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関係がこじれた実家に、遠隔で鳴かせる「鳩時計」を設置したら起こった、想像以上のできごと。


人生でただ一つ、何十年も悩んできたことがあります。

10代のある時から、親と上手く話せなくなりました。

僕の親は僕がやることに次々ダメ出しして怒るタイプで、小さい頃はそれを疑問に思わずただ受け入れて泣いていましたが、10代後半に疑問に思い始めました。「俺って、何か間違ってるのか? そんなに悪いのか?」

僕に悪かったことがあるとすれば、口答えをしなかったことです。何度か逆ギレしたことはありましたが、その度に母は「親に逆らうとは、情けねえ、情けねえ。」と言って泣き、その度に僕は深く反省していました。あの時、言いたいことを思いっきり言えていたら、何か変わっていたかもしれません。

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大人になってから僕が一度泣いてブチ切れたことがあり、その時から親は説教をピタリとやめ、お互いに用事以外は特に話さなくなりました。僕が物心ついてから数十年、特に説教全開だった母親は元気をなくしたように感じられました。僕はそれをどう捉えていいか戸惑いながらも、単純に何も言われなくなった人生をまあまあ落ち着いて過ごしました。でも、心の中では(文章にするにはエグいくらい)苦しんでいました。

2018年に、僕は偶然OQTA(オクタ)という会社に出会い、インターネットにつなげて遠隔で「ポッポー」と鳩を泣かすことができる「スマホ鳩時計」の開発プロジェクトに関わり、お手伝いさせて頂きました。その一連を紹介していただいた記事が以下です。↓

※製品の紹介動画はこちら ↓

この鳩時計をWi-Fi環境下に設置し、離れた所でスマホアプリのボタンを押せば、それこそ世界中のどこからでも鳴かせることができます。つまり、その鳩時計の持ち主に「ちょっかい」を出すかのように、優しいアナログ音で合図を送ることができるわけです。「(なにしてるの、)ポッポー」みたいなイメージ。

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時刻で鳴くことはないので、鳴いた = ボタン登録者が鳩時計の持ち主のことを何かしら想い出したのだ、という事実が伝わります。もちろんその瞬間に時計の近くにいないと聞こえないし、鳴いた痕跡も残りません。だからこそ、合図を送る側も、受け取る側も、気を遣わなくて済む仕掛けなのです。「ポッポー」は、ほぼ愛情と呼んでいい合図だと思います。このプロダクト、というかコミュニケーション方法は、僕の十数年の玩具開発の経験の中でも本当に衝撃的作品で、特に僕自身にとって、先述した長年の悩みである親との関係を改善することができるかもしれない、究極の製品に思えました。

で、上の記事でも詳しく述べられていることですが、この鳩時計が完成し、何十年もうまく話せないほど関係のこじれた親のいる秋田の実家の居間に、満を持して、設置しにいったわけです。(僕にとっては一大事件です。)

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愛情とか、なんやかんや言うのはキツいので、「今作ってる新しいおもちゃで、俺が携帯でボタンを押したら鳴くから、実験させて」とだけ言って、本体を電源に差しました。そうしたら母親は、その説明だけで、この後の日常で何が起こるのかを直感的に分かったようで、「急に鳴いたら、心臓に悪いべ!」と言いながらも、少し嬉しそうでした。僕もそれだけでちょっと鼻の奥がツンとするくらい嬉しかったです。

それから、何十年もろくに電話もせず、雑談で笑い合うことのなかった両親に、僕は、毎日ハトの「ポッポー」を送り始めました。言葉には必ず意味があって、その意味が僕の邪魔をして、「ありがとう」も「ごめん」も言いづらかったけど、意味がない「ポッポー」なら何度でも送れます。そして、相手が聞いたかどうかよりも、僕があいさつのようなものを送れたこと自体が嬉しいわけです。

親との関係で悩んでいる人は、結構多いんじゃないかな、と思います。こんな話をすると、「こいつ、心のせまいヤツなんだ」と思われるかもしれませんが、親ってのは、難しいものなんです。物心つく前に純粋に注がれた愛情が、その後、過剰な心配とか、期待とか、子供にずっと甘えてきて欲しいという親のエゴとか、そういうもので、時間と共にねじれていくことがあるんだと思います。今自分に子供ができて少しずつ分かり始めているところです。僕の場合は、時代とか、田舎の文化もあったかもしれません。

で、このハトを実家に導入して、正直、期待したわけです。「もしかしたら、数十年悩んできた関係が少しずつ雪溶けを始めて、次に実家に帰ったお盆とか正月とかに、両親と目があったら、優しい気持ちで、ハグでもしてしまうのではないか」とか。

