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第51回文藝賞受賞『死にたくなったら電話して』李龍徳 感想


 
 テーマは暗いし筋も陰惨なのに、何か楽しいし引き込まれる。関西弁だからだろう。宮本輝っぽさを感じた。大阪特有の地名の面白さ(十三、しょんべん通り、etc)や漫才を基本としたような会話のせいか、雰囲気はからっとしている。時折の展開の荒さや文体のくずれも、関西弁乱れ・おかしみと噛み合っていて演出として成立している。
 三浪してバイト暮らしを送る二一歳の浪人生徳山は、職場で誘われたキャバクラで一番の美女・初美から熱烈なアプローチを受ける。そのしつこさ、変人さに戸惑いつつ、徳山は初美と交際を始める。彼女の部屋の本棚には様々な残虐な処刑や残酷な歴史の本が収められ、彼女は常に喜々としてその内容を説明するのだった。

 作中ではざっくりと3つの「お話」が登場する。
 ひとつは初美によって語られる、『女工哀史』の労働や魔女狩りなどの虐殺に代表される、歴史上の悲劇や拷問についての話。それはいずれも人間の本性が「最低で下劣」で「本質的にあまり変わらず、どいつもこいつもクズばっか」であることを示す。現代においてもおかしな人間に出くわすことは「確率の問題」であり、もとより生きる希望などひとつも存在しないと、初美は主張する。
 もう一つは、マルチ勧誘幹幹部の悠木が語る「お金の真実」。つまり、世の中の人間は欲にまみれ、表面的なお金の価値にこだわってばかりいて、堕落した人生を送っている。お金への執着を捨てるには、自分たちのカンパニーに入って多額のお金を稼ぎ出すことが近道だ。「お金のことを忘れるためにお金を稼ぐ」。自分の夢はそんな若者たちの夢を支援し、彼らを億万長者にすることだ、という、結局は自分のカンパニーに資金を蓄える、私利私欲のための詭弁である。
 最後は徳山のバイト先の先輩であり、彼のことを憎からず思っている形岡さんという女性がメールで送ってきたストーリー、「素敵な徳山くんの希望あふれる未来」だ。一部を引用するとこういうことになる。

やっぱりやってみないとわかんない、と徳山君にもようやく分かる。あの女先輩の言うとおりだった。ぶつくさ言って怖がってないで、一歩踏み出しておいて本当に正解だった。夢がないとか希望がないとか、悪いことしか起こらないとか、そんな後ろ向きだったのが嘘みたい。簡単なことだったのよ。雨の止むのをちょっと待てばよかっただけ。いまはすっかり青い空。虹も出ている。子供達も水たまりを散らして走り回ってる。・・・<中略>・・・社長は女で国語の先生って感じで、怒らなくていい人。やがて順調に正社員になる。期待の新人だ。人間関係は良好な、イヤな人間って言うのが一人もいない環境。辛いよりも面白さや充実感の方が断然大きいお仕事。こういうのも普通にありえるんだね? 次の夢は、彼女との結婚かな? やがてその夢も叶うの。(233)

