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最新映像とSF味で描かれるチンピラ青春逃避行(『天気の子』感想)

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※映画『天気の子』に関するネタバレを含みます。
※本作がテレビにて放映されたので、ロードショー当時(2019/7/24)に書いた記事を他ブログから移してきました。

 話題の新海誠監督最新作『天気の子』の感想です。概ね「チンピラ青春逃避行ものにおけるある要素を置き換えたのが秀逸」ということを書いています。未見の方はブラウザ閉じてください。

 すごく雑で申し訳ないんですが、物語について考えると「逃避してきてチンピラにもなりきれない男の子が、愛すべき女の子に出逢って、あんまし幸せになりそうもない選択をしながら、それでも世界の日常は続いていく」って話だったので、近年だと『BABY DRIVER』とか25年くらい前の映画になりますけど『アナザーデイインパラダイス』とかの系譜だなと思ったんです。

  • 主人公(男)の逃避行

  • 不法行為が蔓延る街にたどり着く

  • 不法行為の狭間で生きている人情のある人と出逢う

  • ヒロインと出逢う

  • 二人のみを守ることができるくらいの小さい暴力(拳銃)を手に入れる

  • 貧困の描写

  • ちょっと良いことが起こって二人の間のちいさな幸せを感じられる

  • 周囲の人との交流での温かみ

  • 小さい暴力のせいで問題が起こるが、その場しのぎの解決を繰り返して増長する

  • 二人で逃避行するが、追手も迫り、うまくいかない

  • 自分の所持している暴力では解決できない大きな暴力のせいで、不幸や離別を味わう

  • ドライだが二人にとっては幸せな選択だったかもしれない結末

 いわゆるヤクザ映画や時代劇の駆け落ちものなんかにもありますし、言い方は悪いですが愛情を込めて「チンピラ青春逃避行もの」と呼ぶとするなら、ストーリーの既視感という点では『君の名は。』より飲み込み易かった感じです。

 例えば。ヤクザの抗争が行われている街に辿り着いた主人公が、苦しみもがきながら生きていくうちに、偶然手に入れたチャカをぶっ放したことで追われ者になってしまい、ヒロインと逃げますが、街は抗争激化で焼け野原となり、身の回りで失ったものは数知れず二人は明日へと向かっていく……ってのは、よくあるストーリーだと思っていて。

「あの時主人公がもっと上手く立ち回っていたり、比類無き暴力の達人だったり、ヤクザを追放して街を統治できるカネと権力が手に入っていたりして地域全体を改善できるほど運が良かったなら、果たしてハッピーエンドだったのか?」という感想が出てきて当然なわけです、そういう映画は。

 そこへ、ファンタジーと規模感の演出から、天気を操作する力の話と豪雨による水害で東京が壊滅的になるという要素が加わったのが『天気の子』であるとぼくにはイメージされました。

 観客にとって、後味がちょっと悪いような気もしないでもないエンドだけど、まあ二人にとって良かったなら、うん。映画によってはヒロインも死んじゃったりして主人公が孤独に生き延びたりってのもあるけど、それもまた人生。悪いこともしたけど良いこともちょっとはあったしこの先も長いよ、というようなところに概ね落ち着いていくパターンの映画なのかなと思いますが、それと同じことをこの『天気の子』にも感じたわけです。

 あんまり天気や水害のことは実は物語そのものに関わってきてないんだなぁ、と。タイトルにまで使われているのに壮大なマクガフィンだぞコレ、っていう。

 ヒロインが持つのは天候を操作できるすごい強い力なんだけれども、置き換えちゃ意味ないなと思いながらさきほどの例に置き換えると「ヒロイン側にも拳銃を持たせた」ってことなんですよね。みだりにチラつかせるようなものでもない、でもひとたびそれを向ければ誰もが畏怖する力だよ、と。

『天気の子』では主人公が序盤で一度拳銃を手放すわけですが、それと入れ替わるかのようにヒロインの天気を操る力が話の中心になってきますので、主人公の持っていた暴力の「拡大コピー」をヒロイン側に作って物語を転がしてるんだと考えても良いかと思います。

 ですが、そこはちゃんとヒロイン側の暴力に拳銃とは違う属性が与えられています。主人公の持つ暴力が拳銃という実体のあるもので社会では規制されるものだったのに対し、ヒロインの天気を操る力には実体がなく、社会からも不可視です。劇中のネットで話題になったらさっさと晴れ女ビジネスを止めてしまってもいますし。とにかく世界の中では見えない・見せない・ロクに存在を信じられていない、そういうふうにしてあるのが、ヒロインの力と拳銃との大きな違いだと思います。

 もちろん観客向けに、ヒロインの力に関連して発生する現象の可視化といえる「魚状の水の塊」が描かれています。ですがヒロインが振るう力と繋がっているようにはあまり見えないんです。ヒロインが天気を晴れにするとその地域へ雨として落ちてくるはずだった水が塊となって貯められているのかな、と思えなくもないけれど因果まではちょっとわかりません。冒頭の船の上に水の塊が降ってくるのも、よくわからないです。
(それらの裏付けができる重要なシーンを見逃しているだけだったらすみません……)

 途中でヒロインが祈ったら雷が落ちるというシーンもありますが、これも偶然かもしれないというギリギリの描写。その後普通に雷雨になってますし、雷雨が発生した時のたまたま最初の一撃があれだったのかもしれないんです。

 それに、いままさにピンチにある主人公を救うためにヒロインが力を使って雷を呼んだのなら、なんで相当離れた位置のトラックに落雷するのか、前述の水の塊を警官達にぶつけてひるませるのではダメだったのか、発動条件も不明ならどれくらいコントロールできるかも不明です。ヒロインと力の関係を劇中人物たちに結びつけられてしまわれないよう、距離感が徹底されているとも言えます。

