一歩引いて、働く自分を見ること

人と接するとき、
特に初対面に近いときは
「相手はどういう人か」と意識的に考えるようになった。


それは、衝突せず、スムーズにやり取りできる距離感を探すために必要
ということだった。
「こういう人かもしれない」と仮説を立てて、
話す回数が増えるごとに人物像を修正していく。


もしかしたら、今まで自分が無意識にやっていたのかもしれないけれど
意識的にやることに罪悪感を感じていた。
人を品定めしているようで、抵抗があった。


意識的に見なければならないのであれば、
気を付けたいと思うのは、
自分は、その人の人生の一時点のうちのほんの一部分
しか見ていないという意識を持ち続けること


私はその人の過去や未来を知らないし、
自分と会う時以外のその人を知らない。


私が思い出したのは、
15年ほど前、高校生の頃、1人の学校の先生と話していて、
「自分は品定めをされている。
言動ではなく、自分の人格や人生に対してあまりよい評価をされていない」
と割と鮮明に実感したこと。
気のせいだったかもしれないけれど、
そのとき、ショックを受けながら、先生を反面教師にして、
私は人の一時点の一部分を見ている意識を持とうと考えた。

ずっと忘れていたけれど、
いま改めて思い返すと、
仮に自分が実感した通りだったとすると、
先生は、自分のいる場所(職場)に埋没していて、仕事がすべてだと思っていたのかもしれない。
家族・友人や趣味や様々な場があるのに。


自分のいる場所に埋没すると、
その場(職場)で会う人に対しても、その場にいるその人が、
その人の全てだと思ってしまうのではないか。


私自身が、働いていて、職場の自分をすべてだと錯覚してしまう。
(とくに長時間労働のとき)
職場で起きたことに大きく影響を受ける、一喜一憂しやすくなってしまう。
まずは一歩引かないと。
自分が職場モードだと自覚することで緩和されると思う。


人物像を推測する、人を評価するときは、
狭い限定された条件で、人を見ざるを得ないと、
割り切る。
頭の片隅では、「本当は人を知って、評価することなんて、
できないけれど」という考えを時々思い出す
ようにこれからしたいと思う。


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