 後者の二つには主人公も読み手も嘘寒さを禁じえない。その点で初美の語る陰惨な処刑や虐殺の歴史は少なくとも事実であり、人間の残酷性、生の無意味性という真理を孕む。初美にも徳山と出かけたり車を買ったり、生に何らかの希望(というか何らかの刺激)を見つけたいようなのだが、結局彼女のカンフル剤になりうるものは発見されず、ふたりは緩やかな餓死を選んでいく。
 徳山はバイト仲間に「おまえらみたいなもんばっかりやった、俺の周りには。」と吐き捨てている。それは徳山・初美の周り、社会からはみ出した若者の周りに、彼らをその絶望から解放する人間もストーリーも存在しない、容易に手に入らないことを意味する。
 その反面で、彼らが抱く死への願望も、小学生でも持てるような「お安い」ものだ。生きている人は、人それぞれのやり方で、マルチ勧誘者や前向きに仕事を頑張ろうとする片岡さんのように、ストーリーを作り生を送ろうとする。それが生きる人間の常態であり、生活というもの自体、己が生へ抱く願望を叶えんとする不断の祈りだともいえる。
 けれど、初美はメールに書く、「コップの中の嵐とそのハッピーエンドを、どうか僕達に押し付けないでください」。希望への賛同を拒否され、その姿勢を嘲笑されたとき、生きる人たちは何も言葉を持てない。「耳鳴りがする」とも初美は書く。たしかにこの世はノイズばかりだ。生きるのに邪魔な雑音ばかりだ。初美と徳山が不断に耳にする生への希望を断つ雑音であり、希死願望を抱く彼らに対して周囲が囁く、死への希望を断とうとする雑音でもある。終盤初美が徳山との結婚を断る理由として唐突に明かされる、徳山が在日朝鮮人である、というのもノイズに含まれるだろう。徳山にしてみれば、最後の希望だった初美との結婚の可能性を喪失させ、意思に関係なく自分の人生にまとわりつき続ける雑音だ。
 初美と徳山がそんな「ノイズ」に呑まれたと言うことは簡単だし、それを安っぽい心中と指弾することは容易、ではある。そのような表層的な読み方もまあできる。ただ『死にたくなったら電話して』は、もう一歩踏み切った切実さも感じられる。
 このタイトルは「死にたくなったら電話して」、つまり電話一本で死に繋がることが出来ると語る。周知の事実として、死は振り払い難く、いつでも待ち受けており、誰でもそうする権利をもつものだ。そしてその終着点を語る初美のことばは、それまで彼女が散々語りつづけていた、生きた人間への陰惨な拷問とは異なり、ひどくやさしく安らかだ。

「死ぬ、って別に簡単な話です。泣いちゃうぐらい、――ああそうなんやね、と腑に落ちる話です」と輝く初美の裸体。「今夜寝て、そしてもう明日起きなくていい。そういうの。おやすみなさい。もうなんにも心配せんでいいから、もう、そのあったかい寝床から出てこんでええ。悪い夢も見ません。というか、どんな夢も見いへん。何も見たり聞いたりせん。もう新たな経験を肉体に痛く痛く刻むこともない。いや、怖くないですよ。怖ない怖ない。死んであの世の裁きなんて絶対にないから。誰もどんな説も信じられへんのやったら私の言葉だけ信じて受け取って。ただ眠るだけです。寝ましょう。安心して、ぐっすり寝ましょうよ。いったん寝てしまえばもう、誰も恨まず誰も妬まず、何も恐れず何も嫌悪せず、なにものからも、おびやかされない。落ち込むことも、落ち込まれることもない。何も感じなくて言い。これからはもう、なんにも、感じんでいいの。なにも思い出さんでいい。未来の心配はない。未来そのものがない。過去の傷も綺麗に消える。すべての傷と、流された血がなかったことになる。歴史がなくなる。すっかり無になる。素晴らしいことやないですか? この眠りの向こうの世界には、戦争もなければ病気もない。犯罪もなければ迫害もない。騙し騙される不安もない。裁きはない。ただもうぐっすりできる。――ねえ、もう休みましょう。こういうのに早すぎるなんてこと、ないですし、もう充分といえば、いつだって充分すぎるほどです」(249)

