僕が遭遇したサイクリングでのトラブルの話 (昔話です): その6
(その5)からの続きです.
ロングライドで遭遇したトラブルについてです.
8. 奥多摩湖に行った時の話
1990年4月,僕は高校3年生になっていた.
あの日のことはよく覚えている.
3年生になったばかりのある日,教室の最前列に座っていた僕のところに,はじめて同じクラスになったN君がやってきて,
「キミ,ロードレーサーに乗ってるんだろ? 俺もロード持っているんだ」
と話しかけてきてくれたのだ.
そういうことなら話は早い (笑).僕とN君はすぐに友達になった.
N君が乗っていたのはフランス製のパーツがついたPEUGEOTだった.
彼は遠方の大学を志望しており,受験前にその大学の下見に行くと称して平日の学校を堂々と休み,ちゃっかり飛行機輪行をして,下見もそこそこに現地でサイクリングを楽しんでくるという,サイクリストの鑑なのであった.
そのころ,世間ではまだ土曜授業のある時代だったが,僕らが通っていた高校は土曜を休日とする週休二日制の試行校になっていた.
クラスメイトたちが土曜日には学習塾に向かう中,僕とN君は箱根や丹沢,湘南海岸などでロードトレーニングに励んだ.そして,夏休みには他のみんなが夏期講習に通う中,僕らは二人でトライアスロンの大会に出たり,神奈川から京都までの長距離タイムトライアルにチャレンジするなどしていた.
僕とN君にはそれぞれに将来の夢と目標があり,それらをよく語り合った.そして二人とも勉強は学習塾や予備校などに頼らない独学・自習派で,大学受験に対する向き合い方,考え方も合致していた.
だが実際には二人ともロクに勉強もせず,受験という目の前の大きな問題から現実逃避をするかのようにロードレーサーに乗る日々を過ごしていたのであった.
二学期のある休日,僕とN君はやはり受験勉強などそっちのけで奥多摩湖にロングライドツーリングに出かけた.ルートは海老名-宮ヶ瀬-相模湖-上野原-鶴峠-奥多摩湖-青梅-八王子-海老名で,距離は170kmである (下図).
そのときも,いつもと同じように相模湖を経由して上野原-小菅村ルートに入った.そしていつもと変わらない「だるまや」の前を通過した.
ロードバイクに乗るといろいろなことに挑戦をしてみたくなる.
まずは ロードレース だ.
しかし,僕もレースに出ていたけれども,集団についていくのが精一杯でまったく勝てる気がしなかった.
そもそもレースの結果は70%が素質,20%がトレーニング,10%が機材で決まる(当時の妄想です).どんなにトレーニングを積んでも自分には素質が無いから,好成績なんて望めないと思うようになった.そして,日本人がツール・ド・フランスに出場できないのも,欧米人よりも体つきが華奢で筋力が弱いから,つまり素質が無いからなのだと考えていた.
(注:その後,96年に今中,2009年に別府と新城が出場したが,それに続く若手がなかなか現れないのはとても残念である)
レースに面白さを見出せなかった僕がハマったのは,他人との競争ではなく距離,時間,そして速度に対する「自分との戦い」であった.
距離:宿泊も仮眠もすることなくロードレーサーで国道を走り続けたら自分はどこまで行けるのか?
時間:ヤビツ峠を最短何分で登れるか?
速度:ロードレーサーで最高何km/hまで出せるのか?
僕がチャレンジしていたのはこの三つ
距離については最高660km ,時間については最短37分だった.
当時はインターネットが無かったし,雑誌にも長距離の走り方やヤビツのタイムなどは書かれていないから,自己流の方法でトライして過去の自分と比較するという正真正銘の自分との戦いなのであった.
他人と競争や比較をすることなく,自転車を通じて自分の限界を知ることができ,僕はそのことに大きな達成感を感じていた.
(今はSNSやStrava,ブログなどであらゆる情報が飛び交っているから,こうした自己完結型のチャレンジはもう不可能だろう)
速度について
当時僕が住んでいた神奈川近辺では,とんでもない速度を出そうとすると.安全にチャレンジできるのは(僕の知る限り)二カ所しかなかった.
ひとつは箱根の旧道で猿滑坂から七曲に向かう800mの直線
もうひとつは上野原から小菅村に向かう鶴峠の下り坂である.
どちらも80km/h超えが可能だが,より傾斜が急な鶴峠の方が速度が出やすかった.
鶴峠から小菅村に向かって最初はコーナーが連続するが,標高760m地点から690mにかけて,距離700m,平均勾配10%の下り坂となる(上図).
