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伊豆大島「文月は雨雲の中」

昨年の盆、瀬戸内海の小島、小豆島を訪れた。極めて無計画で発作的な旅だったが、未だにあの夏、足の裏を焼いたアスファルトや、じっとりとした静かな夜の海の匂いが心に染み付いて、旅に出ろ、今すぐ出ろ、と囁く。あの旅を終えて以降、声に耳を貸すといつのまにか、手の中に船や鉄道の切符が握りしめられていることが増えた。
私にとって旅の悪魔は、小さな島の砂浜を、独り歩く姿で現れる。彼はしばらく歩いて立ち止まり、サンダルの鼻緒に挟まった砂を、白く泡立つ波で洗いながらゆっくり振り向く。あれは、日に焼けた自分の顔だろうか。日暮れの逆光は悪魔の相貌を隠して、見せようとしない。
 
 伊豆大島「文月は雨雲の中」


7月2日、横殴りに吹き荒れる嵐の中、東京から遥か南の東京都、伊豆大島にいた。いつも通り悪魔の囁くがまま、電話で注文したホテル付のチケットは本来であれば、海鮮尽くしの優雅な島旅になるはずだったが、日頃の行いが祟ったか、客船待合所の窓から見る外の景色は、稀に見る暴風雨である。当たり前だが、ただでさえひなびた港町の土産物屋、喫茶店、観光案内所は軒並みシャッターを下ろし、少々呆然としてしまう。雲の切れ間を縫ってバスに乗り、隣港の町にたどり着くと、辛うじて観光客向けに有名な飯屋が開いていた。郷土料理であるべっこう寿司をつまみ、豪勢な伊勢海老の入った潮汁を啜っていると、治まった雨脚は再度強まり、店先の硝子を容赦なく叩く。灰色の海に、まばらに上がる飛沫に、明日の船の不安がよぎった。
店にずっといるわけにはいかないし、かと言ってどこか行ける状況でもない。仕方がないので、ホテルに電話をし、予定より早めにピックアップしてもらうことにした。しばらくしてやって来たホテルのバンは大型のハイエースで、同じくホテルに泊まる老夫婦が同乗した。しばし車中で奥様と会話をする。
すごい雨ね、あたしたちは屋根のある露天にずっといたの、明日の船は出るかしらね、出ないならフェリーでゆっくり帰るのも悪くないと思うの、実はあたしたち、これがリベンジ旅行なのよ、前の時も雨に降られて、予定したレジャーは行けなかったから、でもこれじゃ、またリベンジが必要ね。
会話をする、というか、話をされた、という方が正しいだろうか。ともあれ相槌を打ちつつ、雨のせいで靄の様に見通しの効かない山道を走ると、霧の向こうに大島温泉ホテルが見えた。

伊豆大島は高度成長期、一大観光地として栄えた。三原山登山に加え、あんこさんと呼ばれる、土着衣装を着た女性たちは、いたく日本男性の心を掴んだらしい。和田三造を始めとした多くの画家や文筆家からも愛され、モチーフにした作品も未だ残る。私が島を訪れた2日間は、特に人気のない日取りだったが、そうでなくとも70年代以降、来島者、人口共に減少が続いているのは、86年の三原山噴火だけが理由では無いだろう。大島温泉ホテルの、豪華だが壁紙の剥がれや客室の乱暴なエアコンの配管を見て、日本人が日本の至る所に金を落とすことが出来、世界にも足を伸ばした高度成長期の歪な強さと、未熟なまま力を失いつつある現在を感じた。だがそんなことも、雨を気にしないだだっ広いだけの部屋でずでんと横になると、次第にどうでも良くなる。

しばらくぼっとして、のそのそ階下の風呂に入りに行くと、広い温泉は私以外いなかった。雨のそぼ降る露天に出ると、晴れていれば三原山が見えるだろう景色は一面、深く霧がかった森が広がり、太古の匂いが感ぜられる。あの一瞬の霧の切れ目から、今にもぬっと恐竜が現れそうで、ゆっくり強まる雨脚に打たれながら、なんだか目が離せなくなっていた。

