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かつての女神の面影を追って(映画『トラペジウム』感想)

※トップ画像はAIで作成したものです。
※本記事にはネタバレがあります。
※少なからず批判的な文章も含まれますのでそれらが嫌いな方、少しでも批判があればそれは人格否定と見なしてカッカしてしまう方、ドルヲタのキモオタが嫌いな方は、ブラウザを閉じてスマホを棄てて外に出て元気にラジオ体操でもしてください。

高山一実の強火厄介クソオタクです

 本来なら『ゴジラVSコング 新たなる帝国』の感想を面白おかしく書くのを先にやるべきだったんだけど、高山一実への想いが強すぎて、ゴジラやコングを押しのけて25,000字超の感想を書いてしまいました。まる三日かけてしまったことで他の原稿が全て止まったままなんですが、それは。

 この『トラペジウム』は初日初回を観て、途中で居た堪れなくなって何度も退席したくなり、その気持をぐっと堪えて身を捩りながら観ました。

 帰宅しても気持ちがずっと落ち着かず、SNSでは主人公をサイコだのと揶揄す投稿が流行るなどしてそれも違うと歯痒さを覚え、このブログ記事を書き始めて思考を繰り返すことでどうにかこの映画との向き合い方を得ることができた感じです。

 そして、ブログ記事は一旦下書き保存し、二日目の最終回の席をとって再度観に行きました。

 記事を書きながら考えていたおかげで、この映画に足りなかったものがあらかじめわかっており、二回目は身を捩ることなく観られただけでなく、アニメーションによって浮かび上がる登場人物の機微も、初回より少し深く見つめられました。

 概ね評論としては『傑作の香りがする青春譚であるけれども、おそらく制作上の妥結としたであろうOPでの表現があまり機能しておらず、主人公の妄執が序盤で説明されていないがために、終盤まで主人公の行動が異常なものに映ってしまうのが課題』という論調で、2024年初頭のトピックでもあった「原作改変」を軸として展開しています。

 長い文章ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

原作付き映像作品について

 さて、今年(2024年)の冒頭は原作付き映像作品を巡る痛ましい事件で幕を開けた。

 数々の「事情」で原作からかけ離れた描写が進む実写ドラマと、原作とそのファンを大切に考え、脚本に関わることで悲しみを最小限に抑えようとした原作漫画家。

 媒体の違いとビジネスの違い、ディスコミュニケーション等、大小様々な問題が交錯し、SNSの拡散力によって事情を知らぬ大衆をも巻き込み、ほうぼうで毀誉褒貶が渦巻いた挙げ句、原作漫画家が自死を選択してしまった。

 その後もテレビ局と出版社にて調査や制作姿勢の探求は続いているが、そろそろ4ヶ月が経過しようという今、社会に対して原作付きの映像作品のあり方について、メディアから一定のガイドラインが示されたわけではない。

さて、自分は原作付きの映像作品について、改変容認派である。文字、絵、映像、音楽……。媒体が変われば使用する視聴覚器官からの刺激をどう脳が受け止めるかというのも違う。

 マーケティング視点の強い生き方をしているため、媒体が変われば客層も変わってくるのは当然だという世界観を持っている。原作と映像作品は同じである必要がないと思うほどだ。

 原作が他媒体へと展開されるにおいて、展開先で確保している予算や顧客はそもそも別次元であろう。翻案され、タイトルも変わり、人気の俳優・声優に割り当てるために原作にない人物が補われたり、「予算の都合上」という作品の本質とかけ離れた天井設定も含めて、そういうものなのだ。

 例えば原作が既存の小説であるとして、劇場映画化ともなれば原作そのものの占めうるコスト割合は小さいと考えられる。であれば、映像化権の取得ということで原作者へ原作料を支払って「あとはこっちでうまくやりますんで」とする商習慣は妥当に思える。

 次に原作者ではなく「原作の出版社」がどれくらいの出資比率を持てるかであるが、例えば出版分野であれば「映画のノベライズ権」「映画のコミカライズ権」等を得て、どれくらいのビジネスが見込めるかというところで出資をするものだろう。「原作の内容を大切にしたいからお金を出す」というような定性的なものの見方ではない。「お金を出したことで手元の仕事が増え、その仕事を消化することで、出したお金以上に儲かる」というのが筋だ。

 身も蓋もない言い方だが、原作の内容を大切にすることができるのは、原作の内容を大切にした結果儲かると見込まれるときだけ、ということで概ね間違っていないだろう。

原作の価値はどこにあるか

 本名のほうで小説家をやっている自分が言うのもなんだが、娯楽あふれる現代における一般消費者の趣味ジャンルとして考えると、紙の小説なんてのは単価が低いわりに層が薄いものの一つだ。

 まだそのへんの無料Web小説やスマホゲームやSNSのほうが「文章を顧客に読ませている」し、それらを足し合わせても熟読玩味されている割合は少ない。

 だが小説には「強度のある物語」という代え難い価値がある。客層は薄くともコンテンツ強度の高い作品が稀に存在する。これはそのままでは紙か電子書籍かで小さくパッケージ販売をするしかないが、IP(知的財産権)として他媒体に広げることで、漫画化(コミカライズ)、テレビアニメ化、ドラマ化、劇場映画化、舞台化、ゲーム化、グッズ化……etc.と、産業のパイが広がり、原作者の懐に大金が入るかどうかは別として、大きな経済圏を形成し、周辺従事者の雇用を維持することができる。

 小説が執筆から出版されるまでに関わる人数は、奥付やせいぜいあとがきの謝辞に収まる程度の範囲だが、劇場映画ではそれがスタッフロールに載っている膨大な人数となる。劇場映画化によってこれだけの人を食わせるレバレッジが効いたとも言える。

 もちろん、出版物も映像作品も、出版後、公開後の流通や小売を含めると関わる人・動くカネはもっと広く、大きくなる。

 ということは、商売の構造が違うのだから餅は餅屋ということで他のメディアへの展開はその道のプロにお任せするのがベストだろう。前述した内容とも矛盾しない。

 改変してでも、原作の客ではなく「彼らの客」が最も喜び、最も財布の紐がゆるくなるスタイルでやってもらう、ということになる。それが関わる人々のうち、幸せを享受できる人の最大化に繋がる。

 ここまで述べたことについて、言葉を選ばずに言うと「経済に阿って作品の手綱を手放せ」と言っているわけなので、これについては賛否あって当然だと思う。

 もしプロジェクトにおいて原作者が寄与できる部分があるなら、尽力すべきである。だがそこに「原作の実現(再現)」の企図が必ずしも要るかというと……。ぼくはNOであると考えている。

 伝えたいことや本質は原作の媒体で伝えきる。それを読みこなす人口がそもそも少なかったとしても。原作者にできることはまずそれだ。

主人公と原作者は全然重ならない

 さて、今回こんなことを書いたのは、小説からアニメ映画となった『トラペジウム』についてが主題だからだ。アイドルという概念に翻弄される若者たちの青春譚である。

 もちろん、原作者が元アイドルだからといって、作品内容あるいは主人公を重ね合わせるというものではないし、原作を読んだ時からそんなことは微塵も思っていない。

 主人公の東ゆうは高山一実ではない。長年のファンであるおれが言うんだから間違いない。いや、ファンじゃなくても作者と創作物の区別くらい、普通つくよね……。つかねぇアホがSNSで可視化されて多く見えるだけだよね……。

 それにしたって、このアニメ映画版『トラペジウム』の成立に高山一実は欠かせない。映画のプロモーションについても原作者がインタビューに応えたり番組出演をしての宣伝を盛んにしている。

