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ウクライナ問題 軍事と政治、歴史から考える

2022年2月末に始まったロシアによるウクライナ侵攻から、早くも1ヶ月が経った。侵略に抗するウクライナの奮戦と、それを支援し侵略を阻止しようとする各国政府や国連など国際諸機関の努力、そしてクレムリンが主導した侵略に反対するロシア市民の勇敢さに敬意を表しつつ、筆を執りたいと思う。

何故ロシアはウクライナに侵攻したのか?

ロシアが今回ウクライナへと侵攻したのは名目上は『ウクライナの非ナチ化及び中立化』あるいは『ウクライナ東部を中心に居住するロシア系住民の保護』だが、なぜロシアが国際的な非難や制裁を承知の上で2014年のクリミア併合以降都合8年以上に渡ってウクライナでの軍事作戦を続行し、そして直接的な軍事侵攻に及んだのだろうか?以下に筆者の考えを書きたいと思う。

1.軍事的観点

一つは『ロシアはウクライナに軍事的価値を見出している』というものがあるだろう。クリミア併合に及んだ最大の要因であると目されているクリミア南部のセヴァストポリ軍港は古くから知られる黒海の要地であり、現在のロシア黒海艦隊の母港でもある。黒海沿岸にはアメリカ主導の軍事同盟機構『北大西洋条約機構(NATO)』の加盟国であるルーマニア・ブルガリア・トルコが存在しており、対露最前線に位置するこれらの諸国に対する牽制をするのにクリミア半島というのは極めて適した地であるというのはお分かりいただけるだろう。

また、純粋にウクライナを中立もしくは親露派に置くことは同様にNATOに加盟するポーランドなど東欧諸国に対して戦略的な縦深を確保することになる。逆に言えば、ウクライナがNATOに加盟するような事態になればNATO軍が国境目の前に展開することになってしまい、ロシアからすれば国防上非常に不味い事態になるであろうことは想像に難くないであろう。

2.政治的観点

『ノヴォロシア』という言葉を知っているだろうか?帝政ロシア時代、特にエカチェリーナ女帝時代を中心にロシアが獲得した主に黒海北岸の地域を指す言葉であるが、この地域はロストフ州などを除いて現在ほとんどがウクライナ領となっている。

そして、2014年のウクライナ革命(通称マイダン革命)で親露派のヤヌコヴィッチ政権が打倒されたことを機に東部ドンバス地方を中心に親露派が蜂起して以降は同地に設立された分離主義者による『ドネツク人民共和国』および『ルガンスク人民共和国』。この両共和国は同年5月にこの『ノヴォロシア』を冠した『ノヴォロシア人民共和国連邦』の結成を宣言した。どちらもウクライナ国内のロシア系住民の利益を代表していると称しているが、実態はロシア政府が支援する傀儡政権である。

要するに、クリミアなどを含めたウクライナ東部はいわばロシアにとって『未回収のロシア』なのであり、ここを回収することはプーチン政権にとって宿願なのである。もちろん、この地域への執着が軍事的な観点に基づくのは前述の通りであるが、このように政治的な意図も少なからず存在すると考えてもよいのではないのだろうか。

近代ウクライナの歩み ロシアと西側の狭間にて

さて、前述した政治的観点でノヴォロシアについて簡潔に述べたが、そもそもウクライナという国家、あるいは地域は非常に複雑な歴史を歩んできた。現在でもロシアとNATOという二大勢力の狭間に置かれているこの国は、歴史上でも似たような立場に幾度となく立たされてきた。

そんなウクライナの歴史を紐解けば、今回のウクライナ問題が少しずつ見えやすくなると思う。今回は特に第一次世界大戦後のウクライナ人民共和国から始まる近代ウクライナ史に焦点を当てて簡潔に紹介していきたいと思う。

1.ウクライナ国民国家の嚆矢 短命の人民共和国

1783年にオスマン帝国の傀儡国家であったクリム=ハン国をロシアが併合して以降、ウクライナは長らくペトログラードの支配を受けてきたが、1918年に転機が訪れる。第一次世界大戦とそれに伴うロシア革命でロシア帝国およびロシア臨時政府が崩壊し、新たに成立したソヴィエト政府がドイツ軍と締結した講和条約(ブレスト=リトフスク条約)においてウクライナは

