無機質な庇護欲


 はじめは『妹』というタイトルにするつもりだった。つまりは、そういうこと。

 わたしは、妹たちを、あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている? あいしている。
 あいしている。
 わたしは、妹たちのことをあいしている。
 これは、「夜ご飯、食べた?」とおんなしくらいに日常的な確認事項だ。朝ごはんは食べないことが多いし、朝ごはんは『朝ご飯』と云うよりも、『朝ごはん』というかんじがするから、好きだ。だからこそ、妹は『そういう』ものではない気もする。これは、わたしが二十何年も考えつづけてしまった末路で、ほんとうは、熟慮しなくてもよろしい問題だ。不眠のすきまに書き留める程度でよろしい。書留にはいたらない。お顔のご確認も要らないのだから。
 わたしは『姉』で、彼女たちは『妹』だ。それ以上の理由が何処に在り、それ以下の言い訳が何時に有ったと云うのだろうか。いいか? わたしはお姉ちゃんだぞ。わたしと云う姉に立ち向かって来ても構わないのは、兄・姉を兄・姉として遂行しているモノだけだ。兄・姉に課された運命を、全うしているものだけだ。だから、わたしは、おともだち以外の、ほかの長子にはきびしい。いや、きびしくはないかもしれない。いくら、ひどいひとで在ろうとも、その長子の愚行を反面教師にしたいもうとやおとうとが育つのならば、それも長子としての使命を知らず知らずのうちに執行してしまっているひとだ。だから、きびしくはなれないな、と、すぐに思い返した。失効することはないよ。残念だけれど、とても、とても悦ばしいことだけれど、ヤコブの再来は許さない。エサウは一生、背負いながら生きていて。そうじゃあないと、みんなが可哀そうだから。ああ。彼らの祝福がひとつだけだなんて、だれが執り決めたのかしら。かみさまだわ。たとえば、そうして、いもうととおとうとが来たとしても、わたしはなんにも応えられない。「うん、うん。そうだねえ。」と思うだけで、なにもかもを微笑みに変えるのだろう。でも、長子の権利は渡せない。あなたのために。ああ、それか、もしも。いもうとに包丁を向けられ、「いっしょに死んでほしい。」と言われたら、笑顔で両手を広げて、震える身体をかまくらのように抱き締めるのだろうなあ。それが、わたしと云うお姉ちゃんだもの。これは、きっと不正解で、ほんものじゃあないのだけれど、わたしにとってはほんとうだ。だから、構わない。なんの罪悪感も無ければ、なんの悪徳感情もない。まっさらな雪のように白く、わたしはわたしを成している。おやすみ。おはよう。
 そういえば、そろそろパンジーの花が咲くらしい。あおむらさきが好きだけれど、パンジーと云えば、きいろいおはなだ。きいろいおはな。いつでも、咲いてる。きいろいおはな。きいろいおはなも守れなかった。愛せなかった。これは筆を執り撮り残すほどのことではなく、いつか忘れ去られることで完成する童歌のようなおはなしだ。
 わたしは、いもうとをあいしている。これは、はしがきに書かなくてはならない。わたしは、いもうとをあいしている。それは、義務感。それは、庇護欲。それは、罪悪感。それは、満足感。それは、使命感。それは、それは、それは。それは、愛情ではないのだろう。わたしは、客観的に、この感情をわたしの持つものさしで測ると、「愛情ではない。」と判別される。それでも、わたしの理性は、「すべて、とどのつまりは、愛だよ。」と告げるから、わたしは本能が否定しても、理性的な愛情を肯定しなくてはならない。あいしているよ。「あいしているよ。」の声も、ずいぶんと、ひんやりとしている。無機質だ。わたしのきょうだい愛は、無機質だ。義務的で、つめたくて、微笑みが咲いていて、白漆器みたいだ。スプーンとフォークは木製。カラトリーはしずかな音を立てて欲しいから。銀色の音は、あたまに響くから。そんなふうに、無機質な愛情を与えつづけている。否定されても、嫌煙されても、無表情ばかりを眺めても、わたしはいもうとたちのことを、あいしている。あいしている。愛いしつづける、理由がある。愛いしつづける、覚悟がある。覚悟だ。わたしは、いもうとたちのことを、あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。あいしている。

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