 特に「ねとらぼ」のインタビュー記事は白眉で、下記発言を高山一実から引き出せていて、原作者とアニメ映画版『トラペジウム』の距離感がよくわかる。

でも、グループ在籍中に執筆していた当時も(卒業した)いまも共通して思うことは……ああいう(※ゆうのような)アイドルになりたかったなあ、と……(笑)。なれるものならなりたかった、という思いですね。

出典:上記「ねとらぼ」インタビュー記事

私は、卒業セレモニーを運良く東京ドームで開催していただいたんですけれど(※2021年11月開催「真夏の全国ツアー2021 FINAL!」)、「ステージからこの景色を見ちゃったら、もう何も感動しないな」って思っちゃったんですよね。ドレスもオーダーメイドでデザイナーさんに作ってもらっちゃって。例えば結婚式は子どものころからすごく憧れていて、そういうドレスとか見るのも好きだったんですけれど、こんなにすてきな経験をいただいちゃったらもう、この先はなんか感動できないな、みたいな。

出典:同上

 そして、映画のパンフレットでもインタビュー記事にて記されているが、アニメ映画化にあたって、高山一実は原作者として相当にこれを監修している。

アニメ化のお話をいただいた際、ご自身が書いた小説が映像化したという方々に、「制作スタッフの皆さんに全部お任せするのがいいのか、それとも要望はしっかりお伝えするほうがいいのか」とお聞きすると、皆さん「プロフェッショナルな方々だから、お任せするのが一番いいよ」とおっしゃっていただいたんです。だから私もそうしようと思っていて、でもありがたいことにいろいろ要望を聞いていただける環境にあるし、偉大な作家さんたちはいくつもの作品が映像化されるけど、私はきっと一生に一度の経験になるなぁと思い始めて。だったらできる限りこだわって、なるべく納得できるいいものを作りたいなと思いました。

出典:アニメ映画『トラペジウム』パンフレット

 原作者としてのスタンスは、先程ぼくが書いた「経済に阿って作品の手綱を手放せ」と比べると、まったく逆の位置にあるといっていい。

 そうなんスよ。推してるくせに、推しとは考えが全然違うんスよ、ぼくは……。

クソオタク、推しの卒業後を嘆く

 原作者の高山一実(かずみん)は日本屈指のアイドルグループ「乃木坂46」時代に原作小説を書き、2021年の東京ドーム公演をもってアイドルを卒業した後にタレントとなった。

 下記リンクのブログ記事を追ってきた方はご存知だと思うが、ぼくはアイドルの高山一実と出会うことによって本当に人生が変わってしまったし、変えてしまった。

 二年ほど前まで、かずみんが自分の人生に与えた影響についてさんざっぱらこのブログで書いてきたのだが、彼女が卒業し、心の中のいくつかの「推し箱」のうち、「アイドル」の箱から「タレント」の箱へとかずみんを移した途端、ファンとしての想いを綴ることは無くなってしまった。

 その理由は、熱が冷めたとか他界したとかいうドルヲタによくあることではなく、もうちょっと強火クソオタク目線の事情がある。

 率直に書く。タレントとなってからのかずみんは、燃え尽き症候群なのか、あるいは事務所やマネージメントの怠慢なのか、アイドル時代に比べると目に見えて活動が少ない状況で、ファンとしてその輝きを十分に浴びること叶わず、アイドル時代の過密スケジュールと比べてはいけないとは思いつつも、贔屓目をもってしても、もうちょっとなんとかならんのかという状況であった。言葉を選ばずに言えば"不甲斐ない"という感覚だ。

(註:個人の感想です。そして最近はテレビで見かける機会が増えているので、ずっとこのままだとは思っていませんし、本人を目の前にしたらそんな不満は心の奥にしまい込んで、「頑張ってください!」って言う自信があります!)

 アイドル時代のかずみんは、乃木坂46で二番目に歌が上手かった。一番目は超人の生田絵梨花であることは否定しようがないのだが、かずみんが二番目というのも確実な話だ。シングル表題曲でセンターを務めたことこそ無いが、在籍中は選抜から落ちたことがなく、歌が上手い上にダンス・振りもキレがあるし手足が綺麗だから何を踊らせてもめちゃめちゃ映える。

 映画『トラペジウム』の中においても、アイドルは歌を届けダンスで魅せるものであると主人公が言及する場面があるが、それにおいて高山一実は及第点であるどころか、比肩できるアイドルはほとんどいなかった。

 東京ドームで観客席をメンバーカラーのペンラで埋め尽くして卒業できたのは、坂系では他に齋藤飛鳥山下美月(3期生)くらいしかいないんじゃないの。
(単独ライブかどうかというのは些末な話です。高山一実がそのステージに立っていたということが史実だし正義なので)

 けれど、乃木坂46の同期にはほかに白石麻衣西野七瀬松村沙友理といった押しも押されもせぬ象徴的なメンバーがいるし、秋元真夏は卒業後に仕事を選んでないんじゃないかってくらいテレビに出まくっている。

 ぼくのブログを読んでいる特撮オタクだったら、生駒里奈が仮面ライダーゼロワンの劇場版にフィーニス役で出たり、キングオージャーのアイドル回でJ.Y.Parkのモノマネをする幹部怪人に突然呼び出されてセリフを二言三言発する役で無駄に使われたのを覚えている人もいると思う。同世代が芳醇すぎるのだ。(キングオージャーの例はあまり適切じゃないだろ!)

 そんな強豪の中にあって、演技力やバラエティ力よりも突出して「歌」という得物があるのは強い。個人的な要望混じりで言うと、アイドル時代に「レトロ好きの昭和キャラ」を公言して新聞に連載をしていたり、NHKの朝帯番組でレトロ特集に呼ばれていたほどなのだから、秋元康作詞オンリー縛りで、往年の昭和アイドルソングカバー集CDとか出してほしい。おれは本当に秋元康作詞の作品が好きなんだ。

 でも、タレントとなってからは歌を披露することは無くなってしまった。

 小説家としてはどうかというと、今回の主題である『トラペジウム』の原作小説は、芥川賞・直木賞作家でもホイホイ出せないような部数を叩き出している。30万部を売る作家ってそこらへんにゴロゴロ転がってるわけではないですからね。

 でも、卒業以降長編を執筆・連載・出版することは無くなってしまった。

(註:現在、短編やエッセイが掲載されることが増えていっていますし、外からは見えないところで長編が書き進められている可能性はあります)

 テレビ番組の出演では、レギュラーのクイズ番組『Qさま!』や『私が女優になる日』でのアシスタントはあれ、それ以外では見かけることが少なく、卒業直後からレギュラー出演していた『ほほおちゴハン!』は半年で番組改編の波に飲まれ、ラジオでメインパーソナリティを務めていた『おとなりさん』も一年半で卒業してしまった。NHK連続ドラマで主演を張った『超人間要塞ヒロシ戦記』はファンとしては嬉しかったがドラマそのものがハネたかというと微妙なものでして……。

 レギュラー番組があるというのは良いことなのだけれども、反面、番組そのものに興味のない人、時間帯的に見られない人はまったく高山一実の姿を目にすることがない。「なんか知らんけどいろんな番組出てるね」という一般的な印象にまでは至らないというわけだ。

(註:現在は以前よりテレビで見かけることが増えてきています)

 同期に強キャラが多すぎたというのもあるが、本人の謙虚さもあって、本来は世間でめちゃめちゃ通用する才能があるのに「私ごときが滅相もない」となってる可能性もなきにしもあらずで、その点も歯がゆいといえば歯がゆい。

 まあ、おれがもし女に生まれていて同期に白石麻衣みたいなのが10人も20人もいたら、そりゃ自分にある程度の才能があろうが、格差を感じて何をするにも萎縮してしまうだろうな。でもそんなの、世界には何百万人も自分より上のやつがいるはずだから、そんなもんだと思ってやっていくしかねぇんだ……。

 でもさぁ、タレント業って本人が謙虚だとかそういうことに関係なく、事務所とマネージャーが「知名度の上がる仕事」「ギャラのいい仕事」「どちらでもないが本人に合っていて負荷が少ない仕事」ってのをもぎとってきてバランスとるもんでしょ。"営業"ができてないってことッスよね!? そんなんで大丈夫か?

