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【家族7人20日間のウズベキスタン🇺🇿旅行】 #4 ヒヴァ

4月26日から5月15日まで敢行したウズベキスタン旅行について全5回にまとめました。カザフ人の妻と子ども5人(長女9歳、次女7歳、長男5歳、次男2歳、三男7ヶ月)と共にウズベキスタンを約2,000km旅して得た様々な事象と心象を綴っています。

<旅の日程>
4月26日〜5月1日朝@タシケント
5月1日〜5日午前@サマルカンド
5月5日午後〜9日朝@ブハラ
9日夕〜12日夕@ヒヴァ
13日朝〜15日昼@タシケント

滞在都市と周辺地図

前回の記事はこちら↓

本記事は、「#4 ヒヴァ」として、5月9日夕方から5月12日夕方まで過ごしたヒヴァでの彼是についてまとめたものです。


キジル・クム砂漠とアムダリヤ川

ヒヴァへ移動する日、ブハラは朝から雨だった。滞在した4日間の日照りが嘘のように、空は灰色の雲に覆われ、強い雨が砂と埃にまみれた石畳の道を叩いていた。チェックアウトを済ませ、ホテルのママさんに感謝を伝えた。エージェントが手配してくれたタクシーまで、雨に打たれながら荷物と子どもを抱えて足早に向かった。

運転手は、昨日ヒヴァから別の旅行客を乗せブハラに来ていて、今日は復路になる。奥さんと娘夫婦とともにヒヴァで暮らしているという。タクシー歴は長く、カザフスタンやロシアまで運転することもあるそうだ。腕は確かなようで安心した。武骨な面構えの奥に優しい碧眼が光る。ロシアのタタールスタン共和国に嫁いでいるもう1人の娘を、国際結婚し異国の地で暮らす私の妻に重ねているのか、話し方や態度に親心のようなものを感じた。
ブハラ郊外を抜けるまでは法定速度に沿って走っていてタクシーも、周辺の農村地域を超え、砂漠地帯に入ると加速し時速130kmに達していた。カザフスタンでもそうだが、信号のない二車線の道路を走る場合、真ん中を走るのが正しい運転の仕方らしい。律儀に車線を守って安全運転する車をビュンビュン追い越していった。日本出国前、キルギス人の友人から「どんなタクシーでも、乗車前に必ず法定速度を守れと口酸っぱく言うんだよ。じゃないと、スピード出しすぎるから。」とアドバイスされていたことをすっかり失念していた。対向車線が離れていることに感謝するばかりだ。
一度、警察に停められた時はついに違反切符を切られるのかとヤキモキしたが、どうやら「少し休憩しなさい」という指示だったらしい。指示通り、10分ばかりパーキングエリアのような場所で休むことにした。運転手はヒヴァへの帰還が遅くなるため、乗り気ではなさそうだったが、警察ですら優しさを見せるこの国に感銘を受けた場面だった。

国道沿いのレストランのメニューに描かれる城壁
情緒を醸し出すレストランの壁面

ブハラからヒヴァへは半日かければ鉄道で行くこともできるが、現地の友人の勧めに従って今回はタクシーにした。子ども達に適度な休息を自由に取れるということもあるが、私には車でキジル・クム砂漠を横断し、アムダリヤ川をこの目で見たいという願望もあった。
「赤い砂」を意味するキジル・クム砂漠は面積29万8,000㎢、ウズベキスタンに潤いをもたらすシルダリヤ川とアムダリヤ川に挟まれ、国土の約2/3を占める巨大な砂漠だ。トルクメニスタンに横たわる「黒い砂」カラ・クム砂漠とともに、シルクロードを通じた交易と諸民族の興亡の歴史を記憶してきたキジル・クム砂漠。道すがら何か名所旧跡が見えるわけでもない。ラクダに乗った隊商に代わり、観光客を乗せた大型バスや輸送トラックを国道を行き交っている。砂漠に眠る金や天然ガスのためか、幾つもの工場が地平線の先に見え、パイプライン建設用の土管が道沿いに並べられていた。とはいえ、たとえ端の地域であっても、ラクダはいなくても、砂漠を横断することに冒険心が擽られた。

