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里山詩情『土筆狩り』

 ずいぶん前の話になる。フキノトウを探しに山里を歩いた。実家の下の用水を歩いたが、見つからなかった。時期が早かったらしい。土筆がたくさん出ていた。日常的な口論で仲が悪くなっていた母のために摘んでいき、母は佃煮を作ってくれた。

 山里を歩いている時、なにもかも忘れて、リラックスしていた。理性的な判断を放棄してただ練り歩いた。そして土手にたくさん生えた土筆をただ無心に取った。

 それからまた、数日後、自分で卵とじを作った。最近、時々、台所に立つ。土筆というやつは、はかまを取るのが大変だ。ついうっかり取りすぎて、はかまを取るのが億劫になることはよくある。私も御多分に洩れずせっせとはかまを取る。

 卵をよっつつかった巨大な土筆の卵とじができた。おかずはこれだけで十分だ。土筆の卵とじをこんなに豪勢に食べるのは常道ではないけれど、とにかく食す。かなりの量だ。こんなに食べるもんじゃないな、と思ったが、食べた後は食物繊維がたくさんとれ、ビタミンも豊富で、そしてなんといっても消化によく、自然の滋養を頂いたという気持ちでいっぱいになった。

 昔は貧しくなると、山菜が命を繋いだこともあっただろう。これを毎日食べるのは、時々、食すのとは違うのだろう。それは、愉しみのための食というものではなかったのだと思う。しかし、マクドナルドやカップラーメンやポテトチップスが氾濫している世の中で、このビタミンたっぷりな山菜料理はかえって新しい。なにより、自然と胃が直接つながる。ウィズコロナの時代、先行きが不安定ななかで、なにもない時は山菜を食べればいいという代替システムが残されている。

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