母親、について②【プロポ】220907
私が幼い頃の、母についての記憶は、この歳になるとそんなに多くはない。
ただ、こんな私にも恥ずかしながら母とお風呂に入っていたかわいらしい幼少期があり、その時の記憶がうっすら残っている。
母のお腹には、大きなタテ傷があった。
私と、妹を、帝王切開で生んでいたからだ。
子どもながらに、「お腹を切るなんて、こわっ」という気持ちと、
「そうまでして自分を生んでくれたのか」という気持ちが芽生えていた。
気がする。
あと、母が一度、たしか休日の昼食のときに、まるで少女のようにわんわんと泣きだした姿が記憶に焼き付いている。
嬉し涙の類いを除外すると、泣いているのを見たのはそれが最初で最後かもしれない。
いきさつは全く覚えていないが、子ども心に、その姿はショックだった。
何かを言いながら、テーブルに突っ伏して、たしかインスタントラーメンだったような気がする昼食に手をつけずに、しばらく泣いていた気がする。
でも母は強い人だったと思う。
息子の私が言うのもなんだが、私が生まれ育った小さな村で、母のことを嫌っていた人はほとんどいないと思う。
漁村にある小さな商店。その主人の妻として、違う土地からやって来た、なんなら異邦人のような立場からスタートし、全てのことを一から覚えていったはずだ。
よく自分のことを、「外面がいい」と言っていたが、あの人のコミュニケーション力はよくよく考えたらプロフェッショナルそのものだったかもしれない。
飲めもしないお酒のことを「おいしいですよー!」と言いながら売っていた。
天性のものだったのか、生き残る術だったのかはわからないが、人当たりの良さは一級品であった。
あ、過去形で語っているが、いまも元気に生きている。
親元をずっと昔に離れているので、記憶は全て過去のものなのだ。
あと、母は車の運転が、とてつもなく下手だった。
田舎の商店なので、「配達」という業務がある。もちろん車で行くのだが、それが、軽の、マニュアル車なのだ。
母は一応免許は持っているものの、ペーパーに近い腕前だった。
オートマ車で精いっぱい。マニュアルは乗りこなせないので、常に「2速」で走っていた。
ルフィだったらギアセカンドだが、車の2速なんて、ゴーカートぐらいの速度しか出ない。
その速度で、ズビビビビビと前進していくのが、我が母だった。
その実力で、冬の凍結した路面なんて、もう無理だ。
ある時、でかい事故を起こした。
幸い、単独事故だったのだが、母はけっこうな怪我を負った。
足の付け根あたりを、何針も縫うほどで、その傷もお風呂で見た気がするが、なかなか痛々しいものだった。
その時は、「大丈夫大丈夫」と気丈にふるまっていた気がする。
いろいろ思い返してみると、どっちかというとアンハッピーなエピソードばかりになってしまったので、ぜひ、その対極も語らせてもらいたい。
明日。
【もうちょっとぉ続く】
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