いま並行して読んでる本について覚え書き

久しぶりに健常な時間におきた。頭の整理のために、並行して読んでる作品と現段階の所感をまとめて置いておこうと思う。

​・『ポルシェ太郎 前編』羽田圭介(新潮2019年秋号)

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 一通り読んでから作者名を見た。名前は知ってたけど読んだのは初めてかもしれない。前編しか読めてないが、面白かった。面白かったと言うのも通り一遍な感想だが、まず「面白いかどうか」は最も大事なことだ。
都内のイベント会社の若手社長・大照太郎が主役の、今のところ極めて俗っぽい(?)小説。去年から始めた事業が上手く回り始め、思い切って去年の年収分のポルシェを購入したり、主催のギャラ飲み(と言うワードが一般に通用するのか分からないが)で会った若い女優に惚れて、ポルシェで温泉旅館に連れていったりする。こう書くとつまらなそうに思えてくるが、前述の通りなんとも読ませる。文章力によるものだろうか。密度が詰まった鋭的な雰囲気に好感が持てる。記述される俗っぽさと文章がいいコントラストをなしているのかも。今後の展開の私的な予測としては、少し危ない経営者の黒田とその指導者らしい鈴木太郎との関係を発端に、会社がうまく回らなくなり、太郎はポルシェを売り払う顛末になるのではないかと言う気がしている。女優の子とはおそらく別れるだろう。まっとうに恋愛関係に発展するにはお互いの会話が足らないし、ただお小遣いと相手の優しさで繋がっているように思える。太郎が彼女にアピールしているポルシェという車の価値も、女優にはおそらくピンと来ていないだろう。最初は買ったばかりのポルシェを自慢にし誇りに思っていた太郎の精神状態は、同窓会をきっかけに少しきな臭くなり始めている。最初は車の写真をSNSにアップして反応を喜んだり、美女をオープンカーに乗せて銀座を走る自分に酔いしれたりしているが、次第に車種で人間を判断して見下したり、車へのこだわりが悪い方向に行っている雰囲気がある。

塩谷氏が会場まで自分の車できていたならコイン傷でもつけてやりたいと思うほどだが、塩谷氏はタクシーで去っていってしまったし、そもそも車を所有されるなんて無駄だと著書に書いている人だからそれも無理だ。太郎は、車という大切なものを持っていないなんてズルいと感じた。(本誌274)

『ポルシェ太郎』という表題も割と戯画的というか、少しからかってつけている感じがあるし、最後は単純な結末が待っているのではないだろうか。後編も是非読みたい。

・『HHhH プラハ、1942年』(ローラン・ビネ、高橋啓訳)東京創元社

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 装丁のインパクトにひかれてなんとなく読み始めた。ノンフィクション作家である著者本人の語りが地の文として、つまり一作家の述懐にしたがって話が展開される。テーマは第二次世界大戦当時のナチスドイツについて、そしてヒトラーの腹心にして参謀であるラインハルト・ハイドリヒ(。誇張的要素のない、正確なデータに基づく真実を伝えるために、著者の苦心の様子が随所で見て取れる。当時の東欧、チェコ・スロヴァキアやスイス等の情況も鮮明に語られ、細かく注釈が加えられていて、無知な自分には上手く飲み込めない箇所もある。が、大筋を追っていくだけでも本書の大要はは理解できる。ナチスドイツという組織が、いかに最善の人選と努力によって、最悪な方向へ邁進していったかということだ。

最初のファイルはハイドリヒみずから靴箱のなかに整理し、使える保安部員は数人ほどでしかなかった。しかし、その当時からすでに彼は諜報の精神を取り入れていた。すべての人について、ありとあらゆることを知り尽くすこと。一つの例外もなく。ハイドリヒは、SDが活動範囲を広げていくに連れ、官僚としての並外れた才能を発揮していった。それは優れた諜報網を管理していく上で最初に要求される資質のひとつだった。当時の彼のモットーをあえて言うなら、「データ! データ! さらにデータを!」であったかもしれない。あらゆる傾向の。あらゆる分野の。ハイドリヒはこの仕事にたちまち夢中になった。情報収集、情報操作、恐喝、スパイ活動が彼の麻薬となっていた。(44)


