ランナーの話
俺がいつも行っているジムには可愛い子がいる。器具の扱い方も丁寧に教えてくれる。笑うとえくぼが出来る顔なんてもうたまらない。身長は俺より二十センチ低いけど、身体付きはなかなかのものだ。
名前は真中瑠衣という。
そんな俺は彼女を口説くのを夕方の習慣にしていた。
ジムに女の子口説きに来るなんて、とか堅いこと言いっこなし。俺はちゃんと金を払ってるし、他の女の子には見向きもしない。瑠衣一筋なんだ。
一ヶ月かけて熱心に口説き続けたお陰で、何とかデートにまでこぎつけた。
手も繋いだし、キスもした。だが肝心の身体の関係がまだだった。
じれている俺に向かって、彼女はこう言った。
「私、ストイックな人が好きなの」
真剣な顔で彼女が言う。
「シュンに惚れたのだって、筋トレに打ち込む姿かっこよかったから」
「じゃあ、何でダメなんだよ」
「問題はそこ」
瑠衣は俺の唇に人差し指を当ててきた。
「そんなに焦らないでほしいな」
彼女の吐息が耳に吹きかけられる。
これもう、俺、遊ばれてるよね?
「こうしよっか」
瑠衣は手をパンと合わせた。
「十キロ一時間切れたらヤらせてあげる。一ヶ月猶予をあげる」
その日から俺はムキになった。
朝は四時に起き、出勤前に平均八キロの距離を走った。
最初は息が上がるだけだったが、次第にペースがいい感じに伸びてきた。コースにもよるが下り坂のあるところでは一キロ四分を切る事もできた。
そして十キロを走り抜ける事に慣れてきて、ついに――。
瑠衣の胸は想像していたより大きかった。茂みの奥は思っていたよりきつく、それでも時間をかけてほぐしてやると慣れてきた。
「あまり経験がないの。優しくして」
瑠衣はそう言って甘えてくる。
望み通りにそうしてやる。彼女は最初、声を押し殺していたが、絶頂を迎える時には耐えかねたように甲高い声で啼いた。
彼女との行為のあとで顔をまじまじと眺める。
「何?」
「いや、綺麗な顔してんな、と思って」
「もう」
そう言って彼女は目を閉じて唇を寄せてくる。
俺は吸い寄せられるように瑠衣と唇を合わせた。
十キロのノルマを終えたからと言って、俺は走るのをやめなかった。最初は苦行だったが、次第に快楽に変わっていったのだ。苦しいんだが、ある地点を越えるととても気持ちよくなる。それがやみつきになった。
「今日も走ってるね、感心感心」
走り終えたあとで瑠衣からのLINEを見た。どこかで見ていたのだろう。
季節は秋。夏が過ぎ、走るのにちょうどいい時期だった。いつか瑠衣も誘って一緒にゆっくりと走るのも悪くない。そのあと、部屋に戻って二人でシャワーを浴びながらお互いをゆっくりと味わうのだ。
ある日、走っていると工事現場に差し掛かった。
しょうがない、迂回しよう。そう思った時、気づいた。立ち入り禁止の看板がない。矢印も現場の中に向いている。
これはまっすぐ進んでいい、という事なのか。そう考えた俺はまっすぐに進んだ。
快調快調、調子いいぞ。
そう思った次の瞬間、俺は地面が消えるのを感じた。そして次の瞬間、俺の身体は重力によってどこかに落ちていった――。
******
葬儀会場のあちこちからすすり泣きが聞こえてくる。
(まだ小さかったのに……)
(小学校あがって友達もいっぱいできて……)
周りの全員が配慮しているつもりなのだろうが、私の耳にはそういった声が飛び込んでくる。
晴人は本当に名前通りの明るい子だった。
周りの人全員を笑顔にするような子で、クラスでもムードメーカーだったらしい。
それだけじゃなく、正義感溢れる子だった。
いじめやケンカがあれば仲裁に入り、互いの言い分を聞く。
「僕、おじいちゃんみたいに警察官になりたい」
そんな風に言ってくれたのは、七十五の誕生日だった。
そんな晴人が、死んだ。
学校からの帰り道、車道に飛び出たらしい。
目撃者は誰もいなかった。
事故を起こした車の運転手はすぐに救急車に通報し、搬送の手配をした。気弱そうな、市役所勤めの男だった。一瞬目を離した私が悪いんです、と何度も連呼した。男にどういった判決が下されるのか。
それよりも気になる事があった。
あの子が車道に飛び出るなんて愚かな真似をするだろうか。
あとで後輩から聞き出した。防犯カメラを調べると事故直後、ランナーが現場を走っていた、という。
コイツが原因じゃないのか。
私は思った。
しかしどこの誰ともわからない。
だが思った。また、同じルートを走るのではないか。
それなら簡単だ。罠を仕掛けてやればいい。
声をかけたのは松男だった。
「ゆいっちゃんさ、俺、初期のアルツハイマーなんだってよ」
