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それぞれの視点

例えば、バスの中で4歳くらいの男児が泣いていたとします。時間は西日の頃。駅から出たバスは、くねくねと住宅街を抜けて、他の駅へと向かっています。とても大きな声で、ギャンギャン泣き叫んでいる男の子。膝や脛、額にたくさんの絆創膏。元気すぎてよく怪我をする子です。バスに乗り込んだ時から、ぐずっていましたが、発車した頃には、ギャン泣きに変わりました。母親は、なだめようと話しかけたり、肩を揺すったり、怒った声を出したりしていますが、子供は全く意に介さず、地団駄を踏み、床に転がりそうな勢いです。母親は、半ば諦めたように、うつむいたまま子供の手を繋いでいます。

視点1『疲れた20代サラリーマン(独身)』
とにかくうるさい。何でもいいから泣き声を止めて欲しい。自分にもあんな頃があったなどと思い出を反芻する余裕もない。とにかくせっかく確保した席で、5分でも居眠りできたらと、イヤホンを耳に押し込んでいたのに、聴いている音楽が雑音に聞こえるほど、子供の泣き声が甲高い。イライラして、叫びたくなる。泣き止ませる事ができないなら、次の停留所でとっととバスを降りてくれ!!でも、そんな事を言ったら、酷いやつだと思われて恥ずかしいので、目を閉じてじっと黙っている。

視点2『子育て経験のある60代女性』
あんなに癇癪を起こすような事って一体何なんだろう。普段から甘やかしているから、泣き叫べば母親が折れるのではないかと期待しているに違いない。私が若い頃なら、周りから舌打ちや罵声がきて、バスを一度降りて、泣き止ませてから、再びバスに乗っていた。そんな余裕もないほど急ぎの用事があるのか、それとも周りが我慢している事を、あの母親は気づかないほど疲れているのだろうか。目の下にクマがある。

視点3『子育て経験のある50代女性』
懐かしい。イヤイヤ期なのかもしれない。何でもかんでも嫌!って息子もあのくらいの時、自分の靴を投げ捨てて泣き叫んでいた。あまりの滑稽さに笑ってしまったら、息子はキョトンとしていた。ああ、懐かしい。でも、あのお母さん、随分と疲れている。目の焦点が合っていない。クマもひどい。もしかしたら、夫婦関係もうまく行っていないのかもしれない。かわいそうに。

視点4『たまたま乗り合わせた母親と顔見知りの30代女性』
Aさんだ。最近離婚したって噂で聞いた。息子さん、赤ちゃんの時に会ったけど、あんなに大きくなったんだ。顔真っ赤にして暴れてるけど、何があったんだろう。Aさん顔色も悪いし、やっぱり一人で育てるのって大変なのかもしれない。声をかけるには、席が遠いし、どこで降りるんだろう。でも、話しかけにくいくらい憔悴している。あの子絆創膏だらけだ。虐待とかしてたりして......そこまで親しいわけじゃないから、深く関わらない方がいいかもしれない。

視点5『姉がシングルマザーの男子大学生』
苦労してるんだろうな。姉ちゃんの子も同じくらいで、いつもキレてる。旦那さんが育児を手伝ってくれなから離婚したとか言ってたな。あれ?浮気のせいだったかな。まぁ、色々あったんだろうな。俺は自分が結婚したら、絶対イクメンになろう!最近甥っ子の面倒見ててコツわかってきたし。今の彼女とは、結婚するのかな。しないだろうな、あんまり家庭的なタイプじゃないし。俺の運命の人って誰なんだろう。

視点6『60代独身男性』
どうやったら、静かになるんだろう。あの子供は、涙を流していないから、きっと嘘泣きだ。親の気を引きたいのだろう。母親もそれを分かっていて教育的指導として突き放しているのかもしれないが、公共の場での振る舞いというものも少しは考えたらどうか。それこそ、親が子に教える重要な事ではないか。ここで、静かにしろ!と誰かが言って、あの母親を教育してやらねばならないのかもしれない。

視点7『30代派遣社員二児の母親』
今、とても肩身の狭い思いをしているんだろうな。ひょっとしたら、今泣きたいのは、あの子よりあのお母さんかもしれない。歯を食いしばって、耐えてる。疲れた顔してる。20代かな。昔を思い出すなぁ。もう少しだよ。いつか子供が大きくなれば、笑い話になる。自分を責めないでって言ってあげたい。けど、いきなり話しかけたりしたら、びっくりするよね。心の中で祈るよ、大丈夫だからね!