 いや、既存のファンにとっても全然大丈夫じゃあない。

 まず、公式アカウントの告知にムラがあって活動がよくわからない。スタッフが更新してんのにこんなもん? ってなるくらい。公式サイト、X・インスタ・TikTokが連携されていなくて予告が薄いから、全部の通知をONにしていないと、いきなり配信ライブが始まってしまい気づかないうちに終わってしまうなんてことが起こるし、タレントのゲリラライブ配信はそんなもんかと思うけれどじゃあスケジュールドな配信があるかというと、無い。

 かといってまったくのゼロかというと、知らん中国のSNSで日本の弁当を紹介してる動画がたまに更新されている。中国向けの仕事だからなのか、日本人向けの案内が無い。

 番組出演告知も直前だったり放映後にTVer見ろ的なやつだったりするし、ファン有志がやっている「高山一実後援会」というアカウントのほうがちゃんと出演番組の投稿をリポストしてくれているという有り様。

(お疲れ様です。おれは文句たらたらなのに、有志が黙々と情報を流していらっしゃるのはマジでリスペクトですわ……)

 出演告知に関しては公式サイトのスケジュールを見とけって話かもしれんが、今どきWeb巡回しなきゃいけないのかという気もするし、総じてSNS広報は地底アイドルや素人バンドでももうちょっと上手くやってるぞ、ってレベルに感じられる。

 日々、タレントの盛れてる写真の1つや2つを見たり応援コメントつけたりしたいじゃないですか。拡散したいじゃないですか。そういうファンサ的やり取りの余地も無い感じで、まったく予算(スタッフ)つけてもらってないとかなんですかね……。

 あと、Webのゴミみたいなメディアありますよね、「タレントの○○が自身のインスタグラムを更新した。〜という持論を述べた」みたいなやつ。ああいうのにかずみんの投稿が拾われてしまうのはクソっぽい出来事だけど、でもそれで広がっている裾野というのもあるにはあるので、いま一度、波及効果の見込みを含めて、なんのメディアで何を配信して、どのアカウントでファンサをして、どのアカウントを告知用として拡散の起点にするか、整理してほしいんスよね。

 例えば、インスタは本人が更新して本人感とプレミア感を高めよう、ライブ配信についてはゲリラなら本人が基礎フォロワーの多いインスタでやって、収益を見込むガチの配信は、企画を詰めてから事務所でメイクも小道具も用意してTikTokやSHOWROOMでやろう&スパチャを得よう、スポンサーのついてる配信ライブは商売としてはBtoBで完了しているので拡散はスポンサー公式アカウントにまかせて基本リポストにしよう、テレビ出演情報は公式サイトに最速で集約しておき、これらの告知をX(Twitter)やThreadsでスタッフが定期的に漏れなく流すワークフローを作っておこう。みたいな整理。

 リソースが無限にあるなら「なんでも全部やっちまえ」でいいんですが、相当リソースが限られているように見えるので。まぁこれは、多くのタレント、アイドルについても言えることかもしれませんが……。

 ファンクラブ会員限定で買えるグッズも、もうちょっと何とかしてくれという出来。わかりやすい例でいえばカレンダー。2023年版は配信で「皆さんが使いやすいように月曜始まりにしました」とまで言って実用にこだわってくれていたのに、2024年版では月ごとに日付が一直線に並んでいる月と、曜日×週の一般的なカレンダーになっている月があって使い物にならず、もうちょっと嫌味を言うと月替りフォトスタンドとして使おうにも、12ヶ月で衣装が6種しかない。ハァ? そういうところをケチるな。美人なんだからそれに応じたロケとメイクと衣装に予算つけて、めっちゃいい写真を撮らなかったら魅力が減っちまうだろうが。それにアナザーカットはブロマイドにして売れるだろうが。ファンなら何でも有り難がって買うわけじゃねぇと思いつつ、有難がって買わせていただきます。

 グッズってのはファンが常時目にしてその火を絶やさないための有料宣材、推し心の維持アイテムなんだよ。仏壇や神棚があったら毎日拝むでしょう?

 ブロマイド用アルバムも、表紙が変。デザイナーが途中で死んだかなんかしてバイトが穴埋めして作ったんじゃないかと思えるくらいの雑コラ状態。無地に勝るデザイン無し。切り貼りに使われている高山の写真が可哀想。タレントはタレントそのものが商品なんだから、公式周辺グッズがタレントの価値を毀損しちゃダメだろ。ていうかこのアルバムに入れるための新しいブロマイドをもっとたくさん売ってくれ……。

 さて、早いところ映画の話に移れという読者からの圧を感じてきたんですが、珍獣を見る感じでもうちょっと我慢してください。これが映画を読み解くのに役立つと信じて書いているので。

 ファン向けイベントもオンライン/オフラインに限らず行われるのだけれども、小規模なので抽選になってしまい、参加が難しい。単価を高く設定した有料イベントを大きなハコでやっちゃダメなんですかね……?

 色々不満はありますが、なんかタレントの知名度の大きさに対して商売の範囲設定が変なんですよ。小さくまとまるにはもの足ず、大きくするにはそんなにコストかけらんない、という狭間に位置しているということなのだろうけれども。

 アイドル時代のようなステージやイベントといった熾烈な現場仕事が卒業とともに無くなったとはいえ、タレントも知名度商売であることには変わらない。

 接触機会をコントロールしているようでいて、労力少なく露出を維持できるネット手法の頻度が一定しないというのは、複雑な計算などするまでもなく、単純にタレントの価値を毀損している怠慢なマネジメントだと思う。ほんと、もうちょっとSNSは頑張ってほしい。

としをとって アイドルを やめたひと

 こういう拗らせ方をしてきたわけだが、『トラペジウム』公開前に感情が爆発してしまった極めつけの事例がある。

 先般発刊となった絵本『がっぴちゃん』。マジで憤慨。出版社は高山一実を何だと思ってるんだ。

 これさぁ。出版社(KADOKAWA)はちゃんと絵本の作り方を高山一実と絵の担当にレクしたんか? 書店で売れてる絵本をランキングの上から30冊もってきて打ち合わせで並べ、「人気のある絵本は概ねこういう構成とページ配置と文字の大きさと文章量になってます」「ターゲットとなるお子さんと親御さんはこういう方々になるので、方向性はこういうものがふさわしいです」くらい示したか? ところざわサクラタウンに入っている書店は飾りか?

 KADOKAWAだったらロングセラーの「パンどろぼう」「ねないこだれだ」出してんだからノウハウわかんじゃん。高山一実が絵本に挑戦する企画があるとして、いきなりホームランを打たせることはできなくても、アウトをとられない方法論はあるでしょう? なんで見開きにしたときに左と右上と右下で違う絵と文字が描いてあるWeb漫画みたいなコマ割りを編集はスルーしてんだよ。一枚絵で左から右へと状況が変わる際の表現ってあるでしょ? 読み聞かせを意識したレイアウトってあるでしょ? 江戸時代の絵巻物だってそうなってんだから、ちゃんと先人の知恵を素直に使え。

 絵本は十年レベルで長く本屋に置かれ長く売れるように作らないとならないんだから、高山一実の最初の絵本として出版社のもてるノウハウを惜しみなく注入して作ってくれてもよかろうに……!