松男はそう言った。泣きそうな顔をしていた。思えばこの男のこんな顔、初めて見た。本当に悲しい時は無表情になる男だった。
「息子とか孫も、その内施設に、なんて言ってんだ」
「そりゃまた……」
捜査一課、鬼の松男も年齢には勝てないってか。
「だからさ、俺がやるよ。そいつが「穴」に落ちる現場を整えりゃいいんだろ?」
「でも、バレたら」
「俺はアルツハイマーだぜ? 今は大丈夫だが、その内何もわからなくなるんだ。孫なんて俺の顔を見るだけでこう言うんだ。「ジジイいつ死ぬの?」って」
「まっちゃん……」
私は頭を下げた。
「この酒田裕一、お前にどう礼を言ったらいいかわからねえ」
「いいんだよ」
そう言って松男は私の肩を叩いてくる。
「葬式には来てくれよな。施設なんか入りたくないんだ」
私はうなずく。
******
男が落ちたのを確認してから私はライトをつけた。
穴の中、男が動いているのがわかる。
だが動きは緩慢だ。
放っておいても死ぬだろうが、どうせなら生きている事を後悔させてやりたい。
私はリュックを下ろし、中から瓶を出した。ラベルには、塩酸、と書かれてあった。
蓋を開け、傾ける。穴の中に中身が吸い込まれていく。
下の方から「ギャアアアアアアアアアアア」という悲鳴が聞こえてきた。
どこに当たったかはわからない。男が助かるかどうかもわからない。
だがそれでいい。
晴人は気づかずに殺されたのだ。
この男にはそれぐらいの報いがなければ。
「ゆいっちゃん」
後ろから声がする。
私は松男にうなずく。傍らにあるマンホールの蓋を二人で引きずり、穴にはめ込んだ。
悲鳴が遮断される。
「ゆいっちゃん家はどうだ?」
「息子夫婦はすっかり塞ぎ込んでな。立ち直るのに時間がかかる。俺は残りの人生をかけてあの二人に寄り添うつもりだ」
「ゆいっちゃんらしいや」
「まっちゃんは?」
「昨日話した通りさ」
「そうか」
私たちはその場で別れた。
後日、歩道の工事現場を眺めていた。
誰もマンホールの事は気にも留めていない。工事の雑音は大きく、男が声をあげたとしても周囲には聞こえない。
松男は、あのあと部屋で首を吊ったらしい。
あいつらしい幕引きだ。
頭の上を青空が流れていく。
天国にいる二人に呼びかける。
晴人、松男。見ているか。やったぞ。
昼になり、工事の音が止む。
たすけて、という声が聞こえた気がした。
幻聴か、と私は笑う。
作業員たちが現場から去って行く。
緒方が仏壇に線香を立て、手を合わせる。それから私の方を向いた。
「いやあ、酒田さん。すみませんね」
こいつが刑事になったばかりの頃はまだ青臭さの抜けない新人だった。だが、今は体重も二十キロ増えて貫禄がついている。
「いや、いいよ。それで話ってのは?」
テーブルを挟んで座る。
「この辺でランナーが行方不明になってるんですよ」
来た、と思った。
「それで?」
「誘拐か、拉致の線も調べたんですけど、暴力団や半グレとの繋がりもなし。しかもこの辺酒田さん家の近くじゃないですか。気になって」
「何か見てないか、って?」
はい、と言って彼はうなずく。
「散歩は日課にしているが、知らねえなあ」
「そうですか」
「何か、怪しい点があるのか?」
「はい」そう言って緒方はスマートフォンを出してくる。地図のスクリーンショットを見せてきた。
「これ、ガイシャの辿ったルートなんですけど、普段、この辺は通らないそうなんですね」
思わず、え、と言ってしまいそうになる。
「……ほお」
「たまたまその日は」
そう言って別のスクリーンショットを見せてくる。
「このルートを辿ってるんですよ」
そこには私たちが罠を仕掛けたルートが表示されていた。
じゃあ、私が殺したのは、一体。
「人がふっと消えるなんて信じられないんですよ。何か事件の匂いがして」「そうだな」 私は言いながら、余計な事を喋るな、と己に言い聞かせていた。
「この地図はどうしたんだ?」
「同棲している恋人に聞いたんですが、走行場所が出るアプリを使用していたそうで。お互いにこのルートがいいとか情報共有していたそうなんです」
「便利だな」
「やはり事故というより事件の可能性の方が高そうですね」
緒方が一人うなずく。
「デカらしくなったじゃねえか」
私が言うと緒方が照れたように笑う。
「あれからもう何十年も経ってるんスよ」
そして若手の頃のように笑った。
緒方が帰ったあとで私は再び犯行現場に足を運んだ。
マンホールの上に立つ。
あの時聞こえた気がした、「たすけて」という声はもう聞こえない。
青空の中を雲が流れていく。
了
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?