露國ハ速ニ「ウクライン」民族共和國ト講和ヲ締結シ且ツ同共和國ト四同盟國間ニ調印セラレタル講和條約ヲ承認スヘキコトヲ約ス 「ウクライン」領土ハ遲滯ナク露國軍隊及赤衞隊ノ係累ヨリ救脱セラルへシ露國ハ「ウクライン」民族共和國ノ政府並ニ公ノ施設ニ對スル一切ノ煽動的行爲若クハ鼓吹運動ヲ停止ス(ブレスト=リトフスク条約 第六條)

として民族共和国としての独立を承認されることになる。実はこの時ウクライナでは既に臨時政府下での自治共和国という名目で『ウクライナ人民共和国』と名乗って独立を宣言しており、臨時政府を転覆したソヴィエト政府に指揮された赤軍と戦闘を行っていたがこの条約を機に赤軍は撤退し、ウクライナはドイツ影響下に入り一応の独立を果たした。

しかし、この独立はすぐに脅かされることになる。前述したとおりウクライナの独立はドイツの軍事力と、革命後のロシアの混乱の上に成り立っていたと言っても過言ではない不安定なものであった。そして、その重要な支柱であったドイツ軍は1918年3月からの西部戦線大攻勢『皇帝攻勢』に失敗し崩壊、結局ドイツを含めた中央同盟国は11月に全面降伏し、同時にウクライナ国内に駐屯していたドイツ軍部隊は撤退を余儀なくされることになる。

後ろ盾を失ったシモン・ペトリューラ率いるウクライナ人民共和国政府は国内の統制の維持に失敗し、ウクライナでは赤軍の支援を受けたソヴィエト政権や無政府主義者ネストル・マフノ率いるウクライナ革命蜂起軍(黒軍)などが割拠する内戦状態に陥り、ペトリューラ政府は当時独立を果たしたばかりのポーランドに亡命した。ポーランドでは当時の最高指導者であったユゼフ・ピウスツキによって『ミンズィモジェ構想』という一種の『東欧連合』に近い構想が唱えられており、この構想に影響を受けたポーランド政府はペトリューラ政府と協定を結び、赤軍へと宣戦を布告しウクライナへと侵攻した(ポーランド・ソ連戦争)

結局ポーランド軍は一度は首都ワルシャワ近くまで押し込まれるものの結果的に西ウクライナおよびベラルーシを席巻し、ソヴィエト政府と講和条約(リガ条約)を締結した。この条約はいわば『ウクライナおよびベラルーシ分割』を規定したものというべきであり、ここに至ってウクライナ史上初の国民国家であったウクライナ人民共和国は滅亡した(しかし、現在のウクライナはソヴィエト時代のウクライナ・ソビエト社会主義共和国ではなくこのウクライナ人民共和国の後継国家を称しているほか、国旗なども人民共和国のものを引き継いでいる)

2.ソ連第二の構成国として ホロモドール、東部総合計画とヴィスワ作戦

前述のようにウクライナ人民共和国が滅亡した後、ウクライナは西側はポーランド領、東側はロシア内戦を制したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の構成国の一つであるウクライナ・ソビエト社会主義共和国として分割されるようになる。

1922年にポーランド・ソ連戦争が終結して以降、ウクライナでは飢饉が頻発し、農民反乱なども散発的に発生していた。そして、その状況は1932年になると急速に悪化することになる。当時のソ連共産党書記長であったスターリンが推進した農業集団化に起因する大飢饉、『ウクライナ大飢饉(ホロモドール)』である。詳細は省くが、徹底した富農追放政策や都市住民への食料供給のための強制徴発などによってウクライナでは1933年に渡って空前の規模の大飢饉が発生し、直後の『大粛清』と併せて極めて多くの死者を出した。これを機にウクライナにおける対ソ感情は急激に悪化した。

