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比較はしてもいいと思う

沢山ある、「生き方の見本」のようなものの中に、「比較しない」という言葉が度々登場する。

私も、随分と外側の正解らしきものに惑わされてきた。

今回は、「比較すること」についての回だ。

「それはわかっているのだけれど」
「どうしても比べてしまう」

「比較はしないほうがいい」というものが、いつの間にか「比較をしてはいけない」にすりかわり、それは自分への「ダメ」となり、どんどん苦しいほうへと向かってしまう。

この罠は、どうしてこのような形になってしまうのか?

私は、「比較すること」そのものに罪はないと思っているので、比較は肯定している。

こっちは白で、こっちは赤。

これは大きくて、これは少し小ぶり。

あの人は◯◯で、こっちの人は□□だな。

それは、自分も含めて比較しないと何もわからないし、認め合うも何も、まずは比べてみてから違いを見つけないと始まらない。

だから、比較することそのものは、何の罪でもないし、ただ、それをそれとして認識しているだけだ。

これが、「比較はしないほうがいい」という言葉の罠だと私は思う。

ただ、「比較しないほうがいい」を論じる人たちを否定しているのではなく、発信する側は言葉が足りていないし、受け取る側も、その先にある自分なりの解釈を掴みとらないと、ありのままを盲信してしまうと、その罠から抜け出せなくなる。

私なりに、要約すると

比較はしてみて、違いを比べて見つけてみてもいいが、そこに善悪や優劣の意味は付けないほうがいいよ。

ということだと私は思っている。

もちろん、そのジャンルによっては優劣などはつけられるが、その優劣にさえも優劣を意味付けしないほうがいい。

学業の成績には優劣があり、100m走にも優劣がある。

それは当然のことだ。

この優劣に対して、優劣を意味付けしないために、知っておかなければいけないことは、それはただ単に、その世界での指標の数値が高いか低いか、という結果があるだけだということ。

その優劣は確かにあっても、それはあなたの存在価値の全てを揺るがすものではないのですよ。

ということ。

あくまで、その世界で、そのジャンルで、その属性で、その分野でそういった優劣の結果が出ています。

というだけのこと。

価値はあるように見えて、特にないようなものです。

鳥は空を飛んで、魚は水の中を泳ぐ。

そのどちらも、それ以上でも以下でもない。

それは、それなだけで、優劣も善悪もない。

ただ、鳥と魚を比べないと、比較しないとその違いはわからない。

「比較しない」を徹底してしまうと、「比較をしない」が「比較をする」を生み出し、全てを同じに見ようとする概念を生み出し、苦しみの元となりかねない。

比較はしてもいい。

ただ、優劣はあってもどちらも価値は同じ。

この見方が、私は最もしっくりくる。

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