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薄情者

今の仕事を始めてすぐの頃だったろうか。
職場の同僚におすすめの本を聞かれて、その時読み終えたばかりの新刊を貸した。
たしか、『怒り』(吉田修一、中央公論新社、2014)の上下巻だった。
数日後、深刻な表情を浮かべたその同僚から、予想外のコメントとともに本が返ってきた。
「大丈夫?なんか悩んでるの?」
まったく心当たりが無いのでよくよく聞いてみると、表紙は擦れてるわ、ページのあらゆる箇所に折れ目がついてるわ、とにかく借りた本の状態がひどかったと言うのだ。
どうやら、私が何らかの理由で精神的に追い詰められむしゃくしゃしたか、はたまた『怒り』の内容に胸糞が悪くなりすぎた結果、本に八つ当たりでもしたのではないかと本気で心配になったらしい。
まだ新人とはいえ、こちとら書店員である。
たとえ悩みがあったとして、普段仕事で取り扱うモノにそんなことをするわけがないだろう。
それに私は、内容に感情移入しすぎて本を傷つけてしまうほどタチの悪いピュア人間ではない。
そう言うと、
「だったら雑に扱わないで、もっと本を大切にしたら良いと思うよ」
と、今思えばこれ以上ない真っ当な意見が返ってきた。

あまりに格好悪いから口にしなかったが、本当はその場で言い訳をしたかった。
母の影響なのである。
「島随一の読書家」を自認する私の母は、とにかく手元に本が無いと生きていけない、逆に言えば、本が読めさえすれば状態などどうでも良いという人間である。
途中まで読んだ本は栞やスピンを使わず、ページの間に表紙カバーを挟めば良い。
コンマ一秒でも早く続きを読みたいからである。
本屋で平積みされている本は、一番上の1冊を購入したら良い。
状態を確認しながら美本を選んでいる時間がもったいないからである。
読み終わった本は、整理されていない本棚へ無造作に収納したら良い。
心はすでに次に読む本へと移行しているからである。
子どもの頃から母の姿を見ていて、それがごく一般的な本の扱い方だと思ってきた。
だから職場の同僚から指摘されても、私はちっとも反省しなかった。
この時はまだ分かっていなかったのである。
“雑”の連鎖が、やがて取り返しのつかない悲劇を生むことを。

「2時間ドラマ見ててさ、これから犯人が分かるって所で躊躇なくチャンネル替えるんだよ、お前どう思う?」
ある日の、母からの電話である。
ドラマを見ているのが還暦をとうに過ぎた母で、チャンネルを替えるのは少し前に米寿を迎えた祖母である。
つまりは実家に暮らす年寄り二人による諍いの報告というか愚痴なのだが、ここで正直に、
「心の底からどうでもいいわ」
などと言おうものなら、
「お前って、ほんっとに面白みのないヤツだよね!」
と返ってくる。
同じようなくだらない揉めごとは山ほどあり、その度に電話がかかって来る。
たまには極力心を込めて、
「アハハハハ」
と笑ってやるのだが、
「笑い事でないんだわ。お前って、ほんっとに冷たいヤツだよね!」
に返答が変わるだけである。
いずれにせよ雑なリアクションしかできない私は、母から見れば薄情な息子であるらしい。

一昨年の9月、その母から生ウニが送られてきた。
「やっち(次兄)が採ってきたノナ(キタムラサキウニ)、色悪くて出荷できないからお前に食わしてやれって。塩水パックで300グラム2つ。食えよ」
生ウニ、300グラム、かける2――浜値で約1万円。
ざっくり言えば、ウニ丼20杯が余裕で食べられる量である。
色が悪いと言っても、それは市場に卸すには見栄えが悪いというだけであって、それほど味に影響するわけではない。
懸念材料は“生”であることの一点のみだったが、体の半分以上がウニ、残りがアワビやナマコで出来ていると言っても過言ではない私にとっては、大した問題とは思えなかった。
むしろワクワクしたほどである。

――一応断っておくのだが、このように“いつでも高級な海産物を食えるんだ俺”的なマウントを取ることを、私は「ウニから目線」と呼んでいる。
自分で言うのもなんだが、この後も無意識のうちにマウントが顔を出すかもしれない。

