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ネガティブ8割、ポジティブ2割。それが私の黄金比

 インターネット上でネガティブ度診断なるものをしてみると、軒並み「超ネガティブ」の判定を喰らう。お遊びの診断とはいえ流石に笑ってしまう。
 悲観主義とは私のためにある言葉なのかもしれない。実際、些細なことで自分の精神を極限まで追い詰めたり、ちょっとしたことでやる気が低下して立ち上がれなくなったり、といったことは日常茶飯事だった。
 流石にしんどくなってきたので、ポジティブ思考とやらになってみたいと思った時期もあった。しかしポジティブ思考になる方法を探ってみても、「自分を責め過ぎない」だとか、「成功体験を積み重ねる」だとか、私には向いていない事柄ばかりがヒットする。自分を責めることでしか自分を鼓舞出来ないし、小さなことを「成功」だと思える精神が培えていない。さりとて成功体験を感じるような大事を成すことも出来ない。
 そんな人間がどうやったらポジティブになれるのだろう。様々に藻掻いて思考し続けた結果、「ネガティブのままポジティブになればいい」という考えに至った。
 矛盾しているように見えるが、これが今の私の最適解である。


そもそもの話


 ネガティブとポジティブの定義から確認してみよう。
 ネガティブとは概して「否定的、消極的」と訳されるのに対し、ポジティブは「肯定的、積極的」という意味を持たされている。成程、ネガティブよりポジティブの方が精神的に良さそうではある。
 しかし(自称)ポジティブな人達は、往々にして「ネガティブを止めてポジティブになろう」と語り掛けてくる。これは不思議なことだ。「肯定的」なのがポジティブなのだから、ネガティブさえも肯定することこそが真のポジティブなのではないだろうか?
「陽キャぶってる人間は陰キャに冷たいが、真の陽キャは誰にでも分け隔てなく接する」と言われることがある。もしかしたらネガティブを否定する人々も、ポジティブ思考者ぶっているネガティブ思考者なのかもしれない。それならば合点がいく。
「そんなこと言うならネガティブも否定すればいいじゃん、ネガティブ=否定なんでしょ?」という声が聞こえてきそうなので補足しておくと、実際に行った。ネガティブになる度に否定した。そして余計に精神状態が悪化したので、止めた。自分の思考パターンを否定するのは、それこそ人格否定だ。いくらネガティブ思考者と言えど、人格否定は精神を壊すらしい。

なぜネガティブだけが一方的に嫌われるのか


 とかくネガティブとは嫌われ者だ。確かに、何か物事を行うとなったときに、悲観的なことしか言わない人間が居れば確かに鬱陶しいし、水を差された気分になる。気持ちは分かる。
 けれどネガティブは無数にある可能性の一側面だ。後ろ向きなことばかり言って足を引っ張るのは論外だが、ポジティブな面だけ見て物事を判断するのも愚行ではないだろうか?
 加えて、楽観が過ぎても問題が生じる。根拠のない「大丈夫」は破滅への第一歩になりかねない。自分に都合の良い話ばかりを「肯定」し続けた結果人生どん詰まり、なんて人間は創作にも現実にもごまんといる。「Fラン大学就職チャンネル」にはポジティブの落とし穴に嵌まった人間がたくさん見られるからお勧めだ。
 ではネガティブに利点はあるのかと言われれば、ある。失敗要因を事前に予測して排除することが出来るし、「このままじゃ駄目だ」という思いから自己を成長させることが出来る。ネガティブを飼い慣らすことが出来れば、大きな強みになり得る。
 だというのに、どうしてネガティブ思考を「断ち切る」とか「脱する」という考え方になるのだろうか。「ネガティブ思考」で検索すると、案外ネガティブの利点や付き合い方を説いているページも散見されるが、一般的なイメージはまだまだ「ネガティブ=悪」ではないかと思う。このイメージも、もしかしたら私が脳内で作り上げている一種の被害妄想かもしれないが。

「自分の中のいじめっ子を追い出す」


 ポジティブとネガティブの間に横たわる対立に疑問を持った末、「ネガティブのままでいよう」と開き直ったのは、ここ一年足らずのことだ。「極端にネガティブな人にしか見えない世界がある」と言ってくれる人が居たことや、様々な人や作品に触れたことなどによって、少しずつネガティブな自分を受け入れられるようになってきた。
 その変化は自分にも分からないくらいに小さな変化だったのだが、先日、「私は出来るだけ今のままの自分でいたいのか」と気付く出来事があった。
 Audibleを利用していたときのことだ。自分で自分のメンタルを安定させる手法について書かれている本を「読んで」いた。
 性懲りもなく懐疑的に話を聞いていたのだが、耳に飛び込んできたのは信じられない話だった。要約すると以下の通りだ。

「過去の経験から悪い思い込みをしてしまうと、その思い込みがネガティブなことばかりを言って困らせてくる。そんな『いじめっ子』を追い出して自分を応援し励ましてくれるコーチを招き入れよう」

 思わず「だっ、駄目に決まってんだろ!?」と声に出してしまった。往来だったが人が居なくて助かった。
 王蟲を庇う幼少期のナウシカの気分が少し分かったかもしれない。

何故追い出す必要があるんですか?


