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DDTプロレスリング・坂口征夫選手への個人的な思い

 2024年1月15日。
 DDTプロレスリングの坂口征夫選手が、引退を発表した。


 坂口征夫選手のお父様は、昭和を代表するプロレスラーの一人である坂口征二氏。かつて新日本プロレスの代表取締役社長も務めた人物である。

 けれど、新日本の情報に疎かった私にとって、坂口征夫選手は「(サムライTVで、ここ4~5年の間の)試合を見て、カッコよくて好きになったプロレスラー」の一人。その経歴について知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。ついでに言うと、テレビドラマや芸能界にもあまり興味が無かった私は、坂口選手の弟が人気俳優だった坂口憲二氏であることにも最初は全く気付いていなかった。
 何の予備知識も先入観も無しに見た坂口選手。初めて見た時はその全身の入れ墨に驚いたものの、余計なマイクパフォーマンスも何も無く、眼光鋭く繰り出されるキックは重く激しく、リング上での結果がすべてといったたたずまいは、そこだけ空気が違うかのように魅力的だった。

 私はもともと、プロレスリング・ノアの故・三沢光晴選手や小川良成選手のように、どちらかというとマイクパフォーマンスではなく試合そのもので魅了する選手が好きだった。
 そんな私にとって、坂口征夫選手は、ヘビー級の体格では無いとはいえ好きなプロレスラーのタイプをそのまんま具現化したような存在だった。
 私はDDTの試合を見るたびにどんどん坂口選手のファンになっていった。


 とはいえ

 そんな坂口選手の所属団体はDDT。
 コミカルな試合を展開するレスラーとタッグを組んだ際には、コーナーポストで肩を震わせ笑いを堪えている姿を何度も見た。

 いや、

 ぶっちゃけ、全然、堪え切れて無かった。

 坂口選手、笑ってた。

 後ろ向いて、めっちゃ笑ってた。

 日頃、強面のイメージだけに、笑ってるのを隠そうとすればするほど坂口選手の笑顔は目立ってた。
 昨年見に行った福島大会なんて、真剣になればなるほど想像の斜め上の動きをしてしまうゴージャス松野選手の後ろで坂口選手が肩震わせまくってて、周りのお客さん共々「坂口選手ウケてる!すげー笑ってる!!」と盛り上がった。

 けれど

 そんなギャップもまた、坂口選手の魅力だった。


 DDTを見るようになり、坂口選手のファンになってしばらく経った頃。
 今から数年前だったろうか。
 坂口選手について書かれた過去の雑誌記事が、当時のツイッター(現在のX)で話題になったことがある。
 それは、2011年5月の記事だった。

 俳優・格闘家と多方面で活動する傍ら、高校卒業以来、土木建設の仕事を続けてきた坂口征夫が、被災地である福島県いわき市、小名浜での水道復興工事を終えて帰京した。

 今回、坂口が自ら志願して参加したのは、横浜市水道局からの要請により、水道工事会社が被災地へ赴いて行う水道の復興工事活動。

 当初は茨城となる予定だった派遣先が、現在も原発事故による放射能汚染が問題となっている福島に決定すると、周囲からは猛反対され、被災地に持っていく工事用機械の貸し出しですら「機械が被ばくする」と断る業者もあったという。会社の社長からも大反対されたが、「困っている人がいれば、助ける」という、シンプルだが強い、この思いだけが坂口を突き動かした。

 現地では、地元の人々にたくさんの感謝の声をかけられたという坂口。「横浜じゃ、汚いなとか、また工事かよって言われちゃうことが多いんですよね。でも、被災地の方々に、ようやく久しぶりに風呂に入れるよ! お兄ちゃん、ありがとう、って言ってもらえたときは素直に来てよかったなって思いました。皆さん物資がない中、お年寄りの方が缶ジュースを持ってきてくれたり、本当に温かったです」と笑顔で語った。

