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人生を大きくかえた3つの”きっかけ” マイナス編

こんにちわ!プロ雑用です。
このnoteは、2021年のMOVEDアドベントカレンダーの12/12の記事として書いています。

MOVEDでは「きっかけをつくる」ことをMISSIONとして掲げ「誰もが自己実現できる社会」になることをVISIONにして日々活動しています。

12月10日のnoteでは、プラスのきっかけについて語りました。今回は、その逆、私の人生を大きく変えた3つのマイナスきっかけについて、語っていきたいと思います!

ー 卒業があやうかった話
ー 仕事が楽しすぎた話
ー コロナで会社が潰れかけた話

卒業があやうかった話

私は高専出身なのですが、端的にいって落ちこぼれでした。
まじで理解できない分野も多く、いつもぎりぎりでした。
かろうじて赤点を免れていたのですが、それだけでは高専は卒業できません。最後の卒業研究が教授たちに認めてもらえないといけないんです。

わたしはこの卒業研究で大いにやらかしました。
その結果、卒業が大変に危うかった!!

卒業研究の内容というのは、星がどうやって銀河を形成するのかを、FORTRANという言語でプログラムを組んで再現し、与える変数の違いによってどんな銀河が形成されるか/または形成されないか、を研究するというものでした。

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入った研究室の助教授が、宇宙物理学を専攻していたので、こういう研究を選びました。同じ研究室のクラスメートは、宇宙ロケットの打ち上げシュミレーションなどをそれぞれ行っていました。

プログラムを走らせるためのLinuxのタワーを組み立てる必要があったのですが、その部品調達から始まり、組み立て、OSのインストールなどなど研究室もみんなと協力して行い楽しかった思い出。

シュミレーションを行うためにプログラムを組む必要があるわけですが、その前に、星の運動の計算式を知る必要があります。
天体運動には基本原則として「ケプラーの法則」と「万有引力の法則」の2つが欠かせません。それぞれの法則についてここで詳細はのべませんが、この2つの法則に含まれる方程式を使って、プログラムを組みました。

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組みました、といっても参考書にサンプルプログラムがあったので、それをベースに自分の研究用のプログラムを組みました。プログラムの技術力は低いので何度も失敗するのですが、そのうちにプログラムは動くようになりました。このまま無事に研究が進んでいけばよかったのですが、ここで私の悪いクセが顔を出します。それは後回しグセです。めんどくさい事は後回しにする癖ですね。多かれ少なかれ他の方もあるかもしれないのですが、学生時代のわたしはこの癖が特にひどかった。
授業についていくことや、レポート提出など忙しかったというのは単なる言い訳で、要するに逃げたんですねぇ。

時代は就職氷河期でしたが、夏には内定をもらっていました。これはひとえに高専ブランドの力であって実力ではない、と当時も今も思っています。ですが、内定を貰えた安心感と、めんどくさいことから逃げたい気持ちが合わさって、卒業研究に向かう気持ちが無くなってたと思いいます。
なんとかなるだろう、なんとかしてくれるだろうという典型的な楽観バイアスにかかってたのでしょう。

そんなこんなで卒業研究発表の日を迎えた私は発表中から顔が青ざめます。卒業研究の発表は同科の同級生と一部下級生、そして同科の教授陣が勢揃いしているなかで行われるのですが、私の発表が始まってから、教授陣の顔がみるみる険しくなっていくのがわかり、私の血の気も引いていきました。

あぁこれはダメかもしらん、と思いながら発表を終えた後、質疑応答もしどろもどろだった私は、卒業研究が失敗したことを確信していました。

案の定、卒業研究・赤点という通知をもらった私は死ぬほど震えました。泡吹きそうだった。それでも卒業研究は救済策として赤点だった場合、もう一度発表をやり直せます。

卒業研究のあと、最終学年生徒は卒業式まで休みになるのですが、その休み中に卒業研究の再発表があります。担当教授は休み返上で生徒に付き合うのですが、私はなんと研究室に足を運びませんでした。つまり逃げ出したんですね!現実逃避のために、なんかいろんなところをフラフラしていました。まぁ、当時はバイトもしておらずお金もなかったので、卒業が決まっている友人たちにも顔を合わせることもできず、本当にフラフラしていただけなんですが。

