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「心」の距離。

今年に入って2回目の『北の国から』ひとり鑑賞会を開催している。

これまではDVDでレンタルしていたのだけれど、どこの店舗へ行っても必ずどこかの回が貸出中になっており、一通り観るのにエラく時間がかかっていた。札幌のどこかに、年中借りて観ている猛者が、確実に数人存在している。

観たいと思った時に観れないのが辛すぎて、ついに「FODプレミアム」に加入してしまった。『北の国から』を観るためだけに加入してしまった

言わずもがな、このドラマは名言・名場面の宝庫だ。連続ドラマとスペシャルを合わせた約21年間の放送を何度も観てきて、その度に同じことを思う。セリフやシーンはもうなんとなく頭に入っているから、次のあの名言を、名場面を、ウズウズしながら待っている自分がいる。

その中からベストワンを決めろと言われても無理な話だけれど、個人的に特に思い入れの強いシーンがある。第23話「破れた靴」での、北村清吉(大滝秀治)のセリフだ。以下、ネタバレあり。

黒板五郎(田中邦衛)の別れた妻である令子(いしだあゆみ)が亡くなり、純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)は、令子の妹である雪子(竹下景子)と先に富良野を発ち、飛行機で東京へ向かう。同じ日の夜に五郎の親戚にあたる清吉も飛行機で駆けつけるが、肝心の五郎だけが一向に来ない。
翌朝ようやく東京に到着した彼だったが、葬儀が終わった翌日の朝にはもう富良野に帰るつもりだと言い出す。自分が留守にしていることで、ともに働いている仲間たちに迷惑をかけているからだという。
この五郎の態度を、純だけでなく、令子の親戚や知人たちは口々に非難する。「死んだ後まで自分を捨てた人間を恨むのか」「普通ならすっ飛んで来るもんだろう」「誠意がない」と。
それを聞いていた清吉が、静かに口を開く。

それは…違うんじゃないんですか?深い事情は、わしよう知らんですよ。けど…それは違うんじゃないんですか?五郎は、早く来たかったんです。純や、蛍や、雪ちゃんと一緒に飛んで来たかったんです。あいつがどうにも来れなかったのは、恥ずかしいが…この…金なんですよ。(中略)だからねぇ…あいつ汽車で来たんですよ。一昼夜かかって汽車で来たんですよ。飛行機と汽車の値段の違い、分かりますかあなた。1万とちょっとでしょ?けどその1万とちょっと、わしら稼ぐ苦しさ考えちゃいます。何日土に這いつくばるかってね。……おかしいですか、私のはなし。
          ーフジテレビ『北の国から』第23話「破れた靴」より

『北の国から』は、都会で暮らす者と地方で暮らす者との、金やモノに対する価値観の対比を、数多くの出演者のセリフを通して描く。引用した箇所もそれを象徴する場面の一つで、大滝秀治さんの、あの独特なしわがれ声や、口調や、間が、なんとも哀愁を漂わせていて良い。本当はこのセリフにつながる数々の伏線を解説したいところなのだけれど、それは将来私が書き上げたいと思っている論文集『「北の国から」私論ー拝啓、五郎さんー』に譲りたい。ちなみにタイトルだけ決まっていて内容はまったくの白紙だ。

私が特に思い入れが強いと言ったのは、もちろん対比の話もそうだけれど、ここでは「距離」のことだ。

故郷である利尻島と、新千歳空港との間に直行便が開設されたのは1999年、私が小学6年生の時だ。「新千歳ー利尻間が片道1時間弱」という衝撃的なニュースに、私を含め島民全員が腰を抜かしたと思う。

それまでは、フェリーで約1時間半かけて稚内へ渡り、そこからバスか汽車に約6時間揺られる。ようやく札幌に到着した頃にはヘトヘトになっており、布団に入ってもしばらく謎の浮遊感に襲われ続ける、というのが常識だった。

「フェリーで稚内に渡ってる間に、飛行機はもう新千歳に降りてるんだぜ」

そんなこと、とても信じられなかった。

とは言え、当初は夏季限定運行だったし、主な利用者は観光客や役場のお偉いさんぐらいだったんじゃないだろうか。なんせ飛行機の運賃はバスや汽車の倍以上する。裕福ではない私たち家族は、