キジル・クム砂漠
国道に掲げられたアーチ。ここからホレズムが始まる

しばらく進むと、進行方向の左手に広がる砂漠の中に青と緑の帯が見えてきた。アムダリヤ川だ。アムダリヤ川の流れが、荒廃した砂漠地帯にどれほどの恵みをもたらしてきたのかは、川に沿って木々が茂り、灌漑によって街々で農業が営まれている様子を見れば明らかだった。ホレズム帝国の都は中世以前トルクメニスタンのクフナ・ウルゲンチにあったそうだが、アムダリヤ川の水系が変わったことで都が移され、政治・経済・宗教の中心地として栄えたのがヒヴァだという。今年はヒヴァのあるホレズム地方がウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に編入されて100年を迎える。1924年に中央アジアの民族分布を無視するかたちで断行された民族境界策定によって、現在のウズベキスタンの領土が決まり、ホレズムはアムダリヤ川を挟んでウズベキスタンとトルクメニスタンに分割され、国としての名前を失った。そこに住む人はいまだに誇りを感じているのだろうか。少なくともアムダリヤ川は国を分かたず、ホレズムの人々に恵みを与えてくれているように見えた。(*)

アムダリア川。その先にトルクメニスタンがある

栄枯盛衰の歴史を持つホレズムへの浪漫と懐古は、どこまでも続く茫漠たる砂漠の風景に飽きて暇を持て余した子ども達が車の中で戯れるのを咎めたり、仕舞いに始めた喧嘩を諌めたりするうちに、砂塵の中へ吹き飛んだ。子ども達が落ち着かない中、車はアムダリヤ川を渡河するための橋で行き交う対向車を待つために停車した。ようやく渡り始めるとやけに道がガタガタと揺れる。前方をよく見ると線路があった。列車の鉄橋を兼用していることに独り驚いた。

アムダリヤ川にかかる群青の鉄道橋

アムダリヤ川を渡河する前後から、道は目に見えて悪くなっていった。幹線道路でも歩車分離はなく、ところどころにアスファルトの剥がれや下水用マンホールによる窪みがあった。砂塵はますます濃くなっていく。街に入って程なく、タシケントのウズベキスタン歴史博物館で見た、マハッラーのゲートをいくつか通り過ぎた。農村地域の支援と教育促進のためにシステム化された町内会のような相互扶助組織だ。タシケントに戻った時、借りたアパートメントの区画にもマハッラーのゲートを見つけ、都市・地方問わず、全国的に組織されていることを知った。早く帰宅したい運転手のはやる気持ちが車速にも表れていたため、カメラに収めることができなかったことは残念である。道すがら、城砦遺跡であるカラジク・カラに寄ってほしいと頼んだが、それも叶わなかった。

農村地域の風景

(*後日、アムダリヤ川から毎年100億㎥を引水するクオシュ・テパ運河をアフガニスタンのタリバン政権が進めていることを知った。周辺地域の生活を揺るがす水利権問題だが、下流域にあるホレズムへの影響はどうなるだろうか。)


ヒヴァ駅

宿泊するアパートは2018年に開業したヒヴァ駅の東側にあった。ヒヴァの旧市街からも郊外の農村地域からも外れに位置するような場所で、食料品の調達に苦労した。部屋が1階にあること、大家が4人の子どもを持ち私たちに親身であったことが救いだった。
なお、到着した当初、ここまで獅子奮迅の活躍で、旅行会社や土産物屋、道ゆく人々との会話を引き受けてくれた妻は絶句していた。ロシア語が通じないからだ。タクシーを配車しようとした時のこと。ヒヴァに来て、初めてYandexが使えないことに気づいた。アパートのドアに貼られていたタクシー会社のチラシを見て電話をかけたら、電話口から聞きなれない言葉が聞こえてきた。妻がロシア語で話しても、あちらは別の言葉で返すというやり取りが何度か続き、とうとう電話を切った。別のタクシー会社にかけても同じやり取りがあり、とうとう私たちはヒヴァでタクシーに乗ることを諦めた。後々、旧市街付近では通じることがわかり安堵した。また、耳が慣れてきた妻は、現地人とのやり取りでウズベク語にカザフ語で返す芸当をやってのけたが、それでもロシア語が通じない衝撃は大きかったようだ。