視点8『30代フリーター男性』
子供とかマジ無理。うるさいし汚いし。自分が子供の時の事なんか思い出したくもない。うちの母親も疲れた顔して恩着せがましく、俺が大事だからとか説教してくるけど、ほんとは自分の事しか考えてないんだ。あの母親もきっと、悲劇のヒロインに浸ってるんだろう。私は疲れてますって、アピールマジうざい。一生結婚しないし、自分の子供も欲しくない。早く降りてくれないかな。目障りだ。

視点9『祖母に連れられた少女8歳』
なんで泣いてるんだろう。小さい時はよく泣いた。私が泣いたときは、ママに言いたい事があるのに、うまくしゃべれなくて、泣いてた。みんなそうなのかな。今度弟が生まれるから、泣いた時に聞いてみよ。

視点10『疲労で居眠りしそうだったバスの運転手』
目が覚めた。よかった。助かった。ありがとう、元気な僕ちゃん!

これは例え話でフィクションであり、私が考えた架空の設定で、それぞれの視点もプロフィールも想像です。で、何が言いたいかと言うと、同じ事象にたくさんの人が対面して、それぞれ何を思うのか、どんな印象を持ち、どんな感想を持ち、何を考えているのか、好意なのか、悪意なのか、同情なのか、はたまた自分自身を見つめ直しているのか、そのあまりにもちぐはぐな、十人十色の全く違う思考回路を想像し、それぞれの視点にフォーカスして描きつつ、その全てを俯瞰してみることで見えてくる、世界を探りたいのです。

まず、その母子を取り巻く登場人物達には、それぞれの個人的背景があります。生い立ち、現在の状況、その日の体調、気分。もし視点11『自分の場合』を想像したらどうなるか。同じ事象を目にしたとしても、人によって、相手との関係性によって、その日のタイミングによって様々な印象がその場所に生まれます。

身近な誰かが、トラブルを起こしたり巻き込まれたりして一つの案件が生まれたとき、その誰かに対して、どういう思いや考えが浮かぶのか。相手との関係性、印象、元々好意を持っていたか、苦手だと感じていたか、それによって全く違う思考回路が動き、違う感情や結論や対応が生まれます。

子育てを頑張る母親を尊敬するか、手に余る子供に翻弄されている母親に同情するか、自分の不快を1番に考えるか、全く関係のない事を考えるか。どんな印象を持つかは、まさに十人十色千差万別。出来事を受け止める人間の抱えている背景によって、大きく変わってくるのではないかと、私は思います。

私が過去や現在、当事者となった案件で、周りの人達が私という人間をどう見ているかで、大きく反応が違う場面がたくさんありました。誰もがそんな経験があると思います。そこまで悪くとらなくてもよかろうもん、と思うほどに、辛辣に敵意を向けられ、今までの関係は何だったのかと、相手との歴史を紐解いて一つ一つ検分しなくては、落ち着かない事があったりします。また、逆に、とても不利な状況に置かれていても、私は信じてるから皆まで聞かないと、確信に満ちた励ましをくれる相手がいたりもします。また、中立に徹し、当事者と向き合い話をきちんと聞いてくれる人がいたり、人から聞いた噂を元に、想像で結論づけ実態を把握しないまま噂を広める人、あなたが大切だからと的外れなありがた迷惑な説教をしてくれる人、トラブル自体に無関心で、どうでもいい話で元気付けてくれる人、様々でした。

私自身が、私の問題点を1番よくわかっていますが、見えていない所を合わせ鏡でみるように、他者の視点を借りて自分を見る事も、大切だと思っており、いつも興味深く、他者から見える自分を受け止めようと努めています。が、私の把握している私と近いように感じる人もいれば、全く明後日の方角に遠く感じる人もいて、一体全体、私は人からどう見えているのかと、悩ましい事もしばしば。そして、それぞれが皆、自分が思う事が唯一の真実だと、確信しているのがとても不思議でした。さて、私は一体、何者なのか。誰から見た視点の私が、実態の私と近いのか。自分一人では自分の事は見えにくいので、他者という鏡が必要なのです。

