とはずがたり 『結婚写真』
昔、父母の「結婚写真」を見せてもらったことがある。
どこかの神社の境内で
母だけがひとり 満面の笑顔。
父は、緊張の面持ち。
その他の 写真に写る人々は、微妙な表情。
何ともいえない、微妙な感じの 結婚写真。
3年位前だったか、実家に行ったとき、
母が、「50年よ。今年、50年になるとよ・・・」
少し照れたように、そして感慨深げに そう言った。
そうか・・・、金婚式なんだ。
普通の夫婦でも「金婚式」ともなれば感慨もひとしおなのだろうが、
母のこの言葉には特別な含みを感じずにはおれない。
なにしろこの夫婦、50年前の結婚の折、
双方の両親、親族、知人、あらゆる人に結婚を反対され、
「5年以内に離婚する」という意見が100%で、
オッズが成立しなかったとか、
「とても責任を負いきれない」という理由で仲人の引き受け手がなく、
両家から一組ずつ、二組の仲人を立てるという
聞いたことのない結婚を断行したとか、の いわくつきのカップルだった。
両親が結婚したのは昭和43年11月、母35歳、父21歳の時だった。
双方初婚で、母は独立4年目の当時まだ珍しかった‘’女流カメラマン”、
父は陶芸の修行に入って3年目の 住み込みの”弟子”という立場だったと聞いている。
周囲の懸念も当然であっただろう。
母は10年間修業した老舗写真館から独立し、4年間フリーのカメラマンとして、NHKや民放のテレビ局、新聞社などの依頼を受け、取材に同行する報道カメラマンだった。結婚前はかなり華やかな仕事をしていたことになる。
一方父は若輩の陶工のたまごだった。
年の差もさることながら、社会的立場が大きく違っていた。
私が子供の頃に聞いた話では 結婚するにあたり
父は、母に こう言った。
「私が貴女の面倒を一生見ますから、仕事をやめてください。」
「…オトコ、のメンツ、ってやつなのかなぁ」などと子供心に空想した。
けれど、母にしてみれば「これから!」という時に、
あっさり仕事を離れる事に、何の未練もなかったのかな?
という疑問はあった。
私は、母に尋ねてみた。
「ぜ~んぜん」と、母は笑って答えた。
私がもう少し大人になってから、二人の結婚のいきさつに もう少し”ワケ”があったことを知った。
その”ワケ”とは他ならぬ ”私” の存在だった。
つまり、”出来婚”だったのだ。
あっけらかんとした母の性格のお陰で、その事を知った時でも、
「私の存在が、母のキャリアの道を断たせたのか…」
などと深刻に思い悩んだりする事は 私にはなかった。
「同時に二つの事を出来ない自分だって、知ってたから 一方を(仕事)手放すことには、何のためらいもなかった」と母は言った。
ちなみに、「二つの事」のもう一方は、「母になること」ではなく
「(父と)結婚する事」だったようである。
妊娠が分かった時、母の周囲では それまで結婚に強硬に反対していた親族や友人たちの意見に変化があり、
「百歩譲って結婚したとして、子供は、今回諦めたほうがいい」という意見が多くなったそうだ。母も、そこは悩んだらしい。
「そうかもしれないなぁ…」なんて思って、何気なく父に相談したら、
父が真剣に「もし その子を授かれなかったとしたら、私達は絶対に結婚できないと思います」と言ったのだそうだ。
いろいろ経験しながら50余年、当時の父母の年齢をはるかに超え、若かりし日の父母の事情や心情も 余裕で推察できる気になってはいたが、
この時の父の言葉には、一種の凄味を感じる。
父は ”縁” の事を言ったのだと思う。
いつか、どこかの 遠くから、様々な関りが紡がれた結果としての ‟命”。
その ‟命” に ‟家族” の 縁 を悟った 若干21歳の父。
状況から考えれば、葬られていても おかしくはなかった私は、
言葉では説明できない ‟信頼” のような感情に包まれて 成長した。
私の持つ ‟家族観” が なぜか他人《ひと》より強力なのは、父母のこのような事情が反映しての事なのかもしれないと、この頃思うようになった。
母は今年90歳。
足腰も弱り、耳も遠くなり、もう料理をすることも出来なくなった。
父は今 結婚の時の約束を果たし、仕事の傍ら 買い物や料理や、母の身の回りの世話をしながら、夫婦二人の暮らしを支えている。
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