 そして絵本の帯。帯文、誰だ考えたの。というか、もし万が一、高山一実本人が書いてしまったとしても、営業は羽交い締めしてでも掲載をストップしろよ。

きみは アイドルを しっているかい?
これは としをとって アイドルを やめたひとが
あたらしい ゆめをみつけて つくったえほんだよ。

出典:KADOKAWA『がっぴちゃん』裏面の帯文

 この「としをとって アイドルを やめたひと」っておい! そのさぁ、「歳食ってアイドル辞めた」と自虐混じりで評されるかずみんを推してるファンはどういう面持ちでこれを読んだらいいんだよ。べつにアイドルを卒業した理由は年齢じゃないだろ。年末にテレビつけると必ずやってる野球選手の戦力外通告ドキュメンタリーじゃないんだから余計な情報をかずみんの歴史に付け加えるな。

 ファンにはどうにもできないことなんだから、ちゃんと高山一実というタレントをプロデュースしてくれ、マネージメントしてくれ、としか言いようがない。それともわざとタレントを追い込んでネグレクトみたいなことしてんのか? もしかして『パーフェクト・ブルー』か?

嫌だよ、おれは。そうやって行き場をなくしたタレントが謎の占い師やら整体師やらにつけ込まれて周囲との人的関係を断たれ、金を吸われ、15年後くらいにテレビの「あの人は今」とか「しくじり先生」とか「じっくり聞いタロウ」に出てきて「いや〜、大変でしたね、すべてを失いました」とか言うやつ。

 ううう……。厄介ヲタのクソ思考を開陳してしまったが、推しが不甲斐ないんじゃなく、ほぼ芸能事務所やマネジメントやプロデュースへの愚痴です、すみません。

 けれど、ここまで積年の不満をぶちまけて、一抹の不安が頭をよぎる。

……もし、タレント本人の意向が反映された結果がこうなのだとしたら。

 これらが全部、高山一実本人の意向によるもので、芸能事務所やマネジメント層はすべてを汲みつつ、ギリギリで商売が成り立つようにコントロールをしながら、可能なコストの範囲内で支えていたのだとしたら……?

 歌もとくに歌いたくない、小説も新しく書きたくない、テレビ出演はほどほどでいい、ドラマ出演も月9じゃなくていい、SNSも炎上リスクがあるくらいなら投稿しなくていい、あまり盛れてない写真をアップするくらいならたまに納得いくものが投稿できるときだけでいい、ファングッズも指定したデザインで作ってくれればいい、そんなに告知を密にしなくても、見てくれた人が反応するくらいでいい、なぜなら、もうAKB商法や地下ドル紛いのファンサをする必要もないくらいに、高山一実は「としをとって アイドルを やめたひと」だから……。

 全部辻褄が合ってしまわない? えええええ……。流石にそれは無いでしょうよ。それともある……とか?

 ぼくは前述したとおり「経済に阿る」思考をしすぎるから、タレントかつすでに知名度を得ている人物が、それを有効に用いないということに不満を抱きやすいという自覚はある、あるよ。すごくある。

 あるからこそ、かずみんの望む生き方に、まったく合っていないことに気づいていなかっただけ……か?

 ド天然叙述トリック。思い描いているタレント像に合わないからと不満をぶちまけていたサイコパス野郎はおれでした〜……ってコト!?

 そして、アニメ映画『トラペジウム』についても同様で、鑑賞した人それぞれ様々な感想を抱いたと思うんだけど、この映画のひっかかる箇所について……。

 もし、原作者本人の意向が反映された結果がこうなのだとしたら。

 ではやっと、『トラペジウム』映画本編の内容について書いていきたいと思います。

原作改変は概ね良い方向に

 あらすじはほぼ原作どおり。

 主人公の「東ゆう」はアイドルになるということを成し得たい少女であり、自分以外に南・西・北の地域で素質ある3人の女子を仲間にし、ついにアイドルデビューを果たす。しかし過酷な日々に脱落するメンバーが現れグループは瓦解。当面の和解をして、それから八年後。アイドルとして初志貫徹した東とほかの3人は再会し、当時の自分たちに思いを馳せる。

 このように、内容はみずみずしいほどの青春譚で、思春期ならではのすれ違いはあれ、例えば、世界に定められた命運に翻弄され地球に迫り来る未曾有の危機へと立ち向かって超能力を発揮するような、アニメ映画に流行りのSFスペクタクル要素は一切無い。まっすぐに等身大の人間のドラマである。

主人公に妄執があることの説明不足

 この映画の全てを通じての苦言として、まず主人公の説明を冒頭でしてほしかった、というのがある。

 主人公の東ゆうは、言ってみればある種の狂人だ。アイドルになりたいという気持ちを、妄執に駆られているのではと思えるほど強く持っていて、でも原宿でスカウトされるわけでもなく、オーディションを受けたり事務所の門を叩いたりということでもなく、「メンバーを集めて徐々に周囲に認めてもらってデビューをする」という形での成功を頑なに思い描いている。

 しかもメンバーは美少女でなくてはならず、その立ち居振る舞いに自分の持つイメージと齟齬が出ようものなら舌打ちも出るし、無神経な物言いもする。メンバーと一緒にいても思い描いていた方向に進まないのであれば、始終つまらなそうな顔の塩対応をする。

 この描写、バンドものだったらわかるんですよ? メンバーがまず集まらないことにはバンドにならない。それに、各人の演奏スキルが良くなければデビューからは遠くなるので、個人のスキルセットを過大に求める意味もハッキリしている。観客にとってもそれはわかりやすい。主人公が他のメンバーにスキルアップを強いてすれ違う展開も、よくある。

 けれど、主人公が方針を一切説明せずに仲間を集めていくので、主人公が型枠だけ作っていることはほんのり伝わりつつも、中身を流し込むという過程がない。「おかげで東西南は、瞬間接着剤並みの粘着力で固まった」というくだりはあるが、あくまで友達としてである。

 中盤でカメラマン志望のシンジ君に聞かれるまで、東ゆうはセリフとしてアイドルグループを成すことが夢以上に実現されるべきものであるということを一切説明しない。当然、観客も詳しくは知らない。

 と書いたら、公式からこの妄執が端的に描かれているシーンがYouTube公開された。これだよ、これ。これが東ゆうなんだよ。いやぁ、これを公開したの、SNSで主人公がサイコだと曲解されて伝わっているのに乗っかったんですかね……。

 終盤のセリフでわかるんだけど、実は東ゆうはオーディションに落ちまくっている。それって(自分以外を)美少女で揃えるという妄執の一端を十分に担う出来事なんだけれども、導入で明示されていないから、観客は掴みどころを見失う。

 あるいは亀井美嘉と出会うシーン、書店で主人公はビジネス啓発系の本を手に取っている。アイドルとしての成功への執着がこんなところにも現れている。

 だから、全編を通して描かれていないのではなくて、あくまで「冒頭に描かれていない」から中盤まで主人公の行動がおかしく目に映ってしまう。

OP映像をよく観てみると…

 この映画の広告キャッチコピー、「はじめてアイドルを見たとき思ったの。人間って光るんだって。」なんですよ。ならば、東ゆうが初めてアイドルを見たときの衝撃と憧憬、その後の努力と挫折をまず映像にすべきでしょう。

いや、映像になっているかいないかというなら、なっている。

 すでに鑑賞済みの人も「そんなシーンあった?」となると思う。あったのである。OPで全て、象徴表現されている。ご丁寧に映画の冒頭から主題歌までがYouTubeで公開されているのでご覧いただきたい。