生きる世界が違う、という言葉があります。
同じ世界に生きているのに、同じ言語を使っているはずなのに、思うように言葉が届かない事があります。そんな時、どうして?と疑問符だらけになったまま、押しても引いても動かない相手の壁に、虚しく壁打ちをするような会話があります。そんなつもりで言ったのではないのだけど、そう受け取られてしまうなら、もう何も言えないな、と会話を諦めたり、そんな経験は誰しもあると思います。結局は、価値観の違い、という漠然とした言葉で着地するしかないのですが。

バスの中の祖母に連れられた少女は、言葉がうまくしゃべれない小さい子は泣くことで何か伝えようとしてる、と自分の少ない経験から感じていますが、まさに会話が成立しない相手と話していると、子供のように泣きたくなります。泣けばその場の感情の発散にはなりますが、問題解決には繋がりません。むしろ、泣く事で、泣けばいいと思って!とか、相手に罪悪感を与えるズルい人だ!当てつけだ!と受け取り、余計に怒る人もいたりします。生きる世界が違う人と、つい深く関わってしまった状態で、何かしらのトラブルが起きた時は、まさに針のむしろ。言葉も通じず、弁解すればするほど、立場は悪くなり、見切りを付けて一刻も早くその場から立ち去るしか、物事を解決する術がなくなります。

どこで生きても風がふく、どこで生きても雨が降る、どこで生きてもひとり花、どこで生きてもいつか死ぬ。とは、藤圭子さんの『女のブルース』の歌詞ですが、どこで生きても何かが起きるし、人間は一人で生まれて一人で死ぬのだと開き直れば、考えるだけ無駄にも感じます。しかし、逆に開き直って改めて世界を見れば、より楽しく心地よく生きていける場所を探すのが賢いサバイバルだと悟ります。もちろん、楽な方にばかり偏ってぬるま湯に浸かると言う意味ではなく、なるべく言葉が通じて、実態の私に近い(と、思われる)視点で、私を見てくれる人のいる場所で、精一杯努力を積み上げて、積み上げたものを壊してくる人より、拍手で見守ってくれる人が多い居場所で切磋琢磨、自分と向き合い奮闘すべし、と思うのです。理解者の誰かが見ていてくれて、頑張った分自分への自信にもつながり、そんな場所でなら奮闘甲斐があるというものです。

バスの中の十人の視点は、トラブル時の世間における人の評価や価値観の違いを表した縮図の例え話。あの母親にとって、もし視点7『30代派遣社員二児の母』のように、大丈夫!と言ってくれる人が、友達にいたら、視点3『子育て経験のある50代女性』のように、靴とか投げてきてマジうけるよね!おんぶしろって事かよ!と笑ってくれて良き理解者としてそばにいてくれたら、視点10『バスの運転手』のように、トラブルを明るくポジティブに受け止めてくれるパートナーがいたら、きっとそれが彼女にとっての良き居場所となり、今日は辛くても明日元気になれるパワーを獲得する事でしょう。

逆にその他の視点人達ばかりが、彼女を取り巻いていたなら、所在なくうなだれるしかなく、居場所を求めてその場を立ち去らなくては問題は解決しません。理解を求めれば求めるほど、否定的な言葉で傷つけられて終わる事でしょう。そして、あまりにも近くて去ることの叶わない相手が、全て彼女に否定的だった場合は、どこにも心の置き所がなく、逃げ場もなくいたずらに蝕まれていき、いずれは虐待などに発展し、さらに彼女自身を追い詰めてゆくのだと思います。悲しくも、世間にはありふれたよくある状況だと思います。

そして、また興味深いのが、バスの中の他人には冷たかったり斜めから人を見る視点の人でも、自分の身内や好意を元々持っている相手には、良き理解者たろうと努力する事もあるというのが、この『それぞれの視点』のサブテーマです。所変われば品変わる。この品を、ひんと読んで、相手が変われば良き人間として振る舞う人もいるという現象に名付けたいです。

