見出し画像

そういうモノに私は。

 言わずと知れた観光地利尻島。まもなくウニ漁が始まり、一年の中で最も活気づく季節がやってくる。

 世間ではこの活気がフィーチャーされがちだが、豊かなはずの自然も時には猛威を振るうように、ここに住む島民だって年中穏やかな気持ちで生活している訳ではない。

 それは、「いくら目を背けてもアイドルも屁をこくよ」ぐらい当たり前のことで、「TVで見て」「2、3日旅行に行って」自然も人柄もすごく良い所だからという理由で利尻への移住を考えている人がいるとすれば、あらかじめ抑えておくべきポイントだと思う。

 同じ人間である以上、島の中にも見栄や嫉妬、マウントの取り合いなど様々なしがらみがある。

 「田舎は噂が広まるのが早い」とよく言われるが、まさしくその通りで、

「〇〇家の息子、今日はうちのよりウニ採れなかったみたいだわ」

だの、

「〇〇家の旦那、今パチンコしてるよ、店の前に軽トラとまってたもん」

だの、

いや、ほっといたれよ!というような話も、ことと次第によっては島全域に伝わってしまう可能性だってある。

 中学生の頃に数日、一年後輩の女子と2人で体力づくりのためにジョギングをしていた時期があった。

 しばらくして殆どのクラスメイトから「あいつら付き合ってんのか?ってうちの親とかみんなに聞かれんだけど」と詰め寄られ、恥ずかしさとバカバカしさで、すぐに断念した。

 もっともその娘の父親にだけ、「将来嫁にもらってけれ」と頼まれた。こちらは何も言っていない。

 数年前に無事別の男性と結ばれたようで、その時にはひどく恐縮しながら「わりぃなぁ」と謝られた。こちらは最初から頼んでなどいない。

 お盆や正月に利尻に帰っても、家族との団らんや友人との会話の中で聞こえてくるのは、そんなゴシップがほとんどで、これはこれで当事者でない側からすればワイドショーの1億倍はおもしろい。

 けれど今回は、ゴシップとは全くと言っていいほど無縁の生き方を貫いている男の話。


 私の実家の5軒先にその友人の家はある。友人と言っても学年は4つ上で、私の次兄(やっち)の同級生だ。

 ちなみに、島の中には先輩後輩という概念はないと言っていい。名前は互いに呼び捨てだし、そもそも敬語というモノがほぼ存在しない。

 そのため高校で札幌に出てきた当初は、野球部の先輩の話に「それウゼぇ!」と無意識にツッコミを入れてしまい、「コロすぞ」とご指導を受けたりした。大変ありがたいことだった。

 その友人、ここではNと呼ぶが、Nに対しても私は当然タメ口で接していたし、彼もそれを全く意に介していなかった。

 Nは兄の同級生ながら、私と遊んでいる時間の方が圧倒的に多かった。

 遊ぶと言っても外でキャッチボールをしたり海で泳いだりではない。Nの家でひたすらテレビゲームに興じるのが常だった。

 勉強も運動もからっきしダメだったが、Nは稚内のデパートで仕入れて来た面白いゲームソフトをたくさん持っていて、私はそれをやりたいがためにほとんど毎日のように遊びに行った。

 長期休みには泊まりがけでゲームをし、翌日一旦自分の家に戻ってから再び泊まりに行ったりもした。

 当時まだ放送していた、自分の家では絶対に見ることのできない深夜のお色気番組も、Nの部屋でニヤニヤしながら一緒に見た。思春期の悶々とした気持ちを発散する方法を、私は兄達ではなくNから教わった。

 Nの家族は、彼を含め揃いも揃っておとなしい人ばかりだった。

 中でも父親は恐ろしく無口な人だった。風船のように大きく膨らんだ体型のせいで、常に「ふぅ、ふぅ」と辛そうに息をもらしながらご飯を食べたりテレビを見たりしていた。針を刺したら破裂するんじゃないかと、本気で想像したことが何度かある。

 その父親も夏はウニ漁に出た。漁が終わって、殼から取り出した身を入れたバケツをリアカーに乗せ、さらにそれを自転車の荷台に繋いで、500m先の集荷場まで引っ張って運んだ。

