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【夢小説 007】 夢参位「鼻血女(3)」

浅見 杳太郎ようたろう

 あの目を刺す西日が何時いつの間に沈んだのか。

 夜になると、何だかんだ言って冷える。歳のせいだろうか。おれは、草臥くたびれた黄土色の背広のポケットに両手を突っ込みながら、事件現場のホームに立って、線路を見下ろしていた。

 「またか」とつい独語してしまう。ゴツゴツとした石と二本のレール、平行に秩序立って並ぶ枕木まくらぎ。そこに先刻さっきまで、あの若い男の肉体がばら撒かれていたのだ。飛散したかつて人体だったものの数々。赤黒い血液に混じって、透明な脳漿のうしょうだかリンパ液だかが、かなりの広範囲に及んで撒き散らされていた。

 それは、つい一時間前のことに過ぎなかった。今ではもう線路は元通り綺麗なものだ。

 都市空間というのは実に不思議だ。あんな酸鼻さんびな光景が、僅かな時間ですっかりなかったことになる。清掃作業としては三十分程度のものだろうか。

 今、このホームに立っている連中は、ここでさっき何があったかなんぞ、誰も知りやしない。電車が遅れて、「また投身かよ。他所よそでやれよな他所で」とぼやく自分の時間のことしか考えない連中は、この都市生活においては、圧倒的大多数派だ。おれだって、まあそうだろう。自分が関わらない限りにおいては、誰だってそうだ。

 ダイヤは復旧するが、はぜた人間は復活しない。ただ洗い流されて、なかったことになるだけだ。

 おれたちの都市生活は、なかったことになった無数のしかばねの上を歩くことによって、回っているといっても差し支えない。だから、ゴキブリや猫の屍骸を見つけても、騒ぐには当たらない。

 おれは遣り切れない寒さを感じて、ホームを後にしようと思った。そうして、下りの階段を目指して歩いて行ったところで、あるものに気がついた。それは、階段手前にある点字ブロックに残る、もう黒く酸化した血の跡だった。おれはそれを見て、

「なかったことにされてたまるかってか」

 と、小さく呟いた。そして、ほうと一つ歎息たんそくして、その執念深い黒い染みを、履き潰された革靴で無造作にこすってやった。

「なかったことになっちまうんだよ」

 おれは階段を下り、駅構内を歩いた。ホームよりは風のない分、寒さが和らぐ。歩いている若い連中を見ると、随分薄着だが寒くないのだろうか、と心配してしまう。

 改札の向こうには、賑やかな商店街の夜の商いが認められる。おれは、その雑多な温かみをぼんやりと眺めた。それから振り返って、駅構内の真っ白い照明に照らされた無機質な空間を見回した。おれの職場はこっちだ。

 あの飛び込み自殺をした若い男は、その前に、殺しをやった。現場はこの駅構内の女便所だ。刺殺だった。やっこさんはバラバラのミンチになっちまったから、身元を洗うのに随分時間が掛かっている。所持品も一切持っていなかった。

 親族は何と言うだろうか。全く親不孝なことだ。

 こういう青年が起こす短慮たんりょな事件に向き合う時、おれは、いつもその親のことを考える。おれは、人様の家のことを云々うんぬん出来る人間じゃあないが、この歳になると自然と家庭のことに考えが及ぶもんだ。いや、真っ当な人間ならば、もっと早くに家庭を思うだろう。自分の餓鬼がき一人満足に育てられない人間が、人様の子を思うのは可笑おかしいだろうか。可笑しいのだろうな。

 それにしても、ここ数年のことだ、こんな事件が連続しているのは。動機も何もあったもんじゃない、無分別な殺しをやっておいて、あとは狂ったように電車に投身だ。全く意味が解らない。最早、動機だとかを考える時代じゃないのか。精神分析、プロファイリング云々じゃあなく、これじゃもうオカルティズムだ。全くいやになる。

 おれは、刺殺現場に足を向けたが、その女便所への角を曲がるところで、封鎖した現場入り口を固めている若い警官二人の会話が耳に入ってきた。

「警部ももう歳だよ、実際。今日なんて息切れしちゃってな、満足に階段も上がれないんじゃなあ」

「まあ、ノンキャリから警部までいったんだ、もう充分、よくやったさ。でも、仕事だけが人生って生き方までして、あの歳で駅構内を走り回らなきゃならん境遇ってのも、考えもんだよな」

「走り回されてんのは、捜査の仕方に問題があるんじゃないのか。今の犯罪についていけてないんだよ。振り回されてるのさ」

 おれは、わざと迂回して、彼らの正面の方からゆっくりと歩いて行った。そして、彼らは、無事おれのことに気づき、下らんお喋りを止めて、いつも通りの敬礼をしておれを迎えた。おれは、手で軽く返礼しただけで何も言わず、そのまま一人、黄色いテープで封鎖されている女便所に這入はいって行った。

 入り口を少し行ったところに、被害者の殺された位置が、無機質に白テープで人型に囲ってあった。これを見る度に、こんなお道化どけたような人型にくり抜かれる死に方だけはしたくないな、といつも思う。

 おれは、何となしに一つひとつの個室の扉を開けたり閉めたりしてみた。

 一体いくつの扉を開け閉めしたと言うのか。おそろしく広い便所だ。少々疲れたのか、何だか気分が優れない。三十個くらいの個室を見終わったところで、ようやく全部検分したかと思っていると、そこからさらに一本細い横道が伸びており、そこを抜けると、別の大部屋に繋がっていた。白いタイル張りの大空間が一気にぱあっと広がると、立ちくらんだような眩暈めまいを催してくる。

 そこは、今まで見たこともないような奇妙な便所空間で、多種多様な便器が設置されていた。

 オーソドックスな白の陶器の和・洋便器から始まり、真鍮しんちゅう製の便器、金隠きんかくしが俎板まないたのように四角い木製の和便器、中には、和式便所なのにドアが顔しか隠せない高い位置にしかついておらず、しゃがんだら丸見えになるのではないかと危ぶまれる個室もあった。「二人用」と記された案内板が掲げられている、幅の広い陶器製の和便器もあった。電話ボックスくらいの個室で、中折れ式の戸を開けてみると、腰の高さ程もある食器洗い用のシンクのようなものが設置されているところもあった。ここで女性がどうやって用を足すのか? 便所タワシが置いてあるところを見ると、確かに便器ではあるらしいのだが。

 さらに奥に行くと、今まで白タイルを暴力的に照らしていた安っぽい蛍光灯も濁ってきて、少し薄暗くなってきた。薄暗くなると共に、若干ほこりっぽくなってきたように思う。

 塵埃じんあいの類は明かりを好まないものらしい。きまって暗がりに積もるようなのだ。

 そして、そこは、学校の家庭科室を思い起こさせる広い調理スペースが幾つも連なる空間になっていた。

 ガスコンロがあり、広めのシンクも冷たい光を放っていた。天井からは、木の杓文字しゃもじ菜箸さいばし、ステンレスの卸金おろしがね、マーブルコートのフライパン、ナイロンのフライパン返しなど様々な調理道具がぶら下がっている。足元では、欠けたふたを被った排水溝が、水垢を詰まらせていた。そして、その排水溝のすぐ近くに、びた包丁が五、六本無造作に打ち棄てられていた。

つづく。

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