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漢奸(Hanjian)の処刑

支那事変当時、親日の人々は国民党軍から『漢奸(Hanjian)』と認定され、処刑されていたようです。
中国人留学生や日本人と仲良くやっていた中国人も多くが漢奸認定されました。

このような漢奸への警告看板も各地にあり、日本に好意的な行動をしないように恫喝されていたようです。

南京戦の前の南京でもこのような漢奸の処刑があったようで、当時の読売新聞に記事が出ています。
(⬇の画像はわいえすさんが作成された反論用画像です)


わいえすさんから読売新聞の原本もいただきました。

📔 読売新聞 1937年12月2日

南京一大要塞化す
上海本社特電
(一日発)
潮の如き皇軍の驀進はこれをさえぎる何物もなく我軍の意気既に南京を呑むの概あり、今月中旬ごろには南京城頭高く日章旗翻るものとされているが、外人方面への報道によれば南京城内は今や一大要塞と化し蒋介石自ら陣頭に立って決戦準備に忙殺されている、南京に通ずる書く要所には鉄条網、塹壕、トーチカその他の防御陣を十重二十重に構築し、住民は殆ど全部退出して城門はいずれも固く閉ざされ、場内外のバス全部運轉中止し軍用トラックのみが砂塵を上げて終日終夜馳驅して戦闘の急を物語っている、電灯、電話、水道いずれも停止されており、場内五局の郵便局に三百五十名の職員が事務をとっているのみでその他の官公署の一切の職員は南京を脱出して影を見せない、郵便局員も既に下関に汽船一隻を用意して最後の五分間に南京を逃げ出さんとしている、

<<<<< 場内では毎日漢奸狩りにかかって銃殺されるもの数知れず電柱、街角等にはこれ等の鮮血に塗れた晒首が至るところに見られ、物貧窮乏から貧民の餓死噴出し餓學道に横たわると言う惨状を呈しそれらの死骸を食らう犬の遠吠えにまじって諸所銃声が響き暗黒、凄惨、国民政府の首都として権勢を誇った歴史の都南京は今や全く鬼哭啾々たる市の街と化してしまった >>>>>

このように、国民党軍による漢奸狩りは凄まじいものだったようですし、実際、これは誇張表現と言うわけではなかったようです。👀

ちなみに、この看板にあるような木製の籠の中に生首を入れる晒し首の方法は、当時の中国では普通に行われていたようで、何枚もの生首入りの頭の写真があります。👀
先程の読売新聞に書かれていた『電柱』『晒し首』も恐らくこれでしょう。

実際のさらし首の写真は⬇です。
この写真を元に描かれたのかと思うほど一致しています。

このような籠の晒し首は日本では行われないやり方でしたが、どういうわけかこれも日本軍の残虐行為として拡散されています。

この手の残虐写真はほぼ全て中国人によるものなのですが(私が知る限りでは全部中国人によるもの)、東アジア諸国に詳しくない外国人には日本人によるものなのか中国人によるものなのかの判別ができないため、そのまま信じ込んでしまっている人も多いようです。

これなんかもそうですね。👀
典型的な漢奸の処刑写真(1938年)なのですが、これも旗に『槍決漢奸(裏切り者の処刑)』と書かれてありますが、旗の部分をカットして『日本軍による処刑の証拠写真』として、広く出回っています。😑

📔 参考資料


📓 南京大虐殺・731部隊・上海事変の捏造情報

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