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知的探求心と創造性の高さが、学校のリズムに合わないのかも

みぃは3才になりたての頃に、出先でたまたま人類の進化の過程の絵を見た。壁に描かれたそれに惹き付けられて、ずっとその場から動かなかった。その頃はまだみぃが人一倍知的好奇心が強いことには気が付いていなかったから、なんで猿から人間になる絵がそんなに気になるんだろう?と不思議に思ったが、知的好奇心がくすぐられ熱心に見ていたんだろう。

5歳で「日本の歴史」という漫画に出会ってすごい勢いで知識を吸収して行ったときも、常にとても楽しそうだった。集中力もすごいし、知ることが楽しくて仕方ない。また、豊かな想像力で歴史の世界に入り込み空想を楽しんでいるようでもあった。知的探求が遊びと同じなのだ。

幼稚園は、みぃの知的好奇心を満たすものが無かったから行く意味を感じられず、ほとんど行かなくなってしまったけど、「小学校は勉強が出来る!」と入学を楽しみにしていて意気込みも半端なかった。

でも残念ながら、学校の授業はみぃの期待しているものではなかった。

学校の授業が簡単過ぎて退屈だったという人はきっと何万人も何十万人もいるだろう。なんとか折り合いをつけたり、工夫したり、または諦めたりしながら学校生活を送ってきたことと思う。

学校の授業は、勉強が難しい子にとっても、簡単な子にとっても、しんどい。当然ながら、学習はレベルがフィットしていることが一番大切なんだけど、今のシステムでは全てのこどもにフィットする授業は行えない。

レベルだけでなく、どのように学ぶのが分かりやすいか、楽しいか、というのも十人十色。長男とみぃの二人を比べてみてもそれぞれ違う。合わないやり方で本来の能力が発揮出来ていない子もきっといるだろう。

今、みぃは木曜日の通級以外は家庭にいて、自分に合った学びを続けている。自分のペースで自分で探求している。みぃは、興味を持ったことは深く掘り下げたい。例えば、漢字は成り立ちが気になって仕方ない。気になるとその時に調べなければ落ち着かない。ひたすら書くという学習方法は苦痛でしかない。書いて練習するよりも、新しい漢字を使って人の名前を考えるとか、漢字を使って作文をするとか、創造性を使って楽しみたい。歴史も順番に流れを掴むのではなく、ひとつひとつ深く知りたい。そして、自分なりに考察したい。学校の一年生の国語で「雲に乗ったときの気持ちを考えて書こう」という課題があった。書きませんと言い張った。あとから聞くと「楽しい気持ちを書こう」と指定されたのが嫌だったと教えてくれた。

このような知的好奇心や創造性を持っていると学校での学習とリズムが合わない。時間や方法を決められるよりも自由にあちこち寄り道しながら学ぶ方がみぃに合っている。

また、創造性や主体性が強ければ強いほど、先生の指示に1日中従うことがストレスになるはずだ。入学当初は、みぃも創造性や主体性を圧し殺してみんなと同じように頑張った。でも数ヶ月で限界にきた。

学びたいし、創作したい、そういう子なのに学校がつらい。むしろ、学びたいし、創造したいからこそ画一的な教育が合わないんだと思う。

深く学びたい子達が集まって、学びあう機会があればいいなと思う。集団で何かを考察しあったり、協力して作品を作り出すなどの体験も有意義だと思う。ホームスクールには、刺激しあいながら自分の役割を考え、集団でプロジェクトを成し遂げるという学びの機会がない。小学校に夢を抱いて入学したみぃが家でひとりで過ごしていることを時々、残念に思うのはそういう機会がないからだ。

※2019年に書いた日記です
(娘は2023年現在中学一年生です)





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