 よく見ると、のっけから主人公視点で「ステージで客席の無数のペンラの光に包まれているシーン」が描かれており、これがアイドルになった自分を想像したもの、すなわちアイドルになることへの想いがとても強いということがわかる。

 主題歌が始まってから、おそらく東ゆうが辿ったであろうアイドルに関する挫折が描かれる。ノートから紙人形が立ち上がってダンスをし、長机に座った審査員の前で演技をするオーディションを受け、再び独りになってから何らかの書類を丸めて棄てて蹴るのだ。 

 次に、方位磁針がこぼれ落ちて割れた箇所から、小学生時代に海外へ渡った少女の孤独が描かれ、テレビを通じたアイドルと少女との出会い、そして輝かしい星を掴もうとする少女が描かれる。

 え……これ、完全に東ゆうの"オリジン"じゃん。マーベルのヒーロー映画に匹敵するオリジンが、ちゃんと描かれてんじゃん。

 そうなのだけれども、いやぁ、OPはあくまでOPなんだから、これをもって「東ゆうは憧憬とともに妄執に駆られアイドルへの道を歩んでいるのです。説明おしまい」とするのは無理がありすぎじゃ? 毎週放映の1クールアニメだったら、このOPがシーズン通して使われつつも、1話ではこれをストーリーとしてキッチリやるわけですよね。劇場映画でこれに割ける時間は少ないことを考慮に入れても、原作改変してでも入れるべきシーンだったと思う。

 東ゆうが亀井美嘉にボランティア活動をもちかけられてピンとくるのって、アイドルとなった後で過去にボランティアをしておいたという実績があったほうがよいっていう理由付けがされているけれど、小学生時代にボランティア活動を息を吸うようにする海外文化に触れていたからっていうのも大きいはずなんだよね。

 ただし「過去において主人公が輝きに出会っており、その輝きを目指して成り上がっていく」というのは、他のアイドル題材アニメでも何度も描かれているので陳腐なものになってしまうという懸念がある。だが、そんなの百も承知だ。ありきたりだからこそ王道なんですよ。

 ありきたりでも、多くのアイドルをモチーフとしてアニメ作品がそういった"オリジン描写"を大切にしているのは、世界設定と主人公の世界観とはどういうものなのかを知れるチュートリアルだから。

 その上で、『トラペジウム』が王道に留まるものではない独自性を打ち出す。オーディションに落ちまくる等の挫折を通じて「ならば誰もが認めざるを得ないグループを先に作ってしまえば、競合もなく確度が高まる」という主人公なりのロジックを明確に示すべきだったのではないか。

 この重要なシークエンスがOPとしてさらりと流されてしまっているので、何故に東ゆうが地域の南・西・北を巡って美少女のメンバーを集めようという一見非合理的な行動をしているのかが観客にスッと入ってこない。

 他メンバーを東京に出て原宿でスカウトすれば? 地下のライブ行って引き抜けば? そもそもオーディション受かれば素質あるメンバーと組まされるものじゃないの? 東西南北の概念ってそれほどマーケティングとして引きのあるギミックではないんじゃ? そういう疑問符が観客に浮かびっぱなしになってしまう。

 映画としては「そうじゃないんだって」ということになるが、一度浮かんでしまった疑問は映画を観続ける上でのノイズにしかならない。

 ここまで考えて、では映像作品のプロたる制作陣がなぜオリジン描写に尺を割かず、OPのイメージカットとして詰め込むことで済ませてしまったのかに思いを馳せる。OPに入っているということは制作陣はそこに意識が向いていたということだからである。

 完全にアニオリになってしまうからか。いや、アニオリとなった改変ポイントは他にもある(後述)。上映時間を考えると尺が足りないからか。原作の導入部を尊重したかったからか。それとも原作者がきっちり制作に関わっていた……から?

 ぼくが当然と思って鼻息を荒くしていることの真逆を、かずみんが大切にしている可能性。

 もし、妥結点が「東ゆうのオリジンについてはOPに収めてしまうこと」だったとしたら、やっぱりおれが不満に思ってることって……徹底的にかずみんの想いと合ってないってことなのかも?

 またかよ!

ノート表現に頼りすぎている

 ここまで、原作改変をしてでも東ゆうに関するオリジン描写を追加してほしかったと書いたわけだが、これに関連することがもう一つある。劇中に出てくる「ノート」に東ゆうの行動原理の説明を頼っている(依存している)フシがあるのだ。

 実際には、目標が書いてある、目標への筋道が書いてある、現状分析とPDCAを書き足している。けれど、「こんなノートをつけてしまうくらい主人公は信念に真っ直ぐなんだ! エヴァで言えば死海文書をなぞって行動しているゼーレみたいなもんなんですよ、東ゆうって子は!」というのがちょっとわかりづらい。

 わかりづらい理由も明確で、映画見てる時に、小道具であるノートに記載されていることに目、配れますか? ぼくには無理です。そういうことです。

 くるみにノートを見られそうになって隠すシーンがあることから、アイドルになること自体を仲間にも秘密にしていることはわかるとはいえ、ぶっちゃけ「そのノート何なんだよ」になる。

 これが最適解というわけではないが、古文書だろうがノートだろうが、映像作品で内容に言及される場合、大抵は文面を指し示して、あるいはペンを滑らせながら記載しつつ内容を復唱するなどの説明セリフがあった上で、スクリーンでの字が読めなくても「あ、こういうことを書いていたのね、こういう気持ちが主人公にあるのね」とわかりやすくしたりする。

 ちょうどNHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の新作をやっていたので見た人はわかると思うのですが、「ヘブンズ・ドアー」を使ったときの「本」表現、どうですか。視聴者へ伝えたいところは紋切り型の文章、もっというと見出し文字で済ませていますよね。そして岸辺露伴が興味を持った、ドラマ上必要な箇所は適宜読み上げている。書き込んだ文字も下地に紛れて見づらいのでちゃんと読み上げていたし、ラストあたりで書き込んだ文字は、冒頭の書き込みシーンと違ってすごくわかりやすくしてあったですよね。書き込まれた相手がそういうやつだった、というのもあるんですが、同じドラマ内で書き文字への濃淡をきちんとつけている。

 でもこの映画にはその余裕がない。ノートが画面に映った時、たくさん書いてあるからノートのどこに注目していいのかわからない。注目できるときは、上記のようにわかりやすく「大きく書いた文字に大きく赤丸をつけ、モノローグが添えられる」ときくらい。

 たぶんこれ、ノートってのは映像企画時の「発明」だったのだと思う。わかりにくい東ゆうの目的や手段を象徴するものとして、原作には無いノートを登場させよう、という発明。

 先程の本編冒頭映像でもわかるのだけれども、最初のシーンからしてノートを閲覧する東ゆうから始まるので、ひょっとしたら「主人公は東ゆうだけど主役はノート」という位置づけくらいでやろうとしていたかもしれない。

 あ、この「主人公は○○だけど主役は△△」というパターンは作劇上よくあるもので、「主人公は康一くんだけど主役は仗助」とか「主人公ははるかだけど主役は桃井タロウ」とかそういうやつです。

 このノートの文言には先述のインタビュー記事にもあるように、高山一実の監修がちゃんと入っていて、東ゆうが書きそうなことがちゃんと書いてあるし、他人に見られて困るようなことは書いていないそうです。