「あいつはウニだけありゃいいんだから、なんぼでも食うべさ」と嘲笑う母の顔が浮かび、その雑な考え方に若干の苛立ちは覚えたものの、届く以上は食べるしかない。
しばらくの間、ウニ丼漬けの日々が続いた。
仕事がある日は弁当にして持って行くわけにもいかず、帰ってきてから米を3合炊き、ひたすらその上にウニを乗せて食べた。
休みの日は、朝起きてウニ丼、読書してちょっと小腹が空いたらウニ丼、夕方まで昼寝してウニ丼、夜食にウニ丼である。
時折襲ってくる“飽き”という感情を脳の隅っこに押しやりながら、3日ほどかけてようやく1パックを消費した。
あと半分である。
冷蔵庫にある2つ目の塩水パックを取り出して開封する。
もはや機械のように感情を無にして、炊きあがった白米の上にウニを乗せ、一口目をかき込んだ瞬間、頭の中から声が聞こえた。
(吐き出せ)
流し台までダッシュして全てをぶちまけた後、パックの中にまだ大量に残っている“かつてこの世で最も美味い高級海産物だったけど、どうやらついさっき消費期限が過ぎてしまったと思われる物体”をまじまじと観察して、なぜだか分からないがもう一粒口に含んでみた。
疑念は確信へと変わり、冷静になった私は母に電話をかけた。
「腐った。結構頑張ったんだけどな」
「はぁ!?何やってんのお前」
「あれぇぇ!いたましい(もったいない)のぉぉ!」
電話の奥から祖母の叫び声が聞こえる。
「どうしたらいい?捨てるしかない?」
「どうにか出来ない?」
母が、後ろにいるであろう祖母に聞く。
「ふかしてまれ(蒸してしまえ)!」
「ふかして食え!」
雑なアドバイスを残して電話は切れた。
いつもくだらない諍いをしているくせに、こういう時の連携プレーは見事というほかない。
白米の上に乗せて食べることしか能のない人間が、雑なアドバイスに従って雑に蒸したところで、到底元の美味さを取り戻すことは出来ない。
何より、先程食べた奇っ怪な物体の食感が、口の中に残り続けている。
結局、私の人生で5本の指に入る後悔の末、“ソレ”は生ゴミの袋へと送られていったのであった。

家族にはいまだに黙っているが、その“事故”以来、私はほとんど生ウニを食べていない。
夏に実家に帰省すると否応なしに食卓に出てくるものの、箸は一向に進まず、
「あ〜れ、なしてかねぇのさ(おいおい、どうして食べないのか)!」
と祖母に指摘されても、
「いや、あんまり食べ過ぎれば便秘になっちゃうから…歳取ったもんだわ」
と、何の根拠もない独自の理論でごまかし続けている。
あれほど好きだったモノが食べられなくなったことを自分でもまだ受け入れられずにいるのだ。
家族の前でカミングアウト出来るはずがない。

拝啓、母さん。
生ウニが食べられなくなりました。
僕は薄情者です。
自分で採ってきたわけでもないのに、こんなことを言える立場じゃないのは分かっています。
でも、ちょっと考えたら分かると思うんです。
あんなの一人で食える量じゃないんです。
本だって、読みたい時に読むから楽しいんです。
強制されて読むのは嫌でしょう?
食べることが義務になってしまったら、それはもうアスリートであり。
生ウニで体を作るスポーツ選手なんて僕は聞いたことありません。
そもそも僕は、ただの書店員なわけで――

「書店業務で何がいちばん大変ですか?」
と聞かれたら、棚整理です、と即答している。
表紙やオビがズレているのを戻したり、飛び出たスリップを引っ込めたり、平積みを5冊ずつ逆向きに積み直したり――発注や商品の入れ替えに比べれば地味な仕事だと自分でも思っている。
見栄えを良い状態に保つのも目的の一つだが、おそらく最も重要なのは、“雑”の連鎖を生まないようにすることだ。
棚の乱れはさらなる乱れを呼んで、売場全体を次第に腐敗させていく。
担当しているのが児童書だから、より大げさに考えてしまうのかもしれない。
ただ私は、本に触れ始めたばかりの子どもたちが、粗末にされた売場で選んだ本を、いつか自分から粗末にしてしまうような未来は想像したくない。
母と私は幸いにも、本が好きなまま今日まで来られた。
自分の仕事がどれほどの効力を発揮するか分からないが、売場ではしゃぐあの子たちにも、大好きなモノを生涯大好きなままでいてほしいものである。

帰省のための荷造りをしながら、実家に着いてからやることを考える。
無造作に収納された本棚を整理しよう。
コミックは巻数順に並べ直し、小説は著者ごとにまとめ、ついでに数年分のホコリを払おう。
自分を育ててくれたモノに対して薄情になるのは、そろそろやめにしよう。

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