 セミがやかましく鳴き始める中、太陽に照りつけられ汗だくになりながら、陽炎の立ち上る歩道を自転車で走る様子を見て、私は夏が来たことを実感した。

 母親は週に1度は私の家に歩いて遊びに来て、家計のやりくりやら自分の体調のことやらをばば(祖母)に相談し、なぜか必ず毎回叱られて帰って行く人だった。

 最初は子どもながらにかわいそうだと思っていたが、どれほど叱られても「へへへ」と笑って反論せず、次の週にはまた家に来て同じような話をし、同じように説教されて帰って行く姿を見続け、それが当たり前の風景になっていった。

 Nは利尻の高校を出てすぐ漁師になった。当時、本土の専門学校にも進学せず、地元の役場や漁業組合にも入らずに漁師を選択する若者はよっぽど珍しかったらしく、基幹産業のフレッシュな担い手が誕生したことを祝って、町が広報誌で大きく取り上げた。

 普段ほとんど目立つことのないNの、多分最初で最後の勇姿だった。

 写真の表情は、お色気番組に出てくる女性を見る時のニヤニヤとは違ってぎこちない笑顔だったが、同じ集落の住民たちは皆「大したもんだ」と誉めたたえたし、もちろん私も家族のように喜んだ。

 漁で得たお金で軽ワゴンを買い、彼の父親が集荷場までリヤカーを引っ張る必要もなくなったし、集落のじじばばたちが「買い物したいから街まで乗せてってけれ」と頼んでも嫌な顔ひとつせず車を出した。

 私が中学卒業後に札幌へ出てからは、一年に1度会うかどうかの付き合いになっている。

 Nは年々丸くなっていった。性格も、体も。

 父親のように常に肩で息をし、母親のように何を言っても常に人懐っこい笑顔で「へへへ」としか答えなくなった。

 酒豪のイメージがある漁師とは真逆で酒は一滴も飲まず、エブリデイエブリタイムでコカ・コーラ。

 仲間たちが集まって、島のゴシップトークに花を咲かせていても、端の方でただニコニコ笑って聞いている。

 朝漁に出て、終われば家に帰ってすぐに寝る。

 夜に起きて、一晩中ゲームをする。

 結婚もせず、人付き合いはほとんどないが、ほんのわずかでも世話になった人やその親族が亡くなった時には必ず葬儀に出向き、誰と談笑するでもなく、せっせと下足番をする。

 これが彼の生き方の、ほとんどすべてだ。特筆すべき事件やゴシップは何も出てこない。島の中でもなかなか稀有な存在だろう。


 島という、外部と切り離された狭いコミュニティでは、人との関わりがより密接になる。

 小さなコミュニティは持ちつ持たれつで、助け合いや共存という点ではとても大きな効果を発揮する。私自身それが当たり前だったし、今でもその恩恵を受けながら生活している。

 けれどまたある部分では、その分かちがたい関係のせいで、義理を欠くだとか権高に振る舞うだとか、そういう、誰かのちょっとした何かをきっかけに、途端に生きづらくなることもある。

 島の過疎化が進む要因の1つには、個人の生き方が尊重される時代と、それに逆行する、あたたかすぎるほど深い関係性ゆえの難しさがある、と私は勝手に分析しているが、全くの見当外れではないと思う。

 島を離れてもう20年近く経つ。中学まではほとんど何も考えずに過ごしてきたし、札幌に出たのも明確にやりたいことがあったからではない。

 だから今さらこんなことを言っても、島の人から見れば、自分の稼ぎで島暮らしをしたこともない奴が偉そうに語るな、と思うだろう。私が逆の立場なら間違いなくそう思う。

 ただ、最近は自分が島に帰って暮らす姿を想像してみることがある。それが何年後、何十年後になるか、もしかしたらそんなことは生涯ないのかもしれないが、とにかく想像してみる。

 そして、その流れでNのことを考える。いつも決まって、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を思い出す。

慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
(中略)
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ

 思い出すといつも、島ではそういう生き方があっていいんだよな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?