「あんなもの乗るのは金持ちだけだ」

と僻むことしかできず、就航後もしばらくの間は、約7時間半吐きそうになりながら揺られる方を選択した。

拝啓、五郎さん。あの頃はまだ札幌が、私たちにはすごく遠かったんだ。

初めて一人でバスに乗り、札幌から利尻まで帰ったのは、1998年、小学5年生の年明けだった。

前年の秋に次兄が重い病気に罹り、札幌の大病院での入院を余儀なくされた。冬休みに入り、私は母と2人で汽車に乗って札幌へ行き、毎日のように兄の病院へ出かけた。抗がん剤の副作用で兄の体調がすぐれない時は行っても会えないから、一人で街に出て、デパートでテレビゲームを物色したり、本屋でコミックを買ったりした。

当時の私は兄がすぐ良くなるものだと思っていたから、当然帰りも母と一緒だろうとタカをくくっていた。

兄の入院は想像以上に長かった。母に、

「お母さんもうしばらく札幌に残るから、あんたは一人で島に帰りなさい」

と言われて初めて、事態の深刻さに気付いた。

長兄は札幌の高校に通っており、父は内地に出稼ぎに行っていて春まで帰ってこない。当面の間、島でじじばばと3人だけで暮らすことに、不安と寂しさしか無かった。

島へ帰る前日、叔母と公開されたばかりの映画『アルマゲドン』を観に出かけた。かねてからしつこく観たいと言っていた私にしぶしぶ付き合ってくれた叔母は、隣の席で大号泣していた。一方の私は、明日からしばらく母に会えなくなるという事実が頭から離れず、映画どころじゃなかった。いや、映画はしっかり観ていた。ブルース・ウイリスが、娘役のリヴ・タイラーと最期の交信をする場面に、明日の自分を重ねていた、ような気もする。宇宙規模で大げさだけれど。

翌朝、稚内行きのバスに乗るため母と札幌駅に向かった。稚内には、利尻から朝1便のフェリーで父方のじじが迎えに来てくれているらしい。夕方の最終便で一緒に島へ渡る予定だった。

ターミナルに停車中のバスに乗り、運転席とは反対側の最前列に座った。

窓越しに母に手を振り、母もそれに応じた。

ドアが閉まり、バスが発車した。

途端、堰を切ったように涙がこぼれた。

さすがに声は上げなかったが、豚鼻を鳴らして泣いた。

バスの前方には小さなTVモニターがあった。座席についているイヤホンをセットすると音声が流れる仕組みだった。

モニターでは、宝塚かなんかのミュージカルと、タイトル不明の洋画(家の床下に死体だか金だかを隠している男の話だった)を放映していた。それを観ている最中は寂しさが幾分か薄らいだけれど、終わるとまた涙が突き上げてきて鼻を鳴らした。

運転手は驚くほど無愛想な人で、バックミラー越しに見える表情は明らかに、

「チッ、うるせぇな」

と言っていた。

途中、小平町の鬼鹿(おにしか)という場所にあるホテルで休憩をとった。泣きつかれて喉が渇いたので自販機に向かったものの、財布に小銭がなく、5千円札しか入っていないことに気付いた。何を思ったか、私は無愛想なバスの運転手のもとに行き、

「5千円くずせませんか?」

と聞いた。

「くずせません」

と言われた。

運転手の冷たさのせいなのか、お札をくずせなかったせいなのか、悲しくなってまた半べそをかいていると、同じバスの乗客らしいおばさんが、

「ホテルのカウンターで聞いてみたら?」

と、一緒にホテルのスタッフに申し出てくれた。快く両替してくれたのを見ておばさんはにっこり笑い、

「良かったね」

と言って、バスの方に戻っていった。初対面の人の優しさに触れて、休憩後は少しだけ落ち着きを取り戻した。

事態が急変したのは稚内の手前の豊富(とよとみ)付近だった。急に天候が悪くなり、フロントガラスに雪が勢いよく吹き付けてきた。すると運転手が、

「稚内周辺が猛吹雪のため視界と路面状況が悪く、利尻行きの最終フェリーには間に合わない見込みです」

続けて、

「稚内市街では数カ所に停車します。停車場からタクシーの利用をご希望の方はお申し出ください」

とアナウンスした。

幼い私は、幼いなりにこの2つのアナウンスを何度も反芻し、驚くほど都合のいい策を思いついた。

フェリーに間に合わない→ターミナルでじじが待ってる→連絡とれない→バスが来ない→フェリーが出てしまう→じじ帰る→俺ひとりぼっち→何とか間に合わせないといけない→稚内の市街地で数カ所に停車→タクシーを呼ぶ→市街地の最初の停車場で降りてタクシーに乗る→バスより速い→フェリーに間に合う