そして、それから10年近くが経過した1941年。再びウクライナを惨禍が襲う。独ソ不可侵条約を破棄したドイツ国防軍によって、ポーランド分割でソ連に併合されていた西ウクライナを含むソ連領が攻撃され、独ソ戦が始まった。ウクライナはドイツ軍南方軍集団とソ連軍南西戦線(方面軍に相当)との間で激しい戦闘が繰り広げられる激戦地となり、荒廃が進んだ。さらにはドイツ占領当局(ウクライナ国家弁務官区)によるパルチザン狩りなども横行したほか、ドイツ東部占領地省が担当した『東部総合計画』と呼ばれるドイツ人入植およびウクライナ人追放計画も一部実行されるなど民族浄化も行われた。

独ソ戦後も、ウクライナの苦難は続いた。ドイツ降伏後、ソ連が占領していたポーランドには共産主義者によるポーランド人民共和国が建国され、ソ連に西ウクライナおよびベラルーシを割譲した代わりに旧ドイツ領のうちオーデル=ナイセ線以東を『回復領』として与えられた。そして、ポーランド政府は当時反ファシスト・反ソを掲げてウクライナで活動していたレジスタンス組織『ウクライナ蜂起軍(UPA)』への対処という名目でポーランド領内に居住するウクライナ人の強制移住を含めた民族浄化作戦、通称『ヴィスワ作戦』を実行した。結果的に軍などの治安部隊によって十数万に上るウクライナ人が上記の『回復領』を始めとする各地へと強制移住させられた(この辺りの経緯は北海道大学の『ポーランド共産主義政権確立過程におけるウクライナ人問題』に詳しい)

このように、戦間期から戦後にかけてウクライナ人はポーランド・ドイツ・ソ連の三ヶ国の狭間において多大なる苦難の道を歩まざるを得なかった。そしてその苦難は、1991年のソ連解体まで続くことになる。

3.チェルノブイリとソ連崩壊、独立への道と核兵器

第二次世界大戦終了後、ウクライナは戦前と同様にウクライナ・ソビエト社会主義共和国の支配下に収まり、北方の隣国である白ロシア(ベラルーシ)・ソビエト社会主義共和国と共にソ連構成国ながら国連に議席を保有し、ソ連の国力の大半を占めるロシア・ソビエト社会主義共和国に次ぐ『ソ連第二の構成国』として冷戦期を過ごした。

しかし、1986年にウクライナ北部のプリピャチ市で起きた事故が、ウクライナを、そしてソ連を揺るがした。チェルノブイリ原子力発電所事故である。ソ連当局による杜撰な対応、特に情報封鎖を行おうとしたことは当時『ペレストロイカ(再構築)』の一環として『グラスノスチ(情報公開)』を掲げていたゴルバチョフ政権への不信感につながった。

さらに1991年8月にソ連共産党保守派による反ゴルバチョフ政権クーデター未遂事件(8月クーデター)が起きると、ウクライナではソ連離脱の動きが強まり、8月26日に国民投票による結果としてウクライナ共和国の独立を宣言。1922年に滅亡した人民共和国以来69年ぶりの独立国家が誕生した。

1991年末までにはウクライナは国際的に承認され、主権国家としての道を歩み始めたが、ここで問題となったのが旧ソ連軍がウクライナ地域に配備していた1000基以上の核兵器である。一応ウクライナは主要旧ソ連構成国(ロシア・ベラルーシ・カザフスタン)と『核兵器の共同措置に関する協定』を1991年12月末に締結しており、その規定によれば各国管理下にある旧ソ連の核兵器を独立国家共同体(CIS)が結成する統合軍の共同管理下に置き、そのための措置として各国から核兵器を移送することになっていた。

しかし、ロシアがCIS統合軍を通じて核兵器を事実上掌握し、黒海やクリミア半島などにおける諸問題に関してプレゼンスを握ることを警戒したウクライナ政府は1992年3月にはロシアへの戦術核兵器移送を中止し、ウクライナ軍の一部にはこれらのウクライナに残置された核兵器を奪取しようとする動きもみられるほどであった。結局新たな核保有国の誕生を望まないアメリカを筆頭とする西側諸国などの介入もあって1994年12月のブタペスト合意によってウクライナは保有核兵器を全てロシアへ移送し、核不拡散条約(NPT)に加盟することで非核化を達成した。

