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👵祖母、103年間お疲れ様でした - 大正、昭和、平成、令和を生きて -

2022年10月16日23時50分、おばあちゃんが亡くなりました。
103歳(享年105)、大往生です。

日中戦争へ行き片目を失った夫と、激動の時代を生き抜いたことと思います。

祖母には4人の子どもがいます。しかし、私の母(長女)も含め祖母をみていた長男も既に亡くなっていますので、ここ数年は延命治療の件も含め、孫を含めての話となっていました。

最後の挨拶

親族だけの告別式当日(10月19日)、式の始まる30分前に式場へ入ると、喪主(従兄弟)から、急に孫を代表して締めの挨拶するように頼まれました。あまりにも急でしたので、考えながらマイク片手にポツリポツリと語り、その中で覚えている内容を記します。

孫の中では一番の年長と言うことで、お婆ちゃんの思い出を少しお話しさせて頂きます。

私が50日の時から小学校2年生の夏休みまで、大阪市港区のアパートに住んでいたのですが、風呂はなく、トイレも炊事場も全て共同、部屋は4畳半一部屋。途中同じアパート内で6畳に引っ越すも、劣悪な環境に家族4人で住んでいました。お婆ちゃんは、そんな狭いところにわんぱく盛りの孫がいるのは可哀想と、電車でお爺ちゃんが大阪駅まで迎えに来て、夏のひと月ほど従兄弟と二人、母の実家である隠岐の知夫里島に泊まることになりました。そんなお婆ちゃんの気持ちも知らず、島では、大豆を乾かすために庭で広げていたゴザの上から全て土の上に撒いたり、母屋の外にトイレがあったので行くのが邪魔くさく「ここでオシッコをしたい」と言ったら、「そこでせぇ」と冗談で言われたのに本当に座敷でオシッコをしたりと、手に負えない悪さをし続けましたが、一度も私を怒ることはありませんでした。

お婆ちゃんは、私の母を15歳で産みました。母が私を産んだのが26歳ですので、私が生まれた時のお婆ちゃんは41歳と言うことになります。誕生日の関係で正確ではないのかも知れませんが、晩婚化の現代においては、私の母親と言っても良いぐらいの年齢でした。

お爺ちゃんが村役場を定年になってから、お婆ちゃんとお爺ちゃが隠岐を離れ寝屋川市や四條畷市に引っ越してからは良く遊びに行きました。会えば、まん丸笑顔で色々と話をしてくれました。内容は冗談や笑い話ばかりでしたが。

太っていることが健康の証と言い、たまに体重が落ちると体調が悪いとこぼしていましたので、顔も体も常にまん丸でした。私が中学の頃、会えば「痩せ過ぎ」と言われ、たまに一緒に食べる昼食が嫌で嫌で仕方がありませんでした。無理矢理食べさせられる量に抵抗しながら「痩せた方が長生きできるよ」それこそ何十回と嫌味を言いました。

でも、ちゃんとお婆ちゃんは証明してくれました。太っていれば103歳まで生きられることを。先週、○○(従兄弟)から電話があり、「お婆ちゃん、食事ができなくなったって病院から言われたけど・・・」そんな相談の電話を切った後に思い出したのが、今の話です。結局、食べられなくなって亡くなりました。これでこそお婆ちゃんです。お婆ちゃんの最後に相応しい亡くなり方です。

あの世に行きましたら、お爺ちゃん、○○のおっちゃん(お婆ちゃんの子供)、私の母(お婆ちゃんの子供)の4人で座布団を囲みながら、大好きな花札を楽しんでくれれば良いなと思います。
お婆ちゃん、長い間たくさん笑かしてくれて有難うございました。そして、お疲れ様でした。

仔牛のエピソード

祖父母の家に入ったところ
「祖母と私と牛」
(ひと月隠岐にいた時)

当時、祖母とツノを握っている仔牛をもらう約束しました。数年後「あの牛は?」って聞くと、「売った」と。
その通りなのでしょうが、もっと言い方は無かったのかな(笑)

祖父母の庭っからブロック越しに見た
「隠岐諸島 知夫里島 仁夫湾」

大阪に来てからも、元気な頃は暖かくなると数ヶ月単位で隠岐に帰っていた祖母。
ここから海を眺めていたのでしょうね。

コロナ禍で老人ホームへ会いに行くこともできず、亡くなる前に入院した病院も面会できず、結局、何年も会えないままでした。

安らかに。


以下は、祖母との思い出が詰まった記事です。


<了>

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