「タクシーで行ったらフェリーに間に合いますか?」

「間に合いません」

終わった…。

奇跡的な天候回復と、運転手のスーパー運転技術に一縷の望みをかけるも虚しく、バスはフェリー出港時刻の30分ほど後にターミナルに到着した。

じじは、バスの停車場近くで待っていてくれた。ひどく安心したけれど、考えてみれば当然のことだった。孫を放って一人で帰るはずはないし、そもそも猛吹雪で視界不良ならフェリーが出ることもないだろう。ターミナルから母に電話をかけた。電話の向こうで母は、

「お前、ほんとにツイてないねぇ」

と笑っていた。

その日はじじと2人で稚内の旅館に泊まった。じじは会う人ほぼ全員に、

「いやぁ、20年ぶりの大雪だぁ」

と言っていた。正直、(20年ぶりの大雪を今このタイミングで降らすんじゃねぇよ!)と思ったけれど、別にじじが降らせた訳でもないので黙っていた。

夜寝床につくと、忘れていた寂しさがまたこみ上げてきた。じじは隣でイビキをかいており、声を上げたら起きてしまう。だから静かに布団から出て、部屋を出て、トイレに入って大声で泣いた。

「やっち、早く元気になるといいな。早く治してみんなで帰ってこれるといいな」

と、何度も何度も口に出して祈った。本当は母と会えないのが寂しくて泣いていたのだけれど、こうやって祈れば、兄のことで涙を流していると思った神様が願いを聞いてくれるかもしれないと、やっぱりどうしようもなく都合のいいことを考えていた。

翌朝、道路脇には雪がうず高く積まれていたけれど、空は快晴でフェリーも無事稚内を出港した。利尻島鴛泊港からタクシーに乗り、札幌出発から丸一日かかって、ようやく母方のじじばばが待つ我が家に着いた。気持ち良すぎるくらいの青空が広がっていたからか、昨日あれだけ泣いたからなのか分からない。けれど、あんなに清々しい朝を体験したのは生まれて初めてのことだった。

こうして、私の恥ずべき(ほぼ)ひとり旅は終わった。自分から見てもマザコンだし、これほど幼稚な小学5年生はいないように思う。

ただあの当時、確かに札幌は遠かった。物理的な距離ではなく、時間的な距離であり、ごく感覚的な「心」の距離とも言えるかもしれない。

生き方や経緯は全く違えど、純や蛍、五郎さんにとっての富良野ー東京は、当時の私にとっての利尻ー札幌だったと、私は勝手に思いを重ねている。

今は利尻ー丘珠間の飛行機が毎日運行しており、早めに予約すればある程度費用も抑えられるから、冬に帰省する際には必ず利用している。さっき離陸したかと思えばもう着陸態勢に入っているくらいあっという間で、室生犀星のような郷愁に浸っている暇もない。それほど気軽に行き来できるようになったのは、とても良いことだと素直に思う。

一方で、近くて遠い大切な人たちとの「心」の距離を、おそらくこんな時節だからこそ、より寂しく、より懐かしく、より愛おしく感じてしまうのも事実だ。

後日談…

(ほぼ)ひとり旅からしばらくして、再び札幌から利尻に帰る機会があった。

その日は汽車で、私は母と一緒だった。

偶然、学校のクラスメイトと一緒になった。彼も母親と2人だったけれど、母親の方は札幌に残り、帰りは彼一人らしかった。

出発前に4人でご飯を食べ、駅のホームまで見送りに来た彼の母親と別れた。

出発して少しすると、近くの席からすすり泣く声が聞こえてきた。私の隣に座っている母が耳元で、

「あの子泣いてるよ、どうしたの?」

と囁いた。

「さぁ、わからん」

と答えておいた。

わかる、わかってるよ。お前の気持ちは。

「心」の距離は、思いやりを生む。











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