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人類は存在意義を求め続ける習性(2021年)

なぜ生物は死ぬ為に生まれてくるのだろう?このまま平穏に人生が進んでも老いて死を迎えるだけ。小学生の頃から生き死にについて考え出して、死ぬ事は永遠なる無と想像して怖いと思った。無となれば意識も無くなるから怖いとすら感じられず、感じられないという認識すら出来ない。生と死という相対的ではなく、絶対的な無。

若い頃は生まれてきた意義を求めようとあれこれ挑戦してみたけれども、その先にあるものも空しいものだと悟った。ただただ平穏な、ある意味で贅沢な時が流れていく。残りの半生が消化試合として幸福に恵まれながらも淡々と過ぎていく。世の中に対して様々に想う事もあるけれども様々に考えを巡らすと、能動的に何もしない事が最善の何かをし続けているという隠者的な哲学や思想に行き着く。


人類は様々な欲望を抱くが、基本は生物的な飲む食う排泄する性交し子孫を残すであって、それ以外の雑多なものは多種多様だ。全ての人に当てはまる訳ではないが大まかに「マズローの欲求5段階」という説もある。世の中を眺めたり歴史を鑑みると人々によって欲求は様々であり、人類に於いて高等とされているものであれば哲学や思想や芸術や様々な分野の学問があり、下等とされているものであれば身を滅ぼすような金銭欲によるギャンブルや投資、性欲による浪費や病気、現実逃避の為の嗜好品や遊びなどがあり、生存競争や承認欲求が進み権勢欲や名誉欲などもある。

多くの人達は高等も目指さず下等にも落ちぶれたくなく、生物的な基本を過ぎもせず足らずもせずに中等の程よいところを満喫しながら個々に可能な範囲で利他的な心配りをする。ただ平穏が永遠に続く訳ではなく季節が変わり続けるように人々の暮らしも変わり続け、宇宙や地球の仕組みによる影響や、ある人の善意が裏目に出たり悪用されてしまう事や、正義感による悪や被害妄想的な悪などがあり、それらの影響によって人々の暮らしも変わり続けていく。


人類が動物的な部分しか無かった場合は人類という存在はもっと単純であったであろう。しかし人類は様々な事を学び考える事によって生きる事や死ぬ事についても学び考え、その影響によって欲望が増幅される事もあり、欲望は善にも悪にもなり多くの人や生物を活かす人もいれば殺す人もおり、死への恐れから不老不死を望む人もいたり、子孫という複製を作ったり弟子を作ったりして何かを託したり、何かしらの生きた証を遺そうとする人もいる。

後世に遺すような偉業をしても悪行をしても、多くの人達がする子孫を作る事をしても、自分の死後の世を観察出来る訳もなく子孫のその後を観察出来る訳もなく死後の歴史書を読める訳もなく、ただただ永遠なる無が続いていき永遠なる無という事すら認識出来ない無が続いていく。

その無が続いていくのに一瞬の生とは何だろう?生物とは何だろう?生物が存在しなくても宇宙や地球は成り立つのに生物は存在していて、個性溢れる多種多様な生物達が時に繁栄し時に絶滅し、膨大な永い年月を一瞬の積み重ねで刻み続けていく。


永遠なる無の訪れがあり、人類に宇宙の仕組みを超える事は恐らく成せないだろう。他の生物達とは大きく違う個性的な長短のある人類の存在は何なのだろう?ただ一瞬の生を過ごすのに多くや大きな事や複雑な事は必要なのだろうか?ただ生きてただ死んでいく、その淡々とした味気の無い日常に落ち着かず何かをしたがる習性が働く人類、人類は遠い未来の結末が定かでないまま何かを為していき成していく。紡がれていった遺伝子が遥か遠い未来にこの世の全てを解明するのだろうか?


旧ブログにて2021年08月08日に記載していたもの

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