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やっちという生き方。

 前回の投稿の中に次兄が出てきたので、彼の話をもう少し。

 次兄は、小さい頃から周りの人たちに「やっち」という愛称で呼ばれている。私もそうだし、長兄や両親やじじばば、友達、学校の先生、近所の人、とにかく全員からそう呼ばれていた。だからここでもそう呼ぶ。

 私たち兄弟は、3人が3人とも全く顔が違うのだが、中でもやっちは親戚中どこを探しても近い顔がないぐらい、家族の誰とも似ていなかった。生まれた時から体がでかく、長兄や私は今でも身長が160cm後半だが、彼だけ180cm近くある。一緒にいるときどちらかの知り合いに兄弟だと説明すると、大抵は目を丸くされる。

 それが理由かどうかは分からないし、これはやっちがいつも冗談まじりに自分で言っていることだが、「二ツ石(母方)のじじばばも、沼浦(父方)のじじばばも、俺を全然可愛がらなかった」そうだ。名前も、父と父方のじじから一字づつ取った単純な名付けだった。

 長兄とは年が6歳離れていたため小学校はカブらなかったが、4学年上のやっちとは2年間だけ一緒になった。体が小さくて泣き虫だった私が、昼休みの体育館で友達と喧嘩して泣いていると、「学校で泣くなや、恥ずかしい」と叱られたのを覚えている。小さい頃からどことなく大人びていて、周りがよく見えている人だった気がする。

 私たち兄弟は、利尻という田舎の中では割と勉強ができたほうで、鬼脇の少年野球チームでは一応3人ともエースだったりと、運動もそれなりにできた。

 父母ともに、名前を書けば入れる(と、言われている)利尻の高校を出ていたにもかかわらず、長兄を筆頭にゆくゆくはみんな札幌の高校へ進学し、もちろん野球も続けるというのが、なんとなく既定路線になっていた。

 長兄はその先陣としてのプレッシャーもあったためか、受験勉強中は家族全員が引くぐらい皿のような目をしながら、しかも暗記なのかなんなのか、小声でずっとブツブツ言いながら自分の部屋とそれ以外の部屋を行き来していた。結局、当時札幌で最も偏差値の高かった公立高校には落ちたものの、創立して間もない私立に無事合格した。

 中学では生徒会長として、中学校創立50年の在校生代表として立派に挨拶をしたやっちも、もれなく家族や学校の期待を一身に背負って、札幌の高校への進学を目指した。

 ウニやコンブ漁のシーズンが終わり、父が長兄の学費を稼ぐために、本州へ出稼ぎに行った秋頃だった。やっちは耳たぶの後ろに小さなしこりが出来たとかで、それ以外に自覚症状はなかったのだが、念のため沓形の病院を受診することになった。

 当時の先生は、「万が一のことがあるかも知れないから、大きい病院で検査したほうがいい」と言って、取ったしこりを札幌の国立病院に送ってくれた。母やばばは、今でもその先生に感謝している。

 診断は、

「悪性リンパ腫」

だった。

 当時はネットも普及していなかったため、それがどういう病気であるか、私には見当もつかなかった。最近では著名人が必死に闘病している様子が報じられたし、残念なことに亡くなられてしまった文化人の方も数多くいて、今ではこの病名もだいぶ認識されるようになったと思う。

 比較的早期に発見され、快復の見込みは十分にあると言われた。しかし母やばばは、自分の息子、孫が、この若さでこのような重い病気を宣告されたことに、相当なショックを受けたはずだ。それでも、少なくとも私の前では一切深刻な話をしなかったし、もちろん涙も見せなかった。

 当時はじじばばともに健在で、ごく近しい人が亡くなった経験が無かった小学5年生の私も、ちょっと入院するぐらいの話だろうと高をくくっていた。

 札幌でのやっちの闘病生活は半年以上にも及んだ。正月には父が出稼ぎ先から駆けつけた。私も冬休みや春休みには、じじばばと一緒に島から様子を見に行った。

 がん治療の過程でよく聞く抗がん剤による副作用で、やっちの髪も例外なく抜け落ち、頭には常に白いタオルが巻かれていた。

 小児科病棟には年齢制限があって、私は病室に入ることが出来なかったので、いつもやっちの方が病棟の外にある談話スペースまで来て、喋ったりTVで一緒に春のセンバツを見たりした。

 やっちはとても元気だった。少なくとも私の前ではそうだった。闘病生活が辛いという話を、私には一切しなかったと思う。

 看護師さんが病室にご飯を運んできたら、ベッドの上で父がいびきをかいて寝ていたこと。

 長兄と2人で、病室でギターを弾きながら大声で歌を唄って怒られたこと。

 これまた長兄と2人、看護師さんと仲良くなり、ナースステーションを借りてお互いの髪をバリカンで坊主にしたこと。

 そんな話ばかりして私や家族を笑わせてくれたし、病室からどこで手に入れたか分からないラグビーボールを持ってきて、病院内にある連絡通路で私とパスの練習をして先生に怒られたりもした。

 そんなことがありながら、看護師さんや、私と同年代で小児科病棟に入院している子どもたち、そしてその親御さんたちからも「やっち」と呼ばれ慕われていた。

 だからこそ、病棟に入れない当時の私にとって、やっちの病気は「その程度」にしか感じられなかった。

 容体が悪化するとナースセンターに近い病室へ移され、一番深刻だった時は「センターから2部屋目」まで行ったことや、つい先日まで一緒に遊んでいた同じ病室や病棟の子どもたちが次々に亡くなっていったことや、その度に死が間近に感じられ、母やばばがわんわん泣いていたことは、すべて後から聞いた話だ。

 幸いやっちは快復した。

 入試は特別に病室で受験し、レベルは落としたものの見事札幌の公立高校に合格した。春にはわざわざ担任の先生と校長先生が札幌まで来てくれた。頭にタオルを巻き、点滴スタンドを引き、入院着のままだったが、看護師さんや病棟の子どもたちの祝福に包まれた、賑やかな卒業式が執り行われた。

 高校を出てからもしばらくは札幌やその周辺で暮らし、5年ほど前、札幌で知り合った奥さんを連れて利尻に帰り、今も父やばばのそばにいながら漁師をやっている。昼は土方で肉体労働をこなしながら。

 自称「誰からも可愛がられなかった」やっちだが、今では私たち兄弟の中でも1番の孝行者とされている。近所のじじばばたちから役場に提出する書類の書き方を聞かれては教え、見返りにビールや魚をもらうという、非常にコスパの良い島生活を謳歌している。

 周りの人たちはやっちのことを、「若いときに病気で苦労したから、今こうやって家族や近所の人を思いやれるようになったんだ」と言う。

 私は、少し違うと思っている。やっちは、自分がかつて癌に侵されていたということは、もはや頭にないだろう。私がガキの頃から何も変わっていない。その時々で、自分の手が届く範囲にいる家族や友達、学校の先生、看護師さん、病棟の子どもたちを笑顔にしていたに過ぎない。そしてそれが自分にとっての喜びにつながることを、昔から無意識のうちに理解しながら生きているように見える。むしろその生き方が、難病さえも克服させたんじゃないかと思う。

映画『パッチ・アダムス』の中でパッチは言う。

「笑いこそが、病を癒し、生の質を高めるための一番の特効薬だ」

と。

「やっち」は医者にはならなかったが、今日も故郷利尻のどこかで誰かを元気にしている。




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