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恩返しは、別の人に

20年近く前。20代後半の私は、子宮内膜症の手術を受け、ホルモンバランスを崩して自律神経失調症になり、休職せざるを得なくなりました。復職するまでの半年間、私を自宅に住まわせ、支えてくださった上司がいました。上司の家を出る最後の夜に、濃い緑茶を飲みながら交わした会話を胸に、私は今日も生きています。

「これまで本当にお世話になりました。このご恩は必ずお返しさせてください!」

「私に返さなくていいのよ。同じように困っている人がいたら、今度はあなたがその人を助けてあげてね。それが一番の恩返しだから。」


20代前半、イギリスの大学で芸術を学び、帰国後、大学院を修了し、難関の美術館就職も果たし、充実した日々を送っていました。企画展をいくつも担当し、終電を乗り継いで寝に帰るだけの生活も、嫌ではなく、むしろ、自分への挑戦だと、満ち足りていました。

そんなある日、子宮内膜症と診断され、手術を受けることになりました。入院5日の予定だったので、その間少しでも仕事が滞らないように、直前まで終電ギリギリ働きました。過労の疲れは、5日間の入院生活で取ればいいと考えていたのです。

体力がとことん落ちた状態で手術を受けた結果、私の回復力は地を這うようなレベルになっていました。私は焦りました。主治医から「プロのテニスプレーヤーなら、翌日にはコートに立てるくらいの手術ですよ」と聞いていたので、トイレに立つこともできない自分に、イライラしました。

今思うと、どんな手術であれ、体力を温存して臨み、回復には時間がかかるのが当たり前なのに、当時は何もわかっていませんでした。自分の思いで、何とでもなると勘違いしていたのです。

自分でこうと決めたら、必ずそれを実践し、成功させる。そのための努力は楽しい。そうやって生きていた私の人生が、初めてストップしました。

焦れば焦るほど、自律神経失調症の症状がひどくなり、めまいや発熱に苦しみました。子宮の手術後は、ホルモンバランスが崩れ、多くの人に出る症状だと聞いても、焦りは止まりません。早く治る方法があるのではないかと、いくつもの病院を巡り、救いを求めても、答えは見つかりません。心療内科でも答えが出ず、落ち込みながら帰っていると、ふと、近所の古くて小さい病院が目に止まりました。普段なら気にも留めないのに、この日はなぜか吸い寄せられるように入っていきました。

その病院には、70代くらいのおじいちゃん先生と、50代くらいの受付の人の2人しかいませんでした。すぐに呼ばれて椅子に座り、経緯と症状を話しました。おじいちゃん先生はふむふむといった様子で穏やかに耳を傾けてくれました。私が話し終わると先生は

「それは大変でしたね。確かに、腹腔鏡手術はお腹を切るよりはるかに楽な手術だけど、体に穴を開けたんだから。それは大変なことなんですよ。すぐに回復しないのが当たり前。焦ることは何もないですよ。」

とおっしゃってくださいました。スーッと力が抜け、自分が今、止まらなくてはいけないのだと、初めて気づきました。

自分を休ませなくてはいけない。

私は早速、都内の一人暮らしの部屋を離れ、実家へ帰りました。新幹線に乗りながら、仕事のことが頭を何度もよぎりましたが、強引に封印しました。

都内での手術に立ち会ってくれた母が、実家の最寄り駅まで迎えに来てくれていました。あの時、母はどんな気持ちだったのだろう。母となった今の私は、そう考えると胸がキュッと苦しくなります。

実家から海までは、歩いて5分もかかりません。私は二階の窓から、海と空の境界線のぼやけたような景色をぼんやり眺め、昼寝をし、栄養士の母が作る温かいご飯を一日3食頂き、夜は早くベッドに入りました。父と海まで散歩に出かけた時、

「がんばらないことをがんばるのは、大変だね。」

と言われ、涙が止まりませんでした。

1か月ほどすると、体力が徐々に回復し、気分もよくなっていました。力を抜いて、生活できるようになっていました。そんな時、40代半ばの独身女性の上司から両親宛に電話がかかってきました。

「娘さんを私に預からせてください。」

娘を心配する両親の優しさをひしひしと感じながらも、私は上司の家でお世話になることにしました。そう決心できるだけの力が充電されていたのだと思います。

いざ、新幹線に乗ると、後ろは見ない、前に進もう、と意気込んでいたのに、体が震えてきました。不安な気持ちと共に、上司の家での新しい生活がスタートしました。

上司のマンションは職場へのアクセスがよく、高層階なので見晴らしもよく、スーパーも近く、とても快適な環境でした。朝、頭痛が起きやすい症状が続いていたので、上司より遅れて職場へ行くことが多く、午後からしか行けない日もありました。それでも、職場のみなさんは温かく受け入れてくださり、私は徐々に居場所を取り戻していきました。定時で切り上げ、上司とスーパーへ行き、一緒に夕食を作って食べ、夜はおしゃべりをしました。上司は料理が上手で、たくさんのレシピを教えてくれました。

そんな生活が1か月ほど続くと、私の症状は落ち着き、朝から定時までは無理なく働けるようになっていました。そんな時、美術館の20周年記念の大きな企画の話が来ました。私はやってみたいと思えるまでに復活し、引き受けることにしました。

企画が具体化していくに従って、残業もするようになっていきました。だんだんと職場でコンビニ弁当を食べることが多くなり、終電近くまで働く日も増えていきました。

そんな私を心配して、上司は企画展がオープンするまでは家にいなさいと言ってくれていました。

企画展1か月前を切ると怒涛の忙しさでしたが、体は意外と軽く、順調に準備は進んでいきました。そして、いよいよオープン当日。私は何かが吹っ切れたように、前に進んでいました。

明日、上司の家を出ることが決まっていた夜のこと。私は、実家に電話をくれた上司の気持ち、その後も支え続けてくださった上司の温かさと優しさ、強さに心から感謝し、冒頭のように気持ちを伝えました。返しきれないご恩を頂き、何とかお返しをしたいと思っていたのに、上司は、

「それは私ではなくて、他の人にしてね」

と言われました。

手術を受ける前までの私は、自分の力を信じ、自信に満ち、がんばればなんとでもなる、努力は必ず報われると思って生きていました。けれど、初めて人生が止まり、弱い自分と向き合い、人に支えられ、頼らせてもらえることで、前に進めることを知りました。今でもその上司には感謝してもしきれません。その感謝の気持ちは、困っている人、弱っている人がいたら、手を差し伸べ、私が救われたように救ってあげられるように生きていくことで、恩返しできているのかなと思っています。

私は今、3児の母をしています。自分の家庭のことでいっぱいいっぱいになることも多いけれど、困っている人がいたら手を貸し、見て見ぬふりはせず、自分にできることを探しています。そうすることで、自分が助けられることも多く、温かい人間関係を築かせてもらっています。恩返しが自分にも返ってくるような感覚です。それをわかっていて、上司は私に話してくれたのかもしれません。

もし、あの時、高価なプレゼントで恩返しが終わっていたら、人生の幅は狭まっていたと思います。

あの会話をきっかけに、私は人と支えあう生き方を手に入れることができました。上司への恩返しは、一生続けていこうと思っています。

この記事が受賞したコンテスト

発達障害は本人の生きづらさだけではなく、周りの人にも大きな影響があります。夫と息子が発達障害と診断され、気持ちがスッキリしました。発達障害の特徴を理解し、自分の性格を知り、感謝の気持ちを持つことで、前に進むことができています。一人でも多くの方に、私の経験が役立てますように。