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不登校でのこと

10年前の14歳の私は、周囲からの視線と評価と、そしていじめに酷く悩まされていた。
私にとって、学校は自分で決めてはいけないことが多すぎるから、私は苦手であった。

日直で一緒になったクラスメイトが、どんなに仕事をしなくても私は黙って彼の分までやる必要があった。それに対してとやかく言われなかった。それが当たり前であった。

数学が苦手であるのに、宿題の回答をクラスの前で発表しないと、忘れ物扱いにされるのは当然のことであった。分からないからと言って空欄にしたら、忘れたとみなされる。それに対して誰も何も言わなかった。

私がいじめられても、いじめっ子が「優秀な生徒で人当たりもいい」というだけで、無かったことにされるのは当然のことであった。いくら先生に訴えても、物が盗まれたと伝えても「あの子がそんなことするわけがありません」で終わりだった。私は不登校になった。

不登校に関して、親は最初はとても否定的だった。意地でも学校に行かせようと、私の腕を引っ張って、私は毎朝泣き叫びながら揉め事をしていた。

「このまま学校に行けなくなったら、高校も行けなくなる。そしたら当たり前だけど就職もできなくなる。貴方はただのニートになる。そんなの嫌でしょ?なら学校に行きなさい!」

学校まで来られたのに、車から降りられなくなったこともある。会いたくなかったのに、養護教諭が私を迎えに車の後部座席を開ける。
私は団子のように小さく小さく丸まって、震えていた。
消えたかった、泣き顔を見られたく無かった。泣き顔を見られたら、またいじめられた時のように泣き虫だと思われるから。もう二度と来ないでほしかった。

数ヶ月経ち、次第に母は変わっていった。登校せずとも文句を言わなくなった。しかし、その時の心の拠り所であるパソコンを隠してしまった。学校に行かずパソコンばかりしている私をよく思わなかったのだろう。
私は現実逃避できる道具が無いので一日中、学校に行けなかったことを悔やむことになる、それが辛かった。悲しかった。頭に張り付いて離れなかった。
「例え、苦しくても学校に行けさえすれば私は、こんなに苦しい思いをしなくても済んだのに」そんなことをよく考えた。

ただ、こんな私でも得意なことがあった。学校で行われる合唱祭である。
あまり目立たない私だが、中学1年、2年とソプラノのパートリーダーをやり切ったことがあるから、中学3年になっても合唱祭は出たいと強く思った。
しかし、1クラス40人近くいるところに、不登校の私がポツンと参加するのはとても勇気のいることだった。何度もステージの袖から、クラスのみんなの後ろ姿を伺う。
何日もチャレンジをしたが、結局みんなの輪の中に入れず断念した。そして、本番まで3日前になり、やっとみんなの輪の中に入ることに成功した。
本番は、クラスだけではなく学年全体の前に立ち、歌った。誰に何を言われても良かった。「あれ?あいつ名前なんだっけ、学校来てるじゃん、珍しー」と、私の耳に入らなかっただけで、幾度となく言われていただろう。それでも気にしなかった。
それが成功体験になり、私はなんと、卒業式も出席した。練習には中々行けず、前日に数回やっただけ。ほぼぶっつけ本番だった。

あれから月日は流れ、私は大学に入り、その際にまた、死に近くなる。抑うつ症状が強くなり心療内科に通うようになった。でも、私はこうして生きている。
3日前の8月26日、私は24歳を迎えた。
10年前の14歳の自分、見ているかい?あんなに死にたかった君は、こんなに成長して生きているよ!本当に不思議だね。
学校で苦しかったね。
家でも否定され続けて本当に悲しかったね。
大好きなパソコンも出来なくなって、居場所がなかったね。
でもね、生きているよ。

今から10年後の私も、死んでしまいたくなることがあるだろうか。
でも、おそらく大丈夫であろう、私は不登校になっても、精神疾患になっても立ち上がるほど強い女なのだから。



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