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自然と畏怖と風景写真

日本は自然崇拝に基づく文化を築いてきました。高度に文明を発展させた国で、これは世界唯一と言ってもよいほどのレベルです。

昨今は日本人の謙虚さやリーダーシップの無さが、グローバル社会においてダメな部分であるというような記事を頻繁に見かけるようになりました。
いわゆる日本人をディスる記事です。皆さんもよく目にすることでしょう。
果たしてそうでしょうか?
私は間違っていると思います。
他のほとんどの国が辿り着けなかったところへ、日本文化が唯一辿り着けたのであると、私は考えています。
それはむしろ、凄いことなのだと思っています。

これは複雑多彩な日本の地理風土で、古来より文字通り激震が走るような自然災害に頻繁に見舞われてきた日本だからこそ、唯一辿り着けた境地であると思います。
それは必然でもあり、貴重で素晴らしいものでもあります。

全てのものには神が宿るという八百万やおよろずの神々に対する信仰、そこから物を大切に、他者を思いやり、謙虚な考え方を大切にするという文化が生まれました。
その影響は例えば社会の治安の良さや、道徳心の高さなどに現れました。

驚異的な自然災害を経験し、そこから「自分たちには及ばない領域がある」ことを知り、恐るべき自然の力を認識し、その中で自然とともに謙虚に生きるという考え方を大切にしてきました。

今、そういった文化が消滅しかけているようにも見えます。
ネットで頻繁に見かけるインフルエンサーは、毎日毎日いかに相手に対してマウントを取るかを競い合い、若者たちは彼らの信者となり、その教えに従った考え方にまるで洗脳されているかのように見えます。
謙虚さなど1ミリたりとも存在しません。

彼らインフルエンサーの傲慢な態度は、金さえ掴めば恐れるものなど何もない、と思っているかのように見えます。

日本人が自然信仰の中で大切にしてきた考え方に、畏怖いふというものがあります。
力の及ばない圧倒的な自然の未知の力を、恐れることです。
似た言葉に畏敬いけいという言葉もあります。
これも同様に恐れ敬うことですが、どちらかというと畏敬は高貴な存在、ストレートに自然の神などに対して使われます。
対して畏怖は、まさに自然の中に存在する恐ろしいものに対して、強く恐れおののくことです。
そのような感情が、古来では妖怪となり、悪鬼となり、人々を恐れさせてきました。

もちろんこのような文化を霊感商法に悪用する輩もいるので、気をつけなければなりません。
カネを出せば救われるなんてのは、日本の畏怖の文化からは真反対の、かけ離れた考え方であり間違っています。
畏怖とは、そんなに安っぽいものではないのです。
人がどうこうできるものではないのです。

風景写真と言えば、常に美しく、壮大で、荘厳で、雄大なものというような先入観があります。
実際、世の中の風景写真はほぼ全てそういう写真です。
風景写真に求められているのは、そういう写真です。

しかし私はこの畏怖という日本文化を大切に思っていて、時々、ちょっと怖い感じの写真を撮ります。
何だか不気味で、ちょっと怖い雰囲気で、おどろおどろしい感じのする写真です。
誰もいない山に入り、谷を巡ると、時々畏怖を感じることがあるのです。
古来、日本人はそういった場所に、恐ろしい神様がいるに違いないと考えてきました。

日本各地にはまだまだそういう場所が、たくさんあります。
機会があれば、そういう場所を訪れてみてください。
もちろん安全第一です。
傲慢にならず、謙虚に生きることはとても大切なことだと思います。

周囲にイワクラや社はなかったので、恐らく遠方の霧島連山が御神体。


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