 さすがに、身体が透けたり宙に浮いたり空へ召されたりするシーンがあるので「天候にまつわる不思議なこと」それ自体は劇中で確実に起こっているというのは観客にはわかるわけですが、主人公とヒロイン以外の他の劇中人物たちにとって、最後の最後まで因果が測定されない。強大な力だが誰にも結びつけて考えられることがない。

……故に、この世界の中で問題視されるのは当然主人公の拳銃のほうなんですよね。だから、一度天気が晴れ渡った後(ヒロインが天気を操作する力を失った後)主人公の手に拳銃を戻す必要があった。

 この「偶然手に入れてそのまま持ち続けてしまい、事態が悪化すればするほど相対的に弱くなるのに、護身の意味もあって手放せなくなる『呪い』のアイテム」すなわちチンピラ青春逃避行ものにつきものの「拳銃」を主人公に一度棄てさせ、「人智を超える力」にすり換えてヒロインに持たせた、というところがファンタジー映画のアイディアとして『天気の子』が何よりも秀逸である点なのかなと思いました。

 物語についてはこれくらいにして、そのほかの感想です。

 ビル街、下町、雨、空の上、とにかくスクリーンに描かれるものが細かくて綺麗です。雑多で汚い繁華街という絵ですら、そのリアルさもあってとにかくそれに見惚れているだけで時間が過ぎていってしまいそう。スポンサー商品なども現実と同じ形のものが登場するので、実写じゃなくても観客の世界と地続きというような錯覚があります。

 ただ一点、これだけ書いておいてなんですが、ヒロインについて。さっきの話でいうと拳銃要素をファンタジー映画にするための置き換えなんだなと感じてしまったこともありますが、あまり意識が向かなかったんですよね。

 ごちゃごちゃ考えることを抜きにして「わ、可愛い!」とか「こんなに可哀想な目に遭って……」とか、そういう心への揺さぶりをヒロインが全然かけてこない。少なくともぼくはかけられなかった。

 たぶんこれ「実写映画ならできるがアニメーションではできないこと」が1つあって、それが演出的になのか技術的になのかうまく解消されれば充分補填できるものだと思っていて。

 実写ってヒロインをむちゃくちゃチャーミングな女優が演じるってことができるじゃないですか。それだけで二時間なりの映像がもつ。なのに、アニメーションだと絵で描かれた女性が果たしてチャーミングかどうかというのは観客にはわからないわけです。
(少なくともぼくは、それが視覚でわかるほど“訓練”されてないです……)

「観客にとって見た目がかわいいキャラクター」が存在したとして「劇中においてもかわいいとされるキャラクター」かどうかは、そういうシーンを描かないとわからない。ドラえもんにおける「しずかちゃん」どうですか。説明されなきゃ皆のマドンナかどうか、わかんないですよね。

 それがじゃあまったく無かったかというと、ヒロインが可愛いということそれ自体の描写は劇中でいくらも出てきてるんですよ。

 フリマで晴れを呼んだときに、若くてかわいいお嬢ちゃんにということで主催者が多くお金をくれるときにそういうことを言うシーンとか、冒頭でヒロインはバイトとして風俗か何かをしようとしていたと思うのですが「容姿を武器にできる仕事だと思ってそれを選んだのだろうな」ということも窺えますし、……♪バーニラバニラバーニラ高収入の歌が「貧困から抜け出すためのバイト選び」の伏線として機能してるのもどうかと思いますが。弟の素行や言動からしても「男女づきあい」「モテるということ」などが生活に溶けこんでいるようなマセ方をしている姉弟なのだろうなとか。

 少なからず、ヒロインはこの世界で可愛い姿形をしているぞ、というシーンはいくつもある。でも、それでもどうにもヒロインについて「主人公がこの世界で守るべき可愛い・可哀想なもの」として心の中へ入ってこなかった。

 あれだけの物語、あれだけの描写があっても、「主人公からヒロインへの情が湧いたとして、物語上のどの瞬間にどんなスイッチがあったっけ?」「主人公がヒロインのことを好きかどうかこれじゃわからないままだな?」って感じがいつまでも拭えなくて。

 ここまで観てそれかよってなるのもあるんだけど、好きだったからああいう世界と彼女を秤にかけての選択をしたんだと、だからこそああやって線路を走っているんだと、あのシーンを観てさえも…… いや…… あれは恋そのものでしかないだろ、愛にできることはまだあるだろ、っていうのがこの映画なんだろうけど……

 それならなおさら、主人公がヒロインの良いところを引っ張り上げてくれないと、とも思えるし…… 若さ故に性にかまけるというのをやってしまうにしても、話がちっさくなってしまうからしないと思うし……

 単にぼくの感受性の問題もあるかと思うんで、そこが理解しやすかったらもっと色々見えただろうな、というのはあります。ヒロインについて「要素」や「装置」としてはわかるんですが、「自分の身体が消える運命をわかっていたから主人公への想いを自制している」というのが先に立ちすぎていて、そこに抗う感じがもっと強烈に欲しかった、といえばそうかもしれない。

 もう何回か観たほうがいいのかもと思いつつ、もっとイキイキと、主人公とヒロインには好き合ってほしかったとは思います。

 さて、他の登場人物、とくに須賀の機微や、細かな引用・ギミック、お楽しみ要素などはきっと色んな人が分析や考察をするだろうし、そもそもアニメにぼくは詳しくないので触れないで書きましたが、ここまでにしたいと思います。


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