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我慢の向こう側

「石の上にも三年」と言う諺(ことわざ)があります。
これは冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくる。我慢強く辛抱すれば、必ず成功することの例えとして広く使われています。


一方で、我慢を良しとしない諺もあります。
「痩せ我慢は貧から起こる」
じっと我慢して苦しみや不自由を耐えるのは貧しいからであり、生活に困らなければ無理に我慢するようなこともないという意味で使われます。


また「仏の顔も三度まで」と言う諺もあります。
これは、慈悲深い仏様といえども、三度も顔を撫で回されたら腹を立てるということから、どんなに温厚な人でも、我慢には限度があり、何度も無礼なことをすれば怒り出すという意味です。


「堪忍袋の緒が切れる」
「我慢も限界を超えると一気に破裂して、激しい怒りとなって吹き出してしまう」ということです。(「仏の顔も三度」と同様に、「我慢は良くない」というよりも、「我慢するにも限界がある」ということです。


この様に少しニュアンスは違いますが、日本語には真逆な考えが存在していますので面白いです。


最近、クリエーターのヨーペイさんが掲載された、非常に興味深い記事があります。「努力は必ず報われないけど、我慢は必ず報われる」です。



よく耳にする『我慢は良くない』という言葉。
これは我慢が嫌いな人が、我慢しないことを「正当化」していると僕は考えています。

我慢のあとに好転する
なぜそう考えるかというと、
僕の人生は「我慢のあとに好転」「我慢のあとに好転」この繰り返しでした。死ぬほど嫌なこともありましたが、とにかく我慢したのです。

-ヨーペイさん記事抜粋-


我慢が嫌いな人が「正当化」している。確かに一理あると感じます。ある程度我慢することで好転した経験は、誰でもあるのではないでしょうか?


つまり、物事を成し遂げる為には一定期間の我慢(辛抱)が必要だと言うこと。例えば、子供の時、自転車って初めから乗れません。ある程度練習をして初めて乗れる様になります。練習が嫌だから、自転車が嫌いだからと言っていては、いつまで経っても克服できません。


宿題だってそうです。少し遊ぶのを我慢して終わらせてしまえば、後は自由時間が待っていますよね。


大事なのは、我慢には一定期間が必要だと言うこと。これが過ぎて仕舞えば、物事が大きく好転する可能性がある。要するに、閾値を越える事が重要であり、その為には我慢(辛抱)が必要なんだと言うことがはっきり見えてきます。


この様に期間ありきで考えると「仏の顔も三度まで」「堪忍袋の緒が切れる」の例えもよく理解できます。


しかし、例外もあります。
人間関係です。嫌いな方と接することは全く別物だと考えます。これは明らかに、我慢する必要はございません。我慢することで何を克服するのか、我慢しなければ生活環境が脅かされるのか、を確認すれば良いです。


我慢の向こう側には何があるのか。
我慢をする事で何が得られるのか、その後状況が好転するのか、それには期間を設定する事が重要であり、嫌いな人とのお付き合いなど、人間関係にまつわることは我慢しなくても良いはずです。


この様に「我慢」 には物(事)と人を分けて考えておくと良いです。我慢や辛抱をする時は期間を設定する。そして設定した期間が過ぎれば、思い切って止めてしまうと言う選択肢もあります。閾値を超えていれば、今は上手くいかなくても、将来的に我慢した経験が必ず役に立つ時がきます。


「結果」には即効性を伴わないもことも多い。
これも合わせて覚えておくと良いでしょう。🌱


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最後まで読み進めて頂きありがとうございました。
引き続き、よろしくお願いいたします。🌱


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