また、他の人に視点を移し、別の人にフォーカスして、別の例え話をすれば、同じ人でも嫌なやつにみえたり、いいやつに見えたり、その人の印象が違って見えてきたりするのです。手放しで見知らぬ母親を応援する人が、男性に対してはとても厳しく、揚げ足ばかりとる人だったり、教育的指導として不甲斐ない母親を叱責しようと試みる男性が、実は自分の愛する母親をずっと一人で介護している我慢強い人だったり、その人にスポットライトを当てて、全体像を見るまでは、総合的にどんな人物なのかは、わかりません。個人的事情を知っているか、知らないか、それを好ましく思うか、思わないかでも、相手への印象は大きく変わります。

人間は思い込みの生き物なので、敵味方を様々な観点で判断しているつもりでも、その判断する脳みそに思い込みフィルターがかかっていて、個人的な背景の元に積み上げられた経験論という、いわゆる色眼鏡で世の中を見ています。かつて自分が渦中にあったトラブル時の人間模様から、私はそれを常々実感してきました。

思い込みを完全に捨て去る事は、難しいかもしれませんが、なるべく即決で決めつけないようにしようという姿勢をとるだけで、視野が広がり、さまざまな視点を想像してみるだけで、見える世界は大きく変わります。

嫌な奴だなと思った相手が、他者の視点で見た時、そこまでじゃないなと、印象が変わったり、実は自分に似ているのかもと同族嫌悪を発見したり、誰にでも平等でいい人だと思い込んでいた相手が、誰に対しても、まんべんなく興味がないだけだったり、当事者でない限り常に中立の立場を守る公平な人が、ただ自分の被害を最小限にしたいと考えている事なかれ主義の人だったと気づいたり、同情していた相手が、他の人からみたら案外同情に値しないほどズルい人だったり、守ってあげたいと思っていた人が、思いの外強い人で逆に助けられていたと後で気づいたり。時が経って全て終わった後に、そんなギャップを発見して学ぶ事が多いものです。色眼鏡の弊害は、大なり小なりあげればキリがないほど世の中に溢れています。

だからこそ私は、常に自分の視点からではなく、意識して、友人がこれを見たときどう思うか、あの人この人ならどう思うか、良い印象も悪い印象も両方想像します。たくさんの人の価値観や世界観に照らし合わせて、人や事象を見るように努めて、様々な角度から人や事をみる事によって、後々ギャップを知った時に、起きるであろう行き違いを減らしたいからです。そのためには、たくさんの人の視点を知る必要があり、たくさんの価値基準や哲学、倫理観、感情のゆらぎ、無意識の世界を知ろうと、コツコツ学ぶ日々です。自分で自分がよくみえないからこその、自分専用の点字を作るような感覚です。ここにこうして書き連ねているのも、書く事で思考を整理し、自分と他者を知る一つの手立て。ある意味、点字です。

常に様々な視点から事象を見る事が、無意味に人を傷つけず、誤解を回避し、トラブル自体を減らし、心から繋がれる心地よい人間関係を築く第一歩になるのではないか、と私は考えます。また、そんなふうに他者への想像力や、共感を磨いている人と、同じ居場所にいられたら、どこで生きてもいつか死ぬなどと言う捨て鉢な発想自体がなくなり、ここで生きて行きたいと思えるようになるのではないかと、思うのです。

それぞれの視点を見つめ、その視点を知る事で見えてくる世界を理解し、それぞれの生き方を尊重し、言葉を尽くしても通じない壁に囲まれた閉鎖空間からは、学びの場をありがとうと感謝を持って卒業し、伝え合い知り合い続ける努力を惜しまない善き人達と共に、これからも自分と向き合い、他者と向き合い、トラブルを恐れず、世界観を磨きながら生きていこうと思っています。

最後に。この文章を最後まで読んでくれた、私という他者の視点に寄り添ってくれる、優しいあなたに、ありがとうございます。

あなたがいるから、私は居場所を与えてもらって、明日へのパワーを獲得しているのです。

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