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『ブルアカ』アズサと『FGO』アルトリア・キャスターから見る”それでも諦めない”心

アニメ、漫画、ゲーム。多くのエンタメでは主人公が仲間と力を合わせて困難に立ち向かい、強大な敵を打ち倒すという王道のストーリー展開がある。その過程で、「こんなヤツに敵うわけがない」「この状況を覆すことなんてできない」と、どうしようもない絶望に呑まれそうになることもあるだろう。そして、登場人物たちはそんな理不尽にもめげず戦う。こういう物語体験はおそらく皆一度は体験し、大いに沸いたことがあろう。
かくいう私も少年漫画が大好きで、特に『ダイの大冒険』を読んだ時のことは忘れられない。登場時は弱虫でビビりなキャラだったポップがダイや仲間たちを鼓舞し、強大な悪に立ち向かう姿に熱狂した。
そういう王道展開に見られる、「たとえどんなに苦しくても、最後まで諦めない」というキャラ心理。読者の心を鷲掴みにするこの描写にはどんな特徴があるのだろう?

私がプレイしている『ブルーアーカイブ』と『Fate/Grand Order』にもそれぞれ、”諦めない”キャラクターが登場する。

『ブルーアーカイブ』より白洲アズサ
「たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない」
『Fate/Grand Order』よりアルトリア・キャスター
「わたしは、いつもずっと輝いていた、あの小さな星の光だけは、裏切りたくないのです」

この二人はそれぞれメインストーリー「エデン条約編」と「妖精円卓領域アヴァロン・ル・フェ」で主人公的立ち位置を担うキャラクターだ。二つの物語と二人の登場人物、そしてそれを取り巻く状況に私は近いものを感じた。それは先述した、
このどうしようもない世界で、それでも諦めないという心
今回はこの二つのゲームを比較して、”諦めない”キャラ心理について少し考えたい。


バッドエンドに向かう世界

「エデン条約編」はゲヘナ学園とトリニティ総合学園という長きにわたって憎みあってきた二校が和平(=エデン条約)を結ぶ際に起きた事件が中心となる。このエデン条約は最初から全てが破綻していたといえるほど、どうしようもない状況で調印されようとしていた。未来を予知できる百合園セイア曰く、

全てを知るセイアはこのエデン条約が上手くいかないことを理解していた。
破滅へ向かう世界で一人足掻くアズサに対し、彼女は何を想うのか…

エデン条約編では「全ては虚しい」というのが一つのキーワードになっている。古くからの因縁、渦巻く陰謀。バッドエンドに一直線の世界に抗うことは確かに無駄なことなのかもしれない。

「アヴァロン・ル・フェ」もまた、滅びゆく世界が舞台となる。第六の異聞帯である妖精國ブリテンは滅びの未来が確定していた。そんな中で「ブリテンを救う」という使命を持って現れた楽園の妖精、アルトリア・キャスター。彼女を中心にブリテンを統治する女王モルガンを倒す旅が物語の基本となる。だが、ブリテンに隠された真実、そこに生きる妖精たちのどうしようもない実態、終末を導く黒幕の存在といった風にこの世界もバッドエンドが確定していると言えるだろう。そんな中で感謝もされず、いいように使われて、楽しいこともほとんどなくて。報われない境遇でそれでも前に進むことは、簡単ではない。

世界を救う予言の子。
その真実はあまりに残酷で…

虚しい現実、それを受け入れるキャラクター

バッドエンドが確定した世界。どんなに頑張っても結果が失敗に終わるとわかっていたら、諦めてその現実を受け入れるというのは当然の帰結とも言える。

「エデン条約編」の3章で敵役として登場するサオリ。アズサが元々所属していたアリウス分校の生徒で、「全ては虚しい」という教えを強く信じている。トリニティへの憎悪と世界への諦観。『ブルーアーカイブ』に登場するキャラクターの中でもとりわけ異質な雰囲気を纏っている。彼女は世界に絶望し、それを受け入れている人物で、運命に抗い続けるアズサとは対照的に描かれていると言えるだろう。彼女にスポットライトのあたる4章を読んだ後だと、サオリはアズサを「世界の真実から頑なに目を逸らす子供」のように思っていたのでは、と感じられた。スクワッドのリーダーとして、メンバーの保護者的立ち位置にいたサオリは仲間を守るために一人、「大人になる」しかなかった。その大人像が「先生」の、ひいては『ブルーアーカイブ』の掲げるものとは違う、間違ったものだとしても。アリウスの価値観での「大人」に、サオリはなるしかなかったのかもしれない。

アリウススクワッドのリーダー、錠前サオリ
その憎悪と悲しみは計り知れない

「アヴァロン・ル・フェ」では女王モルガンがこの立ち位置にあたる。彼女は元々、アルトリアと同じようにブリテンを救う使命を持った楽園の妖精であり、実際幾度となくブリテンの危機を救った救世主でもあった。しかし、度重なる裏切りや迫害、報われない現実に心が折れ、遂には使命を放棄してしまう。モルガンは魔術の天才でアルトリアは凡人、でもモルガンは諦めたのに対しアルトリアは逃げなかった。この対比も意識して描かれている部分だろう。

