手と両思いになった途端、『こんな自分』のことを好きになる相手が気持ち悪くなる」のような意味で使われていたと思う。理想化と幻滅を繰り返して恋人を次々に変える人は、「片想い」をし続けることに価値を置いているのではないだろうか。

 推しとは、欲望し続けるために据えられた、徹底的に手段化された「甘い葡萄」である。ファンにとって、推しとは人ではなく、モノなのだ。
 人を人として扱わず、目的を覆い隠して「愛」を騙っている点で、推し活は私にとってすこぶる気持ち悪いのだ。


 話が少しずれてしまうが、度肝を抜かれたのがある日電車で見かけた広告である。
求人サイトのコマーシャルとして、「Z世代が推し活に使う費用は?」のようなアンケートの結果が円グラフとともに載せられていた。

 かつて「悪い大人」たちは街中にラブソングを氾濫させ、テレビドラマもラブストーリーに独占させ、恋愛・結婚を人生における至上の価値と置くことで人々を市場に駆り立てていた。プロパガンダを間に受けたマジョリティは「モテ」のために学歴を求め、立派な仕事をしてお金をもらい、高い腕時計やスポーツカーを買って経済を回していた。

しかしいまや、若者は広義での貧困に陥り、恋愛に注ぎ込めるような余暇も余力も持ち合わせていない。
加えて世の中に恋愛以外の楽しいことが溢れた結果、恋愛が数ある娯楽の一つとなった。
また、SNSの普及により建前が崩壊して異性へのファンタジーは失われ、資本主義の精神に基づきハイコスト・ハイリスクかつローリターンである恋愛はほとんど不可能になっていった。

 このような時代において支配者層は、これまで恋愛が占めてきた経済を回す原動力の地位を「推し活」にすげ替えたように見える。
 恋愛と違って推し活は、新聞ひとつ満足に広げられない満員電車の中でも、残業に疲れ切って化粧も落とさず滑り込んだベッドのなかでもスマホひとつあればできる。仕事が忙しい時には距離を取ることも容易だ。リアル彼氏/彼女のように既読スルーに拗ねたり、返信の催促スタンプをしつこく貼ってくることもない。自分のちょっとした言動で何か機嫌を損ねてしまうこともない。価値観の擦り合わせも、面倒な喧嘩も、仲直りのプレゼントも必要ないし、デートのプランを立て時間とお金をかけてロマンチックな演出をしなくたって離れてはいかない。推しとファンの関係には、決して好かれない代わりに決して嫌われることもないという距離に起因する安定感があるのだ。

 資本家にとっても、恋愛と比較して労働者の余計な気力も体力も奪わない推し活は、眼前にぶら下げるニンジンとして使うのによくできている。デートやプレゼント等で特定の異性を経由して回収するよりも、ただの紙切れに推しという付加価値をつけて売りつけた方がよほど利幅が大きく、儲けが出る。

 このように社会的、経済的にも「推し」はモノとして位置付けられ、利用されている。
平成を隠れて生き抜いたつもりでいたはずのオタクはすでに、「悪い大人」に見つかってしまったのだ。

 ファンが推しを「愛する」ことはできない。できるのはただ、一人の人間から都合の悪い部分を削ぎ落とし、尊厳を奪ってモノに貶める卑劣な消費である。推し活とは恋愛の甘い部分だけを吸おうとするごっこ遊びであり、実在する人間を使ったおままごとだ。
 このような行為を愛の名で騙ることに、シラフで生き続けるためには断固意義を唱え続けなくてはならない。

「そういうとこがキモいんだぞ!!推し活!」

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