4.欧米か、ロシアか オレンジ革命とマイダン革命

1991年に独立を達成したとはいえ、セヴァストポリ軍港は1997年に結ばれたロシアとウクライナの間での軍事協定でロシアの租借地とされるなどウクライナ国内ではロシアの影響力が色濃く残っていた。

しかしその一方で、かつてのソ連の『衛星国』であったポーランドやルーマニアなどの旧共産主義国家は民主化以降急速に西側へと接近を進めており、特に2004年のポーランドEU加盟によってウクライナはEU圏と国境を接するようになった。これに呼応するように、同年末に行われた当時の大統領選挙における親露派のヤヌコヴィッチ首相陣営の選挙不正に対する抗議活動(オレンジ革命)が成功し、親欧米派のユシチェンコ政権が誕生した。しかしユシチェンコ政権は閣内不和、特に新興財閥(オルガリヒ)のトップでユシチェンコの協力者であったティモシェンコ首相との対立の結果政治的混乱を生むことになり、2010年の大統領選挙においてヤヌコヴィッチ元首相が勝利することでユシチェンコ=ティモシェンコ連合政権は崩壊し、親欧米派は主導権を失った。

ヤヌコヴィッチ政権は2013年にEUとの貿易協定の調印を拒否するなど親露派政策を実行した結果、親欧米派の基盤である西部を中心に激しい反発を買い、2014年初頭には反政府デモと内務省部隊が衝突するなど騒乱状態に発展(2014年ウクライナ騒乱もしくはマイダン革命)。ヤヌコヴィッチが2月22日にウクライナを脱出したことによってウクライナ議会はヤヌコヴィッチを大統領から解任し、大統領選挙を実施。結果的にペトロ・ポロシェンコが当選し大統領に就任したことで親露派政権は崩壊した。

5.親露派の反撃 ウクライナ東部紛争から全面戦争へ

ウクライナ親露派政権の崩壊と前後して、ロシア連邦軍の特殊部隊とみられる武装勢力(リトル・グリーンメンと呼ばれる)が当時ウクライナから自治が認められていたクリミア自治共和国に展開し、同地においてウクライナからの独立を問う『住民投票』を実施し9割以上の賛成を獲得。3月半ばにはこの結果に基づいてクリミア議会がウクライナからの独立およびロシアへの編入を決議した(クリミア危機)

さらにロシアとの国境に位置するドンバス地方(主にドネツク州とルガンスク州の二州)ではウクライナ治安部隊と親露派勢力との衝突が3月上旬から発生し、次第にこれが拡大し、ウクライナ軍と分離主義派の間で全面衝突に発展し、これに巻き込まれたとみられるマレーシア航空機が撃墜される事件が2014年7月に発生するなど民間人への被害も生じていた。

ロシアはこれらの武装勢力へ半ば公然と支援を行ってきており、2014年4月に独立宣言を行った前述の『ドネツク人民共和国』と『ルガンスク人三共和国』へ国家承認を行ったほか、ロシア軍部隊をウクライナ東部へ展開していることが展開されていた。

そして2022年2月24日、ロシアは東部国境およびクリミア占領地、ベラルーシ領などから侵攻を開始し、ウクライナ東部紛争は全面戦争に発展したのである。

おわりに

これまで稚拙な文章にお付き合いいただいた読者の皆様には感謝を申し上げます。筆者は未だ修学の途上にある浅学非才の徒であり、恐らく多くの間違いや勘違いなどがあると思います。しかし、それでも今発生している国際的な重大事件について、少しでも皆様に知ってもらおうと筆を執りました。

この記事を通じて、ウクライナとロシアの関係や何故戦争が起きてしまったのかということについて皆様の理解が少しでも深まることを願い、筆を置かせていただきます。

改めて御笑覧いただき、誠にありがとうございました。

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