 それくらいのこだわりで作られているのに、映画は文字情報をすべて読むのを前提とするかのようにぐいぐい進んでいってしまう無頓着さがある。

 例えば、最後に仲間になる亀井美嘉について、東西南北の最後のピースを埋める人材ではあるけれど、このまま亀井美嘉を仲間にしていいのかってひっかかっているところに、亀井美嘉からボランティアというキーワードを出してきたので、東ゆうの頭の中で帳尻が合ったシーンがあります。

 このシーンは、原作だと小学生時代と顔が変わっていること(=整形)について長々と分析するくだりがあって、主人公が亀井に抱く懸念を相当に大きくしてあったのだけれども、それを映画ではノートへの書き込みで(詳しくは覚えていないが「整形…いい」みたいな感じ)済ませてしまっているので、好感触の上での即断に見えてしまうんですよね。実際は補欠当選だったくらいの差がある。

 後でわかる亀井美嘉から東ゆうへの巨大感情に比べて、東ゆうのほうはそれほどでもない。この巨大感情のすれ違いというのは特撮オタク向けに説明するとぶっちゃけ「キタムランド」です。

 ボランティア初収録の帰りに亀井美嘉の怒りを受け止められない東ゆう。答え合わせは、終盤で亀井から「私はね、東ちゃんのファン1号だったんだよ」で為されるが、その頃になれば観客の東ゆうへの解像度が上がっているので理解できるのだけれども、このあたりを際立たせたかったら、序盤で東ゆうの妄執をきっちり説明すべきだったんだよなぁ。

 ノートが奏功していたシーンについても書く。

 文化祭で東ゆうはバンドの上演を見に行くつもりだったが、サチが現れたことで行かないことになり、チラシを丸めてポイと捨てるシーンがある。これも、その手前でノートとチラシが写っていて、東ゆうにとってこのバンドの上演をメンバー全員で見て、刺激を受けようという魂胆があることが示されてるんだけど、やはりノートなのでちょっとわかんないんだよね。

 で、それほど大切な啓蒙計画を丸めてポイしても、次に訪れたコスプレ写真コーナーでの仲間との楽しい一瞬を作れて、それが後々になってラストの「写真」として効いてくる。

 原作ではバンドを見に行きたがっていたのはくるみで、二組に分かれて別行動をとることになっている。そこから考えると、東ゆうがノートに記した計画をポイと棄て、表情は徹頭徹尾つまらなそうであるのだけれども、後に繋がる笑顔の「写真」をみんなで撮ることなったという「原作改変」はとても意味のあるものだ。すなわち、ノート(東ゆうの妄執)だけが人生を彩るわけではなかった、という示唆。

 こんなふうに、ノートというアイテムの重要性は、後で触れる「トラペジウム」のノベライズ(小説原作の映画化の小説化ってどういうことだよ)を読むと、その内容が地の文として書かれているので納得なんだけれども、映画館でスクリーンを見ながらというのは、かなり無理だ。

 副読本がなくてもわかるように映像とセリフできっちりやってほしかった。モノローグばかりになるのを避けたいというのも理解できるので、現状がベターなのかもしれないが……。難しいものだな。2024年の今だったら、AIチャットボットと作戦会議をするみたいな描写が入るのかもしれない。

 そして、なんでこんなにノート描写のことを掘り下げているかというと、実はぼく、東ゆうみたいなノート、つけてるんですよね……。未来にどういう自分になりたいかを定め、そこに至るまでに何をすべきかを書き、軌道修正を書き込んで自身の行動を卜っている。

 なぜならば、おれは光を得て、アイドルと同じ地平に立ち、同じ景色を見たいと願っている人間なので。本当に厄介だな……!

 ノートにこだわりを込めたかずみんと、ノートの効能を知るゆえに、わかりづらいから主人公のオリジンを説明しろというぼく……。つらい……。

観客の現代的認識とのすり合わせ

 原作では「SNSはやらない」「学校では目立たない」「彼氏はつくらない」「東西南北の美少女を仲間にする」という4箇条を強く推していて、これを主人公が金科玉条であるとしているからこそ、思う通りにならない現実や他メンバーに対しての苛立ちがわかりやすくなっている。

 ルールがあるのだからそれに反したら苛立つのも当然だよね、とも思いつつ、じゃあそのルールをメンバーに徹底できているかというと、そこは主人公には伝えていない狡さと伝えられていない拙さの両方があるよね、と理解できるようになっている。

 とはいえ、2018年というコロナ禍よりも前に(!)出版された原作であることを勘案しても「今どきSNSしないとかアホだし野良アイドルなんてTikTokで目立ってナンボでしょ」という現代の観客が持つ認識とのズレは不可避なわけです。途中で「SNSをやるように言われた」となって、ご丁寧にTikTok風インターフェースのアプリが画面に出てくるから尚更というところ。

 このズレへの対応だと思うのだけれども、映画版では敢えて4箇条を強調しないでいる。映画のチラシにはちゃんと4箇条が書いてあって、あ、このチラシは原作紹介文と出演者情報を参照しつつ、映画会社から与えられたスチルを組み合わせて作られたんだなって、わかってしまうわけですが……。そんなことわかってもしょうがないな。

 ここはさっきのノートを補完する形で、活動のルールを示し、しかしそれを遵守することで目標達成に近づくという信念が主人公の中にある、と明示しておかないとならんわけですね。

 洋画『イコライザー』のマッコールさんだって、最初に「こいつは世に紛れた狂人だが思想信条と正義があってしかも強い」ことをちゃんと描いているからこそ、続く話のスケールがデカくなってもキャラクターが耐えられるし、観客も目が離せなくなっていくわけじゃないですか。東ゆうもそういうふうにしてほしかった……って、マッコールさんと並べて語られる東ゆうって何者だよ?

 それがないので、映画の開始とともにぬるっと出てきた主人公が道場破りが如く他校に現れ、テニス勝負に巻き込まれ、勝ったわけでもないのに仲間が一人増える。これを普通に撮ったら意味不明の映像になってしまうが、でもそれを敢えてやっている。

 そこらにあるストーリーものなら「勝つと何かが手に入る」というパターンを示してから「勝っても手に入らない」とか「負けても手に入る」というバリエーションを提示することが考えられるが、そうなっていない。そうなっていなくて問題ないのだけれども、東ゆうには信念と覚悟があるからこういう行動なんだよ、というのが映画と観客の間で全然すり合わせできていないので異様な光景に感じられる。

 ここに関しては原作に忠実すぎると言える。映像で素直に原作再現してしまったことで、単に癖の悪い雑な女が学校の銘板を蹴ったり、画面内でこちゃこちゃやっているように見える画となってしまった。すごいもったいない。

 でもここ、東ゆうが中指を立てていないくらいで、きっちり原作どおりなんだよなぁ。原作者の表現したことを映像化できている。

……やっぱおれが小うるさい厄介ってだけな感じしてきたな。

主人公以外が薄いことの許容

 ここまでの「もったいないポイント」をあわせると、主人公は、自分の打ち立てた目標に向かってその手段でさえノートに書きつけた通りではないと気に食わない頑なに成功への執着と信念があるという狂人ではあるが、それをノート表現に頼ってしまったがために、すり合わせが映画と観客との間でできていない、となるんですが、そうした結果さらに不幸なことが発生している。

 それは他の登場人物が全部「モブ」同様に見えてしまうという点。仲良しメンバーでさえネームドのモブのように見える。いわゆる脚本のロボット。

 これは「主人公から見てそのようである、自分の目的のために他人をぞんざいに扱ってしまう」という描写のことではなく、映画としての登場人物の扱いがこれに近いものになっているのが惜しい。

 これは、キャラクターがペラペラということではなく、それぞれどんな境遇にあるのかを窺い知れるようにはなっているのだが、掘り下げている尺が圧倒的に少ないからにほかならない。