そんなことを想像しながら、毎日「ポッポー」を続けました。聞いてるかな、とか、買い物で留守かな、とか、両親が一緒に聞いて喜んだかな、とか…。で、上の記事では書かれていない、その時期の後で起こった、後日談です。

半年後に実家に帰ることになり、僕はちょっと緊張していました。そして親に会ったときに、僕の想像をはるかに超える変化が起きていたのです。

母親が、10代の時のように、僕に大説教を再開したのでした。

これは、全く想像をしていなかった方向の展開であり、これ以上ない凄まじい「ポッポー」の効果だったと、驚愕しました。説教をまくしたてる母親は元気そのものでした。僕はあっけにとられると共に、その説教に対して別に悪い気がしないことに驚いていました。

つまり、母親は僕が「ポッポー」と、何も語らないアクションを送り続けたことで、今流行りのワードでもある、「心理的安全性」を得たのです。こいつにはまた言いたいことを言っても大丈夫だ、と。

実際母親も父親も、話を聞くと、この鳩時計が鳴くことをとても喜んでいるようでした。この出来事によって僕の中で一つ吹っ切れた気がしました。

僕は長年、親に喜んでもらいたい一心で生きてきました。ファザコンマザコンです。期待に答えたくて言われた通り勉強もしたし、やれることは努力したつもりです。でもそれは叶わなかった(ように思っていました)。でも、親は別に何も期待していなくて、説教好きな人間だから説教していただけで、嬉しいことがあれば当たり前に喜んで、自分の人生を好きなように生きているだけだったんだ、と解釈しました。

これは、子供時代の自分を思い出すと泣いてしまうほど切ない話なんだけど、たぶん僕ら親子はもうお互いのことは分かっていて、分かり合っていることを分かっているのに、「俺は分かってもらえていないんだぞ」と、なぜか自分に言い聞かせてきました。期待していたんです。期待に答えて欲しがっていたのはずっと、僕の方でした。

僕は親を喜ばせられなかったと自分を責めていたけど、喜ばせていたこともあったことだって分かっています。そして、ちゃんと真面目で優しい人間に育って、自分の奥さんや子供を愛せている自分は、親がくれた今までの経験すべてから作られていることも、分かっています。

コミュニケーションって難しいです。ネット時代、誰でも発信できるようになって、文章、絵、動画、音声、ライブ配信、何でもできるようになったし、それらを楽しんでいる人も多いけど、それでも9割の人はいろいろなコミュニケーションに苦しんでいるんじゃないかなと思います。特に、生まれた土地の秋田に仕事で帰って、昔なじみの同級生とか地域の人たちとか、いろいろな人と接すると、東京でネットを中心に仕事をしている時とは全く違うリアルを感じます。僕が、ネットで調子に乗って発信しながらも、親と向き合うと苦しむように、みんな何かを抱えています。滑らかにコミュニケーションをとれている姿なんて、その人のほんの一面だけなんだと思います。みんな同じ。得意なことはコミュニケーションです、と言っている人も、たぶん同じ。

コミュニケーションって、好きなことを言って、勝手に受け取ったり受け取らなかったりして居るだけで、良いんじゃないかな。それだって、立派な対話だと思います。

僕は親のハトを鳴かせているのと同時に、秋田のじいちゃんの鳩も鳴かせていました。その記事はこちらです。 ↓

じいちゃんは耳が聞こえませんでした。それでもじいちゃんの鳩を毎日鳴らしていました。この記事掲載後、昨年末にじいちゃんは亡くなりました。その後も僕は毎日、じいちゃんのハト時計のボタンを押しています。もう居ないのに、ハトも鳴かないのに、アプリに残ったボタンを押しています。これは、コミュニケーションです。僕がじいちゃんのことを想い出して、言葉じゃない、たぶん「愛情」を、もういないじいちゃんに送るというコミュニケーション。自分とのコミュニケーションです。そもそも生きている時からハトの鳴き声は聞こえていなかったわけで、それでも対話だったわけです。

これから時代と共に、コミュニケーションの形はいろいろと変わっていくでしょう。僕も、おもちゃという媒体をはさんで、人と人が笑うようなコミュニケーションを作り続けるつもりです。みんなが、好きなように話して、好きなように受け取って、何もがんばらなくても自然な姿でいっしょに存在するという対話が、できるように。

(でも僕は、今夜だけは、ちょっとがんばって、口実を作って、親に電話しようと思いました。   おわり。)


※OQTAは、現在生産販売を終了しており、次回の販売・サービス再開予定は未定です。↓


◆今後のサービスに関するお問い合わせはOQTA社まで。↓






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