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研究室にいかなかったのは、担当助教授への申し訳無さも有りましたけど、一番は単純に怖かったんですよねー。もう逃げられないけど、見逃してほしいという気持ちしかなかった当時はwww全然笑い事じゃないけどwww

一向に姿を表さない助教授は、遂に怒りの電話を家にかけてきたのでした。帰宅すると父親に叱られるのですが、あまりの息子の狼狽と怯えぶりに、怒りを通り越して心配する父。顔面蒼白で号泣しながら震える息子を前に、追い詰めたら死ぬかもしれんと思ったのかもしれません。

やぁ、今考えると本当に申し訳ない気持ちでいっぱいですね!!!

翌日、腹をくくって研究室に向かった私に怒り心頭の助教授から理路整然としたお叱りと罵倒を受けた私。我ながら情けないったらありゃしないです。
このときの助教授の言葉と表情は未だにありありと思い出されます。

それでも最後のチャンスをいただき、無事に卒業研究は及第点をいただけたことで、無事に、いや全然無事じゃないwww、かろうじて卒業することができましたとさ。

これにそれまで逃げていた自分の弱さと向き合うキッカケとなった事件。

無事に就職した後、まじめに仕事に取り組めたのは、ひとえにこの事件があったからです。イイハナシダナー、と思うかもしれませんが、これが後々大きなマイナスきっかけを作ることになります。

仕事が楽しすぎた話

これはリクルートに居たときのお話。当時、私は28歳。入社から3年ほど経ち、仕事も順調でノリの乗っていたころです。このころは、今のように働き方改革などという概念がまだ存在していませんでした。
なので、働くだけ働いていた、夜は遅くまで働いて徹夜も日常茶飯事、そんな生活でした。終電後のタクシー料金も出てたし、残業代もフルで出てたし、というか、給与は残業があること前提で設定されていたので、働けば働くほど貰えてたんですよね。がんばった分だけ貰える、と言えば聞こえはいいのですが、まぁ、ぶっちゃけ残業代稼がないと生活できないっていう感じだったのですがw

それでも悲壮感はなくて、なぜかというと仕事は楽しかったから。夢中になって仕事をしていました。リクルートに入る以前は、働くことはある意味では苦行だったのですが、入った後は楽しさに目覚めてしまい、のめり込むように仕事をしていました。残業時間が100時間を割る日はほとんどありませんでした。

仕事が楽しいのは結構なことじゃないか、と思われると思うのですが、問題は楽し「過ぎた」というところ。「過ぎたるは及ばざるが如し」という格言がありますが、まさにこれ。

ついにその時は訪れます…
28歳。
ある日突然体が言うことを聞かなくなります。
思い返せば、それ以前から身体のコントロールが効かなくなっていたのですが、無理やり動かしていたのが限界に達し、体が動かなくなりました…!
体どころか、感情のコントロールも効かなくなっており、何が何やらわからない状態。そして最も恐ろしいのは、アンコントローラブルな状態が、自分で認識できてないこと!

さすがに周囲もおかしいことに気づき、上司に連れられて産業医面談したところ「うつ病」という診断になりました。言われた直後は「こいつ何いってんだ?」と思ってました。自覚症状がなかったので…とうよりも、それを認めたくない、という気持ちがあったでしょう。鬱は認知を歪ませるので、バイアスが掛かってたんでしょうね。

そうなった原因は色々有るのすが、大きな要因は2つ。
一つは加齢による体力低下。
もう一つは完璧主義。

体力低下はもうね流石に40代になると目を背けては居られませんが、20代後半なんてまだまだ若い!とか思ってるわけですよ誰しもw
違います。そんな訳ありません。年齢に応じた働き方というのがあるんです。間違いなく。徹夜ダメゼッタイw

当時はマニュアルなどの資料作成が多かったのですが、学生時代の経験から仕事から逃げてはならぬと思っていたこと、人様に迷惑をかけてはいけないという思い、そして自分の仕事にケチをつけられたくない高慢な気持ちが混ざりあって、私を完璧主義にしていました。