 死を救済としている、というと自死へと迎う新興宗教みたいで過激だ。いや、もしかしたら新興宗教も同じことを言っているのかもしれないが、そんな「ストーリー」の区別は、ここに至ればもうどうでもよくなっている。「誰もどんな説も信じられへんのやったら私の言葉だけ信じて受け取って」なのだ。
 徳山は作中「初美だけが例外や」「初美が教えてくれた」と繰り返し口にする。それは視野狭窄の典型的姿だし、医師一家のぼうっとした三男坊であり、そんな言葉を真に受ける周囲が想像するように、容姿でちやほやされてきた徳山が、「悪意たっぷりの、たまらず罰したくなるようなビッチ」の初美に盲目になっているだけなのかもしれない。徳山は初美と付き合うようになってから「変わったと周囲から言われつづけている」のだから。
 『死にたくなったら電話して』は徳山視点の物語だ。徳山視点である限り初美の意図が詳述されないのはわかる。だが本作を曖昧にするのは、徳山の内面ですらあまり明かされないという点だ。周囲とのやり取りの発言は些末なところまで書かれるのだが、発言や行為の意図、目的の説明はないことがほとんどだ。
 それは実際に徳山にそんなものがないから、というのが理由ではないか。
 彼は「空っぽ」なのかもしれない。医学部を目指して三年も浪人していて、初美と出会いやっとの思いで受かった大学も、兄から現金で貰った入学金を鞄に放置して失くし、手続き自体ができなくなってしまう。徳山自身の頭の悪さ、ぼんやりしていると指摘される生活能力の低さの表れが、水面下で彼の生きづらさを形成している。その生きづらさに初美は鋭敏に気づき、主たる意志を持たない彼に自身の死の願望を植え付けたのか。いや、植え付けたというより、徳山にはもともとその素養があったとも捉えられる。初美は序盤で「わたしたち、すごくよく似てます」と言うし、ふたりはもともと生への絶望を共有していたのかもしれない。徳山が言語化できていなかった感覚を、初美はとっくに言語化し意識化していたという解釈も可能だ。あるいはその言葉も初美の洗脳の一歩であり、彼女は容姿のいい手頃な男を見つけ、自らの自死願望に巻き込んだ、という読み方もありうるだろう。
 いずれにせよ、徳山は家や容姿に恵まれているが、女性にも人生にも受動的で、能力もあまり高くない人物として描出されている。そして、そんな人間が初美を選び自死に至るという展開は、生きる希望よりも死ぬ希望ーーその安らぎのほうが、克明で身近だ、ということにもなる。
 ここに至って、本作が文藝賞、過去に『蛇にピアス』『蹴りたい背中』などが受賞し、比較的若者と距離感が近いといえるこの賞を獲ったことが意味を帯びてくる。一言でいえば、若者世代のストーリーの喪失、ということになるだろうか。
 先述したとおり、死への願望をもつ難易度は低い。死にたいと思ったことがない人間などほぼいないと思う。死よりも魅力的な生の意味、生きていくストーリーがあるから(惰性も大いにあると思うが)私たちは生きている。
 だが基本的な目で見れば、生の価値を嘯くものも死に価値を見いだすものも、ストーリーという意味で等価でしかない。自分が生きているから、生への肯定を必死に探ろうとして、それぞれの手前勝手な解釈、マルチなり片岡さんのようなストーリーを作り出す。そこに共感や価値を見いだせない徳山や初美のような人間は、縺れるように死のストーリーに傾きつづける。そこにおいて、死への憧れもまた凡庸な一ストーリーに過ぎないのだと、見る目がないことが危うい。
 徳山や初美は、生きている人間の愚かしさ、汚らしさを嘲弄する一方で、自分たちの抱く死への志向は特権化し、抗うという手段を持たない。絡め取られるように、死の安寧という詭弁に墜ちていく。前述のように初美は終盤に至って、旅ができるように車を買ったりしているのだ。この様は自分たちの掘った穴からすでに出られなくなったという表現がしっくりくる。
 「電話をかけるように」、いや、令和では「LINEを送るように」「Tiktokに動画をあげるように」と言った方がいいだろうか、死に繋がることは手軽だ。もちろんここで「生きる方がいいよ」というのもまた、でっちあげのストーリーに過ぎないのだけれど、それでも、彼らを惹きつけられる死の肯定もまたただのストーリーであり、いかようにも捻じ曲げられるものだということは改めて書かれなければならないと思う。死が格段に遠ざかり、無数のストーリーが蔓延する現代の盲点を、本作は全身で示している。

*本感想は読書メーターの感想を補強したものです。


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