 顕著なのがボランティアのおじいさんの伊丹で、伊丹を中心としたドラマがそれまでに発生していないのに、ラスト近くで「じゃあ、これから、どうするんですか?」と主人公に重要な言葉を投げかけてしまう。ちなみにこのシーンは原作には無い。無いんだよなぁ……。なんでこれ入れちゃったんだろ。

 原作では第五章から第七章までを使ってボランティアの件を描写しており、かなりのボリュームになっている。アニメ映画版『トラペジウム』における量的な最大の原作改変はここだと思う。量的と書いたからには質的なものもあって、それは後述する。

 ボランティアに関して、東ゆうは有名になるためにボランティア活動を利用したこと、ボランティア活動中にテレビ番組に取り上げられるチャンスを得たこと、活動そのものには執心していなかったことは描かれているが、主人公とボランティアに従事している伊丹らとの間でのドラマが無い。どちらかというとその役どころは亀井美嘉に負わされている。

 ボランティアについてまったく描かれていないわけではないが、時間内では主人公と伊丹はじめボランティアの面々とうまく絡ませることができなかった、あるいはドラマが細かい諍いの描写に及ぶとストレスなのでわざわざ描かなかったのだと思う。

 だがそれ故に、伊丹との繋がりがとても薄いまま、「じゃあ、これから、どうするんですか?」と投げかけられても、主人公が次へと行動を移すのは難しくないですかね……? という引っ掛かりに繋がってしまった。

 こうなってしまった理由はなんとなく透けて見えていて、一人称主観である原作を、映像の制作過程で、三人称客観へと描き起こすなりした際に群像劇にならなかった、なり得なかったからだと推察される。

 ただこれは、誤りではなくて取捨選択の結果というだけだろう。

 原作が一人称主観で他人をぞんざいに扱っていたとして、三人称客観にした瞬間、ソデにされた人間の心情やそれに基づく所作が必要になるものだ。だがメンバーほか登場人物の、原作では描かれておらずセリフにも出ていない「このときどう思っていた」を徹底的に詰めていくことでそれは補完されるものでありつつ、あらたな視点を加えて詳細に描写すると原作改変の規模も広く大きくなってしまう。一人称主観の原作小説には無い部分だから。それに、3人のオリジンをわざわざ描くと冗長になってしまうジレンマもある。

 主人公がいない所でくるみと蘭子が会話してるシーン、すごく良いんだけど、もうちょっと手前でそれぞれの掘り下げがあったらなぁ、バランス難しいなぁ、と感じた。

 このあたりを調整した故に、各登場人物はリアクションをするキャラクターにはなっているが、アクション、すなわち自発的なドラマへの関わりが薄くなってしまった、というところではないだろうか。

 メインキャラクター(4人+シンジ)、サブキャラクター(伊丹や古賀や馬場や遠藤)、モブという区分けがあったとして、サブキャラクターまでモブ寄りになってしまっている、と言えばわかるだろうか。尺が足りないということで片付けてしまっていいのかはわからない。

 主人公以外の3人が人物的な深みを感じさせつつも記号的な役割に終始してしまい、東を含めた4人が「トラペジウム(不等辺四角形)」であることを実感するのが難しい。Z軸の高いところに東ゆうをプロットした三角錐という感じ。

 そこでキービジュアルを見てみると…そうなってるじゃん!

出典:映画『トラペジウム』公式サイト

 それぞれの人生があって、アクション・活動があって、不協和音もあってトラペジウムが成り立つというところ、アニメ映画版においては改変をもってしても東ゆうの物語の枠組みから出ることはなかった。
お、「不協和音」を混ぜ込んだあたりドルヲタっぽいゾ)

 そういった側面はあるが、きっちり東ゆうの物語にはなっているのだから、否定されるものではない。できれば深く描写されてほしかったけれども、1クールアニメじゃないしなぁ、という。

 また、先程からぐだぐだ書いている件と繋がっているわけだが、東ゆうの物語に振り切ったからこそ、東ゆうのオリジンを説明しなかったことが尾を引いてしまっているのだと思う。

 不協和音という点で、登場人物たちを良い子の集団にしたくなかったというかずみんの発言は下記動画にて。

 でもこれ、高山一実の意図が映像制作側へ伝わっていたようで伝わっていなかったか、ストレートに伝わりすぎていたのだとも思うんだよなぁ。

質的な最大の原作改変ポイント

 『トラペジウム』の4人は不等辺四角形がモチーフであり、劇中でも何度もオリオン座のトラペジウムが強調されている。各人はバラバラで、でもそれぞれが歩む人生において明らかに輝ける星であり、4人は"辺"で繋がっていて、星空を眺めた人間にとってはすべて明るく意味のあるもの(=青春)になっている。

 そして、アイドルやそこへ向かう青春だけがそう評価されるものではなく、人生を送ることそのものに輝きと意味がある、ということがこの映画の本質だ。

 これをしっかり担保したのが、終盤でそれなりに尺の割かれた、劇中曲「なりたいじぶん」のCD収録決定から続く、海の見える高台で4人が再会したシーンだと思う。

 原作には「なりたいじぶん」はそもそも無く、その位置に「方位自身」があるため、ラストの歌詞を持ち寄るくだりも無い。先ほど「量的な」最大の原作改変について述べたが、「質的な」最大の原作改変はここになる。

 ここまで東ゆうの物語ではあったのだけれども、他の3人にも物語、すなわち人生はあり、東西南北としての活動時においてもあったんだよ、ということを述懐して向き合い、互いに認め合い、尊重している。

 棚上げになっていた"宿題"である「方位自身」の歌詞をLINEでつなぎ合わせるというのは、表現としてわざとらしさはあるけれども、瓦解していた人間関係にきっちりと思い遣りの線で星図を完成させたのはとても素敵だと思う。

 でも、ここまで読んできた方ならよくわかると思う。おそらくぼくが素敵だと思ったこのシーンは、あまりかずみんが望まなかったものかもしれない……。 

 そんなことを考えた補助線として、4月の下旬、かずみんのインスタのストーリーズにちょっと意味深な投稿がされていて、ぼくはスクショを撮ってあるけれど、それを晒すのは気が引けるのでしない。

 要約すれば、アニメと原作は違うところもあるから原作も読んでね、という内容で、もうちょっと行間を読むことができる内容だった。

 おそらく、この記事の冒頭に書いた「原作付き映像作品」にまつわる事件と同様の炎上を避けた故だと思うのだけれども、そういう謙虚で配慮を尽くしているところがかずみんの良さで、でもそれが言いたいことを伝えきれないという形で、自らの足を引っ張ってる気もするんだよね……。

劇中歌の良さが優等生すぎな気も

 内容についてはここまでとして、映像や音楽について。

 アニメーション映像や音楽について、普段アニメをそれほど見ないぼくなんかよりも、良い評価を書いてくれるファンはたくさんいると思うのだけれども、キャラデザ、アニメーション、舞台美術、どれをとってもすごく良かった。今風で優れていた。

 一部、3Dと2Dが噛み合ってなくて登場人物が浮いて見えたシーン(くるみと蘭子が坂を下っていくシーン)や、作画担当が違うのかシーンによって如実に顔が違うというのはあった。けれども、よくあることだろうし些末な問題かもしれない。

 劇中歌のスタジオ披露シーンは、3Dだったのだけれども、モデルやモーションは気にならなかったが、カメラワークがガチャガチャしていた。ゲームっぽいというか。ここは、番組の規模感からもセンター1台、左右に動けるカメラがそれぞれ1台くらいで、クレーンが1つ使えるかどうかだと思うから、それくらいの自由度の制限をつけてそれっぽくやってほしかった。もしそういう想定でやっていてあの映像だったら申し訳ないのですが……。