「自分が被災地に行って、強く感じたことがあったんです。向こうに行ったとき、誰一人文句を言ってる人はいなかった。でも、自分の住んでいる都心部の人たちは、スーパーに物がないと言ったり、停電が大変だって言ったり。被害を受けてない人たちが、一番文句を言っているんですよね。被災地の人たちは、ものすごく我慢をしている。文句も言わず、前向きに生きている福島の人たちのことを絶対に伝えたかったんです。被災地の皆さんのことをいつも心のどこかに感じながら生活していきたいですね」

坂口憲二の兄・征夫、福島県小名浜での水道復興工事に従事 命懸けの工事で地域すべての水道管復活|シネマトゥデイ (cinematoday.jp) より 一部抜粋引用


 この記事を読んで以降、私にとって坂口征夫選手は、「好きなプロレスラー」であると同時に「尊敬する人」になった。
 そして、宮城県に移住し、給排水設備の会社で働くようになった今の私にとっては、「目標とする人」でもある。

 こんなふうに、黙々と働きたい。

 こんなふうに、誰かの役に立つ技術を身につけたい。

 上下水道工事に携わることになったのは全くの偶然だけれど、今となっては、この仕事に就くことが出来て良かったと思っている。



 2019年のインタビューの際、坂口選手は父と比較されて辛かったこと、「坂口」という名前が重荷だったことを語っていた。


 その重荷から解き放ってくれたのがDDTだったことが、引退記者会見ではあらためて語られていた。

 うちの家柄だと、プロレスというものが生まれてすぐ目の前にあって。子どもの頃、遊ぶ公園が新日本プロレスの道場で。近くの遊んでくれるお兄ちゃんがレスラーであって。そういう家柄で生まれて、ある種、宿命みたいな感じ。この稼業をやることは宿命みたいに感じてたんですけど。
 いつからか坂口という名前が嫌で嫌でしょうがなかったんです。
 名前を変えたい、苗字を変えたいと思ったときも何度もあります。
 坂口という名前を捨てたい、逃れたいというのがずっとありました。
 DDTに入って、その呪縛から解いてくれたのがこのDDTなんです。
 ここにいる仲間たちなんです。
 今じゃ大手を振って“俺は坂口だよ”って言えるようになったんです。

2024年1月15日 DDTプロレスリング 坂口征夫選手の引退記者会見より


 インタビュー動画を見ながら、私の心に浮かんでいたのは、昨年11月12日の両国国技館大会で引退した赤井沙希さんのことだった。
 Eruptionというユニットで坂口選手とタッグを組んで闘い続けてきたプロレスラー・赤井沙希選手もまた、否応なしに苗字の呪縛を背負わされてきた人である。勿論、坂口選手と赤井沙希選手とでは、ご家族の状況や関係性も、プロレスラーになるまで歩んできた道程も、全く違っているけれど。
 ファンの勝手な感傷に過ぎないけれど、赤井さんとタッグを組み、ともに闘ってきたのが、坂口選手で良かったと思う。




 プロレスラーとしても、人間としても尊敬する存在だった坂口征夫選手の引退を知った時は、ショックだった。
 同じくプロレスファンで一緒にDDTを応援してきた夫と二人、引退記者会見を無言で見つめた。
 けれど、

「坂口選手らしいね」

 それが、しばらく時間を置いて気持ちが落ち着いてからの、私と夫の共通の感想でもあった。

 最後の試合は2月7日の東京・新宿FACE大会。

 平日である。

 仕事を休んで見に行こうかと一瞬思ったけれど、それは、違う気がした。
 坂口選手を本当に尊敬しているのなら、仕事を放り出して他の人に迷惑をかけるのは違うだろうと。

 リングを降りた後、坂口選手はプロレス界からは距離を置くことを明言している。

 いつの日か、どこかで坂口選手ではない坂口征夫氏に会えたなら、御礼を言いたい。
 けれど、横浜から東北まで復旧作業に来てもらわなければならないような機会は、二度と来ないで欲しい。
 思いは複雑である。

 でも

 いつの日か、復旧作業ではなくてもどこかで出会う機会があったなら、その時は、ありがとうと伝えたい。
 カッコいいプロレスラーのあなたに出会えたおかげで、やりがいのある仕事と出会えました。
 そう胸を張って言えるように、今は、自分の仕事をしっかり頑張ろうと思う。



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