 その場では猛烈な拒否反応を抱いてしまったが、冷静になってみれば著者の言い分も理解できる。先も述べたが何をしても後ろ向きな言葉だけを投げ掛けてくる人間は居るだけで生産性が下がるし、精神的にも不快だ。追い出すのが妥当だろう。それが組織や集団であれば。
 しかし、この「いじめっ子」が存在するのは自分の脳内である。どれだけ困った存在だったとしても、その「いじめっ子」は私の一部である。自分で自分の面倒も見るのは当然だ。挙句手に負えないからと言って「追い出す」などと、無責任にも程がある。
 この「いじめっ子」が「どうせ失敗するよ」「絶対無理」「あの時の二の舞になるだけだよ」と言っても、落ち込むのは私だけだ。落ち込み過ぎて仕事や私生活に影響が出ない限り、誰に迷惑をかける訳でもないのだから脳内に住まわせていて何か問題があるのだろうか。
 そもそもこいつだって好きでこんなことを言っている訳ではない。苦しみの捌け口が私にしか無いから私に酷い言葉を浴びせているのだ。他者にばら撒かないだけ上等だ。
 事あるごとに過去を引き合いに出して「どうせ駄目だよ」と言ってくるのは、結局あの時の悔しさと恥ずかしさ、悲しさ、様々な感情が踏みにじられた記憶を許していないから。そんな健気な自分を追い出して自分を褒めて励ます存在を迎え入れる? 冗談じゃない。
 こいつが今までの悔しさを思い出させ、前に進む原動力を与えてくれた。たまに暴走しすぎて立ち上がれないくらいの感情を呼び起こしてきたが、今となっては可愛いものだ。こいつのせいで苦しいことも多々あったが、こいつのおかげで生きて来れたんだ。そんな戦友を、追い出すだと? ふざけんなよ。

 当時はもっと荒削りの感情だったが、上記のような強い怒りと悲しみを覚え、私は気付いた。
 憎くて憎くて仕方なかったはずの自分に対して、何を真剣に擁護しているのだろう、と。
 いつの間にか私は、自分に対する憎しみを乗り越えていたらしい。多大なるストレスも頂いたが、それ以上の報酬を得ることが出来た。有難う、件の著書よ。もう二度と読まん。

共存すればいいじゃない


 冷静になったところで、もう一度言説を見てみよう。
 ネガティブな言葉を浴びせてくる自分よりも、ポジティブな言葉を浴びせてくる自分の方が利が大きいという話。一見正義のように聞こえるが、果たして本当にそうだろうか?
「褒められて伸びるタイプ」という言葉がある。実際に褒められた方が運動技能の向上に優位性が見られた研究結果もあるようだ。科学がそう言うのならそうなのだろう――と、短絡的に考えてはいけない。果たして、本当に万人に通用する手法なのだろうか。
 褒められて舞い上がり、直後にミスをしてしまう人を何人も見てきた。恥ずかしながら、私も似たような経験がある。確かに精神は上向きになるが、それがプラスに働くときばかりとは限らない。
 それに、「褒められたからもっと頑張るぞ」となる人間ばかりなのだろうか。「褒められたからヨシ!」と、研鑽を止めてしまう人も居るのではないだろうか。少し褒めるとすぐ調子に乗る人も居るし、褒めるというのは万能薬ではないんじゃなかろうか。
 褒めるばかりでは成長に不安がある。さりとて非難するばかりでは行動出来なくなってしまう。両方がいい塩梅で存在するのが一番の理想なのではないだろうか?
 以上の考えから、私は「いじめっ子」は追い出すのではなく、その存在を認めた上で、暴走しないように見張る役=褒め役を脳内に招き入れる必要があると提唱したい。そして出来たら両方の意見を取りまとめる統括役も居た方が良い。脳内議会の完成だ。
 ということで、何か行動を決めたりアイデアを出そうとしたりするとき、議会が稼働するようになった。異なる自分が意見を出し合っている様を観察するのは面白い。……異常者だと思われないか不安になってきたが、皆行っていると信じている。

結論

 ネガティブは時に非常に困った存在となる。それは私も認めよう。しかしネガティブにはネガティブなりの言い分と利点もあるのだ。
「前も似たようなことしてたけれどいいの?」「きっと同じことになるよ」「どうせ駄目だよ」と言った言葉を、無視するのではなく、聞き入れる。そして、「あの時と違ってここを改善したから大丈夫だよ」「同じことになってもいいよ」「駄目だったらまた挑戦すればいいよ」と本当の意味でのポジティブで返してやれば、多少落ち着く。それでも暴走するようならいよいよ他人の力を借りる必要があるだろうが、幸いなことに今のところはこの手法で乗り切れている。
 一切のネガティブが存在しない心を雲一つない蒼天に例えるとしたら、私の心は星が疎らに見える都会の夜空だ。今のところ月も浮かんでいないし、星を繋げて物語ることも出来やしない。
 いつかこの夜空に、星が増えるか、月が出るか、はたまた朝日が昇るのか。少しだけ、楽しみにしている。









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