女王モルガンと成り果てた救世主
誰も信用せず、自らの愛した国を守ることのみを考える

誰だって無駄は嫌だし、無意味なことに時間や労力をかけたって仕方ないと思う。実らない努力は辛いだろう。必要のない苦労なんか背負ったところで得はない。
よく、「人はいつか死ぬのに、どうして生きるのか」という問いが議題になることがある。たしかに、皆どうせ死ぬなら、なんのために生きているのだろう?それは結局虚しいだけじゃないか、という考えはどうしても頭をよぎってしまう。

たとえ意味がなくても、抗い続ける「希望」

頑張ったところで無意味なら、抗うことはただ虚しいだけ。それは真理だ。それでは、何故アズサとアルトリアという二人の少女は”それでも諦めない”という心を持っていたのだろう?

アズサはアリウス分校の中で、サオリや他のスクワッドと同じように
  -Vanitas vanitatum omnia vanitas-
「全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ」
という言葉を洗脳のような形で刷り込まれてきた。そんな彼女がどうして「それでも足掻かなければいけない」という精神を持つようになったのか。それは自分の中に「希望」を見つけたからだ。ある日見た一つの景色。アスファルトに咲く花という、ある種何をしても無意味な状況とそれに抗うものの構造。それは一見すると無駄なことだ。しかし、花は一輪、そこに強く美しく咲いている。これはアズサの中の原体験として、彼女の諦めない心の根幹となる「希望」になったのだろう。たとえ虚しいことだとしても抗う。それは側から見たら無価値でも、アズサにとっては意味のあることだったのかもしれない。あの花の美しさのように。

アズサの抗う理由
いつか見た路傍の花という「希望」の象徴

一方、アルトリアは自分の考えを大きく変えるような原体験はなかった。この世の虚しさは知っていたし、理解できた。戦いたくはなかったし、頑張りたかったわけでもない。好きな人と街を歩いたことに心躍らせ、綺麗な髪飾りを欲しがるような、どこにでもいる普通の女の子だった。そんな彼女が前へ進むことをやめなかった理由、それはやはり「希望」だった。しかし、アルトリアの希望はアズサと違い、現実に紐付いていたわけではない。身体中が傷だらけになるような嵐の中で、一際輝く星の光。その心象風景こそがアルトリアの「希望」だった。それは影も形もない。だけど、その光を裏切ることは、しなかった。したくなかった。それだけが戦う理由だった。これはむしろ現実にも言えることかもしれない。人間、みんながみんな劇的なエピソードを持っているわけじゃない。それでもなんとなく、ぼんやりと信じている「希望」を道標にして、諦めなかったり頑張ったりしている。そんなどこにでもいる凡人が、終末に抗う物語こそ「アヴァロン」のストーリーだったのかもしれない。

アルトリア・キャスターの抗う理由
いつも輝く星の光という「希望」の象徴

不条理に抗う少女たちの姿。それはゲームをプレイする私たちにとってもまた希望の象徴になる。私たちは世界を救う勇者や英雄なんかじゃないけど。人生のちょっとした困難に立ち向かう時、ゲームや漫画のキャラのことを思い出して頑張ってみようと思うことがある。単純なストーリー展開の一つと片付けることもできるが、音楽や小説に元気をもらうように、ゲームのキャラクターから勇気と希望を分けてもらうというのも、エンタメの醍醐味ではないだろうか。

ゲームをやるということ、エンタメを楽しむということ

ゲームを初めとするエンタメは、現実ではない。一部の人に言わせれば「いい年こいて、無駄なことを」といったところだろう。それもまた否定はできない。では、エンタメを楽しむことは悪なのだろうか?それからインスピレーションを受けて自分で何か新しいものを創ったり、子供時代の娯楽として楽んだりすることしか許されないのだろうか?否、そんなことはないだろう。そこから特別得るものがなくったって、それで時間を浪費したって、いいじゃないか。エンタメというのは「楽しいから」「面白いから」エンターテイメントなんだ。これは消費者のエゴでしかないかもしれないし、オタクの見苦しい言い訳かもしれない。それでも、ゲームをプレイした時に感じる喜怒哀楽が、この体の熱が嘘だとは言わせない。ゲームの主人公たちの生き様に心を躍らせ「よし、俺も頑張ろう」と思う。実際、それで少しでも心の支えになれば素晴らしいことだ。今の時代、やることは溢れかえっていて。便利になったはずなのに、私たちは時間に追われている。余暇を楽しむはずの娯楽を倍速で摂取して、「要るか要らないか、役に立つか立たないか」で物事を判断してばかりだ。もちろん、所詮は娯楽。命より優先するべきものじゃない。だけど、全くの無価値ではないはずだ。
少なくともここに一人、ゲームのキャラに感動して必死に文を書いているバカがいるのだから。エンタメにだって、希望は見出せる。

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