雨は地面を強く打ち、細かな飛沫になって風に舞う。白い粉の様に見える水滴が、右へ左へと暗っぽい地上を彷徨い、二日目の大島の朝は未だに時化ているのが、客室の窓から分かった。朝風呂を浴びにまた大浴場へ向かうと、相も変わらず古代の森は咽るほど濃い空気を纏い、火山島の独特な空気を醸している。朝食とチェックアウトを済ませ、昨日出迎えてくれたものと同じ送迎のバンに乗り込む。また老夫婦と同乗したが、奥様は疲れているのか、今朝は喋らなかった。椿園や郷土博物館でぽろぽろと同乗者が降りていく中、どこに行くか迷っていたが、雨の間隙を縫って島ならではの場所に行ってみることにした。

 「大地の年輪」「バームクーヘン」などと呼ばれる、大島の火山地層切断面は、百数十年ごとに繰り返す三原山の噴火で噴き上げられる火山灰が、15000年分も重なって出来上がった。道路に沿って、延々と縞模様が続く眺めは、期待していた以上に壮観だ。500年前や1000年前の、人が生きていた頃ですら私には想像がつかないのに、この島は確かに15000年前から、火を噴いたり地震を起こしたりしながら存在している。太古の森の空気は、植生や気候に多少の違いはあれど、200年ごとに火山灰や溶岩で地上を一新する、島のサイクルが作るものなのだろうか。日々新しいアスファルトを敷き直し、のっぺりとした黒ずみの層を重ねる東京の都会の地層と、今目にしている縞模様の年輪は、統治者が違うだけで本質は変わらないのかもしれない。アスファルトの地表にはビルが森を為し、土の地表には、大木が森を為すだけだ。だがそれでも、ただ統治者が違うというだけで、アスファルトの道から逃れられない。その道が無ければこの景色を見られなかったし、あの太古の森では到底生きられない。ここから向こうは“人のための場所”ではない。その線引きを、切断面は表している様に見えた。
 
 折よく現れた周遊バスに乗り込むと、雨はじきまた、強くなった。民俗博物館をぶらりと見て回ると、島民のハレとケの衣装や、食器、子どものおもちゃや仕事道具など、多彩な展示が並ぶ。初期の入植者たちは、“人のためではない場所”を切り拓き、“人のための場所”を創り出した。スーツを着た都会の観光客を軽々持ち上げる島の女性や、重そうな木材を担いで浜から船まで作られた足場を渡るあんこさんの白黒写真を眺めていると、ふと明らかに、大島では女性にしかスポットライトが当たっていないことに気づいた。名産品である椿油で美しい髪を保つあんこさん、島民初のスターとして歌手になった女性、もちろん発展の裏にはいたはずの男性たちの姿はあまり見えず、強烈に健康に活躍する女性たちが見える。これが、この島に人が集まった理由だったのだろうか?そもそもこの原初的な力は、どこから来たのだろうか。

 博物館からの帰途、少し寄り道をして近くの神社の山門を覗いた。鳥居へと続く道は鬱蒼とした苔と緑に覆われ、鳥居から先の階段も、半分崩れて自然に還りつつある。この先にある社は“人のための場所”か、既に“人のためではない場所”に戻ったのか。見に行きたくなったが、階段途中からは建物は見えず、逃せないバスの時間も迫り、諦めざる負えなかった。朽ちた社には我々が祀った神がいるのだろうか、それとも神はそこにもともといたのか。もし社の神域に踏み入っていれば、戻れなかったかもしれないな、と今更思ったりする。

帰りの船は無事港を出、高速、の名前の通りあっという間に芝浦桟橋に着いた。浜で拾った貝殻を机に並べると、逆光でも無いのに顔の見えない悪魔はそれでもニヤッとして、“素敵じゃないか”と言った。

#みちをあるく #旅行記 #伊豆大島 #島旅 #エッセイ

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