薄暮のヒヴァ
水槽に入った淡水魚。他都市と違う一面だ

約9万人が住むヒヴァに来て、ウズベキスタン人口の約44%(約1250万人)が1日2ドル未満で生活する貧困層にあることを実感した(2012年のデータ)。アパートの近くのキオスクに並ぶ商品は品揃えも今ひとつな上、砂と埃で汚れ、紙パックのジュースは角を凹ませていた。果物や野菜はお世辞にも新鮮とは言えなかった。流通網の整備が遅れているように感じられる一面だった。
ヒヴァ駅の西側は再開発され、特に駅から東門まで続く目抜き通りにはアラベスク模様とレンガ作りの建物が並び、ホテルもいくつかあった。一方で、テナントに入る小売店は少なく、小さなキオスクやレストランがいくつか入る程度だった。通りの脇にある住宅は泥の壁とトタン屋根でできており、再開発に取り残された街の影があった。通りでおもちゃやひまわりの種を売る女性の身なりも他の街に比べてボロが目立ち、何より気力が感じられない。砂まじりの乾いた風や強い日差しだけが理由とは思えなかった。
1990年にウズベキスタンで初めて世界遺産に登録されたイチャン・カラという観光資源を持つにも関わらず、かつてヒヴァ・ハン国があり地域の要衝として享受した繁栄は砂に埋もれたかのように感じられない。ホレズム州の州都はヒヴァから北東約35kmに位置するウルゲンチに置かれていることも関係しているのだろうか。
旅人の安直な憂いとは裏腹に、子ども達が元気だったのは何よりだった。週末のイチャン・カラや目抜き通りの北側にある遊園地には、エクスカーションで訪れた若いエネルギーに溢れていた。私たちの容姿や日本語での会話を敏く見分け、ウズベク語で声をかけてきたり、子ども達と写真を撮っていいかと尋ねてくることもあった。無垢な少年少女たちは、この辺境の地でどんな人生を歩んでいくのだろうか。

遊園地の門構え
週末は大賑わい。娘達は高校生に混じってアトラクションを楽しんだ。
おやつ代わりになるひまわりの種(なんで上にタバコ置くねん)


聖都イチャン・カラ

ヒヴァの観光地は、イチャン・カラがメインとなる。ヒヴァの旧市街は二重の城壁で囲まれており、1842年に築かれた外側の城壁をデシャン・カラ、20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットなどの史跡が残る内側の城壁をイチャン・カラと呼ぶ。イチャン・カラは、高さが8〜10m、厚さ約6m、周囲約2250mの城壁で囲まれた一つの町であり、現在では観光と生活が混在している。
イチャン・カラ内への入場は無料だが、カラ内のモスクやメドレセ、博物館に入るには20万スム共通券を購入する必要がある。またミナレットや城壁の上を歩くには共通券に加え、各2万スム支払わなければならない。タシケントからヒヴァまで1,000km、私たちがウズベキスタンに入国して既に2週間が過ぎていた。連日10km近く歩き回り親子共々疲労困憊の色は隠せず、身も蓋もない話だがモスクやメドレセはどれを見ても同じに感じられ、メドレセの中庭に広がる土産物屋の光景にだんだん辟易し始めていた。博物館都市と言われるヒヴァだから歩くだけでも充分観光を楽しめるはず、そう考えて私達は共通券を購入せず、イチャン・カラとその周辺を見て回ることに決めた。

手前から順に、未完に終わったカルタ・ミノル、ジュマ・モスクのミナレット、東門前にあるアブダール・ボボ廟のミナレットが見える。
公衆浴場跡地は子どもの遊び場だ
自己主張の強いマンホール
ネコ、ネコ、ネコのスザニ
イスラーム・ホジャ・メドレセのミナレット
パフラヴァン・マフムド廟のドーム
オタ・ダルヴァザ門(西門)
木柱の彫刻が美しいジュマ・モスク
七宝タイルの土産。リボンのような形が、後述するいわく付きの彩釉タイル


ゾロアスター教の紋章?

