見出し画像

2022-23年

■十二月某日

 今日だけは、爪を切りたくなかった。
 わたしは、迷信を知りながらも、信じていないふりをして――それでも、一縷の望みを懸けて、朝な夕な爪を切ることがある。だけれど、今日だけは切りたくはなかった。迷信が、正しいほうに作用してしまうことを恐れたからだ。日がな、一縷の望みを懸けているからこそ、悪さをしないか、心配をしていた。引っ掛かりを覚えるつま先が、早く切って欲しそうにこちらを覗いていても、知らんぷりをしていた。もしも――もしも、こんなふうな日に、わたしとご一緒に居てくださるおともだちとのご縁が、ネイルの剥がれた爪をお伴にして、途切れてしまったら、どうしよう。そんなふうなことを、わたしは、至極真面目に心配していた。

 ひととせのお廻りのなかで、かならず、誰しもに訪れる日が来る。それは、ほんものの日付けではなくとも、同様にだ。むかしはお正月とともにお祝いする風習もあったし、わたしはクリスマスをその日にする子どもたちのことも存知あげている。だからこそ、その日付けがほんものではなくとも、ほんとうのものだと、定義している。
 幸か不幸か、わたしのその日は、きっと正しいものだった。或の母子手帳や、証拠品が偽られたものではなければ、わたしは今年もその日を――誕生日と云うものを迎えるに至った。
 誕生日に対して、複雑な感情を抱いていらっしゃる方々も多いのだろう。誕生日と云うとくべつな日に、どうか疵を負わないでほしい。わたしは、お他人の疵を惟うたびに、泣いてしまいそうな心地になるけれど、それこそ、お節介で、ありがた迷惑なのだとも思う。

 わたしにとっての誕生日も、どうやら、複雑な心境に至るものではあったものの、今年は比較的安らかな心地で迎えられたのではないだろうか。過去のわたしへ、誇って差しあげたい気持にもなるけれど、過去のわたしからすれば、「わすれたのか、おまえは。」と、非難したくなるだろうことも、存知あげている。そうだ。その誇りは、誤りかも知れない。それでも、誤りを繰り返しては、謝るばかりの巡礼だ。きっと、わたしの性質は楽天家に親しいのだろう。そうでなければ、たびたび忘れては、いつかのわたしに叱られることを、性懲りもなく繰り返すこともないはずだ。わたしのあこがれのひとは、「死は全く怖くない。一番恐れるのは この怒りが やがて風化してしまわないかということだ。」と仰言っていた。そのとおりだと云うのに――それを資本にしようとしたと云うのに、わたしなどと云うにんげんは、こうして風化させてしまうだろうことも、理解していた。わたしはわたしに、「ごめんね。」と告げたくなるけれど、過去のわたしからすれば、「謝るくらいなら、忘れるな。ぼんくら。」と云うような心地だろう。こんなふうに、在りかたが、緩やかになってしまった。わたしはそれを悔いることもあるけれど、仕方のないことだとも感じる。いまのほうが、こころに無理をしていないのだから、ほんとうに、ひどいはなしだ。

 わたしのために、書き留めなくてはならないこともある。それでも、きょうは、わたしをお祝いしてくださった方々に、「ありがとう。」を伝えたい。これを書き終えるころには、日付けも変わっているだろうけれど、その感謝は、きっと、一生つづくものだ。

■一月二日

 年が明けたらしい。
 昨年のわたしは、いまごろ、なにをしていたのだろうか。今年の抱負を考えながら、昨年のわたしの様子を覗き見てみた。すると、どうやら、初夢のさみしさと、隣人のわびしさに震えていたらしい。かわいそうだと感じたけれど、いま、わたしがわたしに「かわいそうだ。」と感じてしまえば、もうおしまいになってしまうかもしれない。けれど、わたしがわたしを実証して差しあげなくては、もっとかわいそうなままだ。かわいそうだと感じるのならば、いつがよろしいのだろうか。
 今年の初夢は、ずいぶんなものだった。魅力的なもののように感じたけれど、夢占いを調べてみれば(占いに正解はないけれど)、『口封じ』のひとつと云う意見もあった。そうかも知れない。いつまでも、秘密は秘密のままだから、秘密は秘密でいられる。秘密の等価交換だなんて、どだい、無理な話だ。この世には、無理なことなどないように思えるけれど、秘密なんて、お互いに打ち明けたとて、勝ち取れるはずの褒章もなければ、栄光もない。自身のカードが相手より下だと感じた瞬間に、もう、敗けてしまっているのだから。わたしの秘密なんて、もう、なんの意味さえ持たないようなものだとしても、明かしてしまえば、わたしはもう逃げることしかできなくなる。逃げて、隠れて、それから。だから、ひけらかしてはいけないのだ。沈黙は金かも知れない。沈黙は銀かも知れない。どちらだろうと、構わない。わたしが此処に(何処に?)居るためには、黙さなくてはならないことがある。その事実を振り返ることができた。それだけでも、睦月の収穫にはなるだろう。今年の初夢は、さみしいものではなかった。それだけで――と語ろうとしたものの、老いさらば、早朝のわたしが睨んでくる。さみしいものではあったらしい。昨年は「せんせいに、おいていかれた。」。今年は「ふたりに、おいつけなかった。」。それだけの違いのようにも想える。それならば、やはり、さみしいものではなかったのだろう。ふたりに追いつけなかったのは、夢のなかのわたしの秘密がそれほど重く、ただ、わたしの歩みが間に合わなかっただけのおはなしだ。

 心機一転。
 今年の抱負は、なににしようか。まだ、考えあぐねている。一日に、ひとつ。なにかを成し遂げたいと云う思惑はある。なんでもない日のパーティーはだいすきだけれど、なんでもない日に、名前を付けて差しあげたいのだ。これは、ここ二、三年の心境の変化である気がする。わたしと、あなたの関係に、名前なんて要らなかった。けれど、名前があれば、名前のために生きられる。いただいた着物を着るために、生きてしまったひとたちのように。わたしも、そうして生きてみたいのだ。ああ、そうだ。敗けてばかりでは、いられない。敗けてばかりではいられないけれど、負けることは心地好い。それでも、敗けるばかりでは、かわいそうなままだ。そろそろ、生きられなくなってしまう。居られなくなってしまう。それは、いつのわたしだって、避けたいはずだ。そうは思えど、なんでもない日をお祝いできないことは、かなしくはないか。さみしくは、ないか。置いてきぼりにされたなんでもない日々を憶いながら、わたしはまだ、なにも成せずにいる。ひとまずは、今年こそ毎日日記を書こうと思えども、三日坊主のわたしのことは、どうしても信用ならない。「だいじなものを、だいじにする。」。それは、毎年、毎日、想っていることのようにも考えられる。やっぱり、なににしようか。チク、タク、チク、タク。ジ、ジ、ジ。かりそめに。二〇XX年から届く、ハハオヤの声を拾う耳たぶに針を刺してしまいたくなりながら、十二月のわたしを引き継ぐため、三箇日は爪を切らないようにしたい。また、月の出にでも、綴ればよろしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?