 そのほか、基本的には郊外で進む話なので空が広く、ありきたりではあるが都会の雑多な華やかさとメンバーとを対照的に扱うことができていない。これは他のアイドルを扱ったアニメ作品とのイメージカブりを避けたからのようにも見えるけど、原作に比べてアイドルになった後の描写が付け足されてはいるが、もっと尺を割いて物販やチェキ会や各種ストアイベントなどのステレオタイプなアイドルらしさのお仕事描写を追求してもよかったように思う。東ゆうの充実に反比例して他のメンバーの疲弊がどんどん進んでいくような……。(鬼か)

 そして楽曲。最近『ビビデバ』を聴きまくってたので、星街すいせいが主題歌『なんもない』を歌っているというのは、ほんとうに時代を捉えているな、と。これまた完成度が高い。

 劇中歌・EDの「方位自身」は、もともと原作にも詩だけ掲載されていて、映画化にあたって改詞され曲が充てられた。原作では雰囲気優先という感じでそこにあることに意味があったものだが、アニメ映画では先ほど書いたようにきちんと物語に絡んで4人との関わりのあるものになっている。

 反面、主題歌「なんもない」に比べると劇中歌「なりたいじぶん」「方位自身」は歌詞もサウンドも辻褄が合いすぎていて優等生の曲という感じは否めない。

 特に「なりたいじぶん」については、4人の作詞という建てつけではなく、番組企画によって与えられた歌なので、違和感がある。アイドルってもっとキッチュでよくわかんない歌を歌わされるものじゃん?ああいうノリがない。MIXやコールを入れる隙も無い。

 番組企画で誕生したアイドルが歌わされる歌って、こういうのだったりするじゃないですか↓

 いや、もうちょっとトラペジウムのイメージに近い例を出すべきだな。番組企画のアイドルという点では、このMVではきちんと「仲間を集めてアイドルになる」話が描かれています。↓

 MIXやコールとまでいかなくても、乃木坂46だって初期の「ぐるぐるカーテン」「おいでシャンプー」でさえ、冷静になって聴いてみるとよくわかんない歌じゃないですか。それくらいの広げ方はリアリティの一つとして許されるんじゃないかなぁ、と。

 まあ、ぼくの楽曲に関する不満は「なんで一番重要な楽曲部分に秋元康が噛んでないんだよ」の一言なんですが。順風満帆のアイドルに「輝かしい君に声すらかけることのできないボク」みたいなキモい歌詞が与えられなけりゃ、元乃木坂46の高山一実原作のアイドル物語として完成しないでしょーが!(そんな完成の仕方は誰も望んでないだろ!

 まぁ、こちとら「輝かしい推しに理想を押し付けて適うことがないボク」なんですが。

 冗談はさておき、ラストでインタビューに応える東ゆうの衣装が、原作版の表紙絵準拠なんだよね。こういう細かいところでも、原作リスペクトが窺えるし、原作改編も含めて素晴らしい作品を作ろうという一点においてはなんらの曇りのない、そういう作品に思えます。

総じてどういう映画といえるのか

まとめ

 概ね書き尽くしたので、ざっとまとめてしまおうと思います。

 物語については、まさに「文芸」というべきもので、アイドルへの妄執を綺麗事をよそに具現化せんとする主人公と、その仲間との日々そして葛藤を、繊細なカットで見せてくるアニメーションとともに、みずみずしく、時に曇りは曇りとして隠すことなく描いた傑作ドラマ。
 しかし、ほぼ原作に準拠した展開とはいえ、主人公に内在する妄執のオリジンをあらかじめ説明できなかった故に、主人公が人間関係を散らかしながら走りきった後で「いろいろあったけどすまなかった、みんな前向きなのでオーライ」にして収めてしまったきらいがあり、小説と映像という2つのメディアの違いを咀嚼・吸収できなかった作品。

……になると思います。

 ただ、この記事を書いているうちに、この作品は原作と改変部分と物語を構成する要素の優先順位付けにかなり熟慮があって、それ故に現状考えられるベターな選択をしたからこうなったのだろうと考えさせられることが多かったです。時折「これが1クールアニメだったら」と考えてしまったのはそのあたりです。

ぼくはとにかくかずみんにずっと輝いていてほしいので、この作品の告知期間故に各メディアで取り上げられているという広報予算でのブースト効果が効いているうちに、盤石の活動体制を整えてほしいです。マジで所属事務所を変えてもいいんじゃないかと思っているくらいなので(しつこい)

小説原作のアニメ映画のノベライズって、何?

 余談。そして、これはほんとうにプロジェクトが狂っているとしか思えないのだが、『トラペジウム』について「小説原作のアニメ映画のノベライズ」が出版されている……。何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった……。

 いや、えーと、わかるんですよ? 「漫画ドラえもんを原作としたアニメ映画の小説版」が売れてるとかもわかるし。映画にはノベライズがつきもの。『君の名は。』も『天気の子』もノベライズめちゃ売れてたわけだし。アニメ映画なんかより前日譚小説のほうが何億倍も面白かった『GODZILLA 怪獣黙示録』という例だってあるし。

 それにぼくが冒頭で書いたように、映像作品化にあたって原作出版社のKADOKAWAが出資するにあたり、まさか「過去に出版した原作小説のプロモーションになるから」一点のみを期待するなんてことはないわけで、きちんと「映画のノベライズ権」「映画のコミカライズ権」を得て、それらでビジネスの好循環を狙うのは当然です。

 でも『トラペジウム』、原作がそもそも小説じゃん。アニメ映画版『トラペジウム』は映画ならではのオリジナルストーリーというほどではなく、ほぼ原作小説をなぞってるわけだし。原作にルビ振って少年少女向けブランドで出し直すだけじゃダメだったんか。

 あ、実写ドラマである「仮面ライダーW」の漫画版である「風都探偵」のアニメ版「風都探偵」の舞台版である「風都探偵」があるくらい入り組んだ世界だからいいのか? そういえば生駒里奈が出演してたな……。(伏線回収!ドヤァ……全然伏線じゃないが)

 もしかして公共事業みたいなことか? あやかりてぇ……。高山一実原作小説をアニメ化した映画のノベライズの仕事、応札してでも受注してぇ……! KADOKAWAさん、がっぴちゃんの箇所では盛大にdisって申し訳ありませんでしたが、もう何パターンか『トラペジウム』をノベライズするつもりないですかね?(ねーよ)

 不思議な位置づけの一冊ですが、映画を振り返るテキストとして、劇中ノートに何が書いてあるのかも地の文になっていてわかりやすかったです。不満を持っていようがちゃんと買ってちゃんと読む。ファンというのはそういうものです。

最後に

 おれは相当に拗らせた強火厄介ファンで、この点についてはほんとうに申し訳ない感じがしています。勝手にアイドルに照らされたと思い込んで、勝手に人生を旋回させて、勝手にタレントへ理想を押し付けて、勝手に不満を抱いている……。ファンなんてのは常に一方通行なものだとは思うけれど。

 推しの一世一代の大イベントですよ、原作小説の映画化なんて。でもこれが一回だけ、というのでは本当に惜しい。

 このアニメ映画『トラペジウム』を皮切りに、全てがいい感じに回って、高山一実の次回作、次々回作が出版されるようになり、それらがまた映像作品化されて盛り上がり、ファンイベントやステージでその輝きにファンは照らされて……。そんな未来が来ることを願ってやみません……。

(そしてそれがかずみんの思う道でないことは、薄々感じているのだが)

(完)

投げ銭大好きですが、なるべく折りたたんでお投げくださいますようお願いいたします。