ここは直線で見通しがよく,車も滅多に来ないため,最高速チャレンジにはうってつけの場所なのであった.
僕はそれまでにここで最高87km/hを出したことがあった.
そして,次こそはなんとか90km/hを超えてみたいと思っていた.
実は僕がN君を奥多摩へと誘ったのは,上野原の素朴な県道18号と青い奥多摩湖を堪能するだけでなく,ここで一緒に最高速チャレンジをしてみたかったからなのであった.
N君はここに来るのが初めてで,この急坂のことも事前に話しをしていた.
N君が先にダウンヒルを始め,少ししてから僕もくだり始めた.
僕は下ハンをつかみながら,最初のコーナーで少しずつ加速をした.
直線に入ったらすぐに腕をL字に曲げ,顎をステムにつけるように姿勢を低くする.そして,全神経を集中させて前方を見ながら,アウタートップの51×13Tを限界まで回した.
峠からくだりはじめて最初の1分間は,すべてがいつも通りだった.
ところが,直線に入ってからまだ回し切っていない脚が残っている状態のスピードメーターが80km/hを超えたあたりで,突然
ガコン
と強い衝撃を受けた.
そして,急にサドルからガタガタガタガタと振動が伝わってきた.
僕は急ブレーキをかけて停止した.
何が起こったのかとホイールを確認したところ,リアのMAVIC GP4が凹んでいる.橋の継ぎ目にリアホイールを打ち付けてしまい,リムが変形をしてしまったのであった(下図).
当時はホイールがすべてが手組みで,軽さと強度が反比例するような時代だった.軽いリムと少ない本数のスポークで組んだ軽量ホイールは加速は良いが強度不足でフレが出やすく,一発勝負のレースでしか使えなかった.
"決戦用ホイール" という呼び方はそれに由来している.
そして,レースだけでなくツーリングも含めてオールマイティに使うには,重量は二の次で,重くてもよいからとにかくホイールの強度が求められた.そんな "重いけど極めて頑丈なリム" の決定版としてMAVIC GP4 (下図)が広く知られていて,僕もGP4を36Hで組んだものを使っていた,
(今で例えると,カンパのZONDAがクリンチャーのド定番になっているのと似ているかもしれない)
その頑丈なGP4が凹んでしまったことにショックを受けた.
ちなみに,チューブラータイヤはパンクをしていなかった.
僕はニップル回しでホイールの横ブレだけとって,再びくだりはじめた.
下りきったところでN君が心配そうに待っていてくれた.
GP4が凹んだ! 信じられない
と彼に告げた
僕の自転車はリアがガタガタいって振動がひどすぎるから,サドルに座ることができず,その日はそれ以降,ずっと立ち漕ぎとなった.
N君には悪いが,このあとはゆっくりと走ってもらった.
輪行袋は持って来ていないから,そのまま自走して帰るしか無かった.
その後,残りの100kmをずっと立ち漕ぎで走ったのだが,実はそれほど辛かった覚えはない.なぜなら,僕は奥多摩湖に到着する頃にはすでに気持ちが切り替わっていて,次のホイールのことを考え始めていたからだ.
僕はアルテグラの7速ハブとスプロケを使っていたが,そのころ7400系DuraAceが初の8速仕様にマイナーチェンジしていた.しかしお金もかかるので,買い換えるべきかどうかでとても迷っていた.
それがホイールが壊れたことで踏ん切りがつき,振動がひどいロードレーサーを立ち漕ぎをしながらもう頭の中は8速のことで一杯なのであった.
このときの僕の顔は相当ニヤついていたと思われる(笑).
(当時,7s→8sへとスプロケが1枚増えることの恩恵は,最近の10s→11sや11s→12sと比べてとても大きかったのだ)
奥多摩湖から帰った僕は,早速次の週末には横浜のサガミサイクルセンターに向かい,8速仕様のデュラのハブとGP4のホイール,8速対応のデュラのリヤメカを購入した.それは僕にとって初めてのDuraAceであった.
このホイール破損の後,僕は最高速チャレンジをやめた.
箱根の旧道は傾斜が少しゆるいし,鶴峠の他には安全にできる場所がないと思ったからだ.
今では「ロードバイクは車道の左端を走るべし」という交通ルールや安全運転義務みたいなものが厳格なので,もうダウンヒルで最高速を試すなんてことはできないだろう.
僕も今では下り坂で60km/h以上出すのが怖くなってしまった.
ログも写真も記録も何もない.でも,僕の中には鶴峠で87km/hを出したあの瞬間と緊張感が今でも蘇ってくるし,660km,37分と並んで,自分との戦いに挑んだ大切な記憶として一生忘れることはないだろう.
(その7)に続く
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