また体力を過信し、それを時間内に収めようという考えがなく、時間が有る限り完成度をあげようと労働時間超過を繰り返していたため、ついに体が折れ、体が折れたことで心まで折れてしまったわけです。

いろいろありまして復帰できたのですが、もしそのへんのお話に興味がありましたら。こちらのnoteに記していますので、よかったら合わせてお読みください笑

このことをキッカケにして、完璧主義を捨てました。未完成でも良い。また頑張ることでしか実現できないのなら、それは努力ではなくて工夫が足りない、ということを理解しました。

諸先輩からがよく口にしていた「よい手抜きの仕方」の言葉の意味が分かってきたんですね。

また人の不足を補おうとしていながらも、自分は他人を頼るということができていなかったこともありました。
気づきながらも、すぐには変わらなかったのですが、このコトをキッカケに自分ができないこと、苦手なことを人にぶん投げる、いや頼りにするようになっていきます。すぐにはできませんでし、いまも全部できてるとは思いませんが。

逃げずに立ち向かうことも重要だけど、完璧を目指しはいけないよ、そして健康は何より大事=自分が資本だよ、ということを学んだきっかけでした。

そしてこの経験が、また後のきかっけに大きな影響を与えます。

コロナで会社が潰れかけた話

人生を大きく変えたマイナスきっかけの3つ目は、外からのきっかけです。世界中の人々に大きな影響をあたえた、新型コロナウィルスの流行。これをきっかけに、私の所属しているベンチャー・アソビューは大きな打撃を受けることになります。

アソビューがコロナショックでどうなったのか、詳細は今までも紹介させていただきましたので割愛させていただきますが、ことの顛末を代表目線で語りつくした書籍が先日発売されました。
よかったらと言わず、ぜひ購入してお読みください!(宣伝ですw)

それはそれとして、そのコロナ渦中において降り掛かってきた状況の中、私は果たしてどうなったのか?

アソビュー山野代表が下した決断はいろいろあるのですが、そのうちの一つは「雇用は維持する、リストラはしない!」というもの。しかし一部社員はアソビューではなく、他の会社に一時出向してもらう(ただし本人の意にそぐわないことはしない)ということで、私もその対象でした。

コロナショックで世界の様相は大きく様変わりしました。生活基盤が崩れ去った人もいれば、むしろアップデートした人も。そして私はアップデートされた側です。

実は初めての緊急事態宣言の直前に、わたしは副業を始めています。それがMOVEDです。本当にタイミングが良かったなと思うのですが、その後紆余曲折あって、アソビューとMOVEDを二足のわらじで活動することになりました。

この危機的状況の中において自分が価値を発揮できる場をどうバランス良く作り出すか?という考えに、なんとも自然とたどり着き、そして決断できたのは、これまで紹介した2つのマイナスきっかけ、学生時代の逃げ出したことによる卒業危機、完璧主義と働きすぎでうつ病になった危機、この2つのマイナスきっかけを経験していなければたどり着けなかったと、今考えれば感じます。

※このエピソードの詳細は、こちらのnoteに詳しく記しておりますので合わせてお読みいただければ嬉しいです!

プラスだけでなくマイナスもチャンス

ここまで人生を大きく変えた3つのマイナスきっかけをご紹介しました。最初の学生時代の危機において困難から逃げ出したような人物は、今ではいっぱしに自由に働いています。

12月9日のnoteのようなプラスのきかっけだけでなく、失敗や危機などのマイナスのきっかけも、人生を変化させるきかっけです。

もちろん、このようなきっかけから、転落する場合もあるでしょう。
植物の芽が出る節というのは、新しく枝が伸びるきっかけですが、一方で折れやすい箇所でもあります。人生の節目・きっかけが、どのように伸びるか、それとも折れるか、あとで振り返った時に、どんなターニングポイントだったのか。
きっかけが人生を変えるではなく、きっかけの後に「どう行動するか」というのが、一番重要なのではないでしょうか?

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
それじゃ、また。

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