・『浮雲』林芙美子 青空文庫

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朗読配信で読んでる。現時点での進行率は60%くらい。
今の小説の価値観から言えば、この作品は、冗長で同じことを繰り返しているだけかもしれない。女主人公ゆき子は太平洋戦争中、事務員として仏印・サイゴンで夢のような愉快な暮らしを送るが、終戦後は焦土となった東京に帰ってくる。苦しい暮らしの中、昔の女中先の伊庭やサイゴンでの恋人富岡を頼るゆき子だが、彼らはもう以前のようではなく「いはば落ちぶれきつた人間」となっていた。ゆき子は妻子ある富岡と逢瀬を繰り返し、一度は心中の話も出るが、富岡はその旅行先の女将と関係をもって一時的に行方を眩ませてしまう。結局ゆき子は彼との子供を堕ろすことになる。
粗筋を書くと、何だか昼ドラみたいな話になるのだが、読んでみるとそうでもない。核の部分は案外さっぱりとしていて、秋空のような喪失感と寂しさを漂わせる。ゆき子の行動は結構突拍子がなく、突然ダンサーになると言い出したり、米軍兵と寝てあっさりと所謂「パンパン」になってしまったりするのだが、そこに惨めさや堕落の気配はほとんど感じられない。状況に応じてそうなってしまうのだけれど、それと自分の本来は全く別で、ほぼ関係はない。それはゆき子と言う女性が何となしに発信している「身軽さ」に結びつく。焼け出されたら焼け出されたで、追い出されたら追い出されたで、なんとか生きていかなきゃいけないのだし、別にその分には勝手にするわ、と言う感じ。やっていることと自分という存在はどこかで繋がっていないし、そこに不思議な無邪気さ、天真爛漫さが見出される。反面でゆき子の周りの男たちはみなどこか病み、歪んでいる。全員自分の身の上を自嘲しつつ、敗戦国日本に絶望している。富岡は女房や愛人の間をフラフラと彷徨い、一時の感情任せの行動を繰り返す。伊庭は新興宗教の役員になり拝金主義者と化す。
これはいわゆる性差ではなく、男性は家族を養うとか兵として従軍すると言う大義を抱えざるを得ないというのが要因として大きい気がする。家族を養うことが存在の基盤にあるから、労働と自分というものを切り離せないし、多くの同朋が命がけで戦っているからこそ大義というものを考え込まざるを得なくなる。「俺は何のために何をやっていて、これから何をやっていくのか?」。特に富岡は生来の性質もあるだろうけれども、異性との関係の精算を回避して、音信不通で遁げ回る行動の背景には、自分の根幹への不信感と絶望感が見え隠れする。ゆき子は誰への責任も取らなくていいし、どこまでも軽やかに逃げ延びることが、その気になればできる。富岡が一時は「産んでくれ」と頼んだ子供の堕胎までもが、実にあっさりと描かれている。話の顛末がどうなるかはわからないけれども、ゆき子が自分なりにたくましく生きている場面が読めればいいなと思う。

自分の孤独を考へてゆきながら、その孤独に、ひどく戦慄してゐるやうな、おびえを、富岡は感じていた。現在に立ち到って、何ものも所有しないと云ふ孤独には、富岡は耐へてゆけない淋しさだった。自分を慰めてくれる、自己のなかの神すらも、いまは所有してゐないとなると、空虚なやぶれかぶれが、胸のなかに押されるやうに、鮮かに動いてくる。(34%)
富岡は疲れてしまつた。ゆき子は少しも疲れないで、寿司をつまんでゐる。色がはりした、黒いまぐろをつまんで、平気でお喋舌りしている。没落しつこのない原始的な女の強さが、富岡には憎々しかった。赤い蒲団から、洗つたやうな艶のいゝ顔を出してゐる女の顔が卑しく見えた。
「何を考へてゐるの?」
「何も考えへてはゐない」
「奥さんの事でせう?」
「馬鹿!」
「えゝ、私は馬鹿よ。女は馬鹿が多いのよ。男はみんな偉いんでせう? 馬鹿に責任を持つなンて気の毒みたいだわ。未来の事なんか考へないで、かうして、眼のさきのあなたにすがりついているなンて、馬鹿以外のなにものでもないわ。ね、さうでせう……」
(中略)
ゆき子は涙をいっぱい溜めた眼を閉ぢて、富岡の肌をなでてゐた。腰骨がごつごつしていた。美味いものは食はないからと云つた男のざらついた肌が哀れだつた。ゆき子は自分の下腹に手をやり、すべすべしたなめらかな肌ざはりに神秘なものを感じてゐた。どうして、こんなに生きた女の肌はつるつるしてるのかと不思議だった。国が敗けたつて、若い女の肌に変りはないものかしら……。
(後略)(19%)

「女は馬鹿が多いのよ。・・馬鹿に責任を持つなンて気の毒みたいだわ」ってすごい言葉。でも確かにと思うところが、あってしまうんだよなあ。
恋愛沙汰とは別に、敗戦直後の東京というものや、人びとの雰囲気も垣間見れてそこが楽しい。案外今と似たような孤独や絶望が漂っている気もする。
それでは今日はこの辺りで。読んでいただきありがとうございます!


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