ある土産物屋に入った時だ。十字架のようなリボンのようなデザインのタイルが目に入った。イチャン・カラの城壁やモスクに埋められているものと同じ形だ。店主に聞くと「これはゾロアスター教の紋章だ」という。まじ?ヒヴァにゾロアスター教が伝わっているの?と興味津々になった。しかし、すぐ冷静になった。城壁はともかく、モスクやメドレセの入口まで、このタイルは埋め込まれている。ゾロアスター教とイスラム教がどう繋がっているのかもわからない。そもそもゾロアスター教の紋章は、翼を広げた鷲に守護霊フワラシが描かれたもので、このタイルのように抽象化された紋章ではない。店主に追求するが、関わりは知らないという。色も幾つかあるが、最も昔から使われているのは緑色で300年前のもの、その後100年ごとに青色や水色と使われる色が変わり、現在では様々な色が使われるようになったという。・・・だんだん信憑性がなくなってきた。
これ以上聞いても仕方がないので、緑色のタイルの磁石と皿を2枚購入することにした。金額は14万スム。そこから値引き交渉が始まった。妻がカザフ語、店主がウズベク語という構図で交渉は繰り広げられた。同じテュルク系とはいえ異なる言語のはずだが、同じ言語で話しているようにしか聞こえない。どうして通じているのか不思議で仕方がない。妻が12万と言えば、店主は13万と返す。5分以上続いた交渉中、店主は1万スム以上まけるつもりはなく、頑なにこちらの提示金額を拒み続けた。とうとう妻は根負けした。私にとっては、なかなか白熱した掛け合いであり、もはや支払額はどちらでも良く、やり取りを動画に収めたことに満足した。
商品を受け取りながらもう一度「本当にゾロアスター教の紋章なの?」と聞くと、見向きもせず「そうだ」と答える。店を出る時、初めて表札を見た。表札には“Alibaba and 40th thieves in khiva”の文字が刻まれていた。やはり胡散臭い。

後にも先にも、店名を掲げる店はここだけだった気がする
素焼き人形が気になる長男


自分の夢に生きる他人

イチャン・カラで1人の旅人と話した。自転車を引いているのが気になり、声をかけてみたのだ。イギリス人の男性で、歳は40代半ばぐらいに見えた。IT企業でエンジニアとして働き、東京でも数年働いたことがあるらしい。現在は物理と化学をオンラインで教えているという。夫人をロンドンに残しての一人旅。ロンドンから自転車で来たのかと尋ねると、「イスタンブールからだよ」と笑いながら答えた。
旅路はこうだ。イスタンブールを出てトルコを横断し、山岳地帯を越えてコーカサスの3カ国、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンを歴訪。アゼルバイジャンのバクーからカザフスタンのアクタウまで再び飛行機に乗り、アラル海を西から南へ巻くように進み、ヌクスとウルゲンチを経て、今ヒヴァに到着したのだ。2ヶ月近い旅だった。このあとは、私たちとは逆ルートで、ブハラ、サマルカンドを巡り、さらにタジキスタンからキルギスに連なる天山回廊を越え、ビシュケクからアルマトゥイを経て中国の西域を通って上海を目指す。上海に到着するのはさらに5ヶ月後を予定しているそうだ。「この旅を気に入っているかどうかはまだ決めかねているよ」と言いつつ、ここまでの旅に充実感を得ている様子だった。
彼と別れた後、何とも言えない悔しさに唇を噛んだ。彼が自転車で通り、これから向かおうとするルートは、逆方向ではあるがいつか旅をしたいと考えていたからだ。自分が仄かに描いた夢を現実に実現しようとしている他人がいることに遣る瀬無い思いを抱いた。今回の旅も、誰かの夢なのだろうか。

実のところ、満を持してウズベキスタンにやってきたものの、事あるごとに「誰かの旅を追体験しているにすぎないのではないか」という雑念に懊悩していた。ウズベキスタンは、世界中から1千万人もの観光客(内、日本人は24,000人)が訪れる観光立国であり、事前に調べればありとあらゆる情報を手に入れることができる国だ。写真や動画に至っては、自分が撮影したものより、インフルエンサーをはじめ他の旅行者の写真の方がはるかに見栄えが良く、詳細も確認できる。他人と同じ景色に触れ、知識を得ることにどんな意味があるのだろうか・・
また、訪れる観光客は大人や年配者が大半で、子連れはほぼ見かけない。メドレセや博物館では、展示品よりあちこちいったり触ったりする子どもの方に目が行き、もはや「後でWikipediaを見たらいいや」と本末転倒な諦念すら抱いていた。
感性が鈍くなり遠慮が行動を妨げる中年男性が子連れで訪れる国ではなく、決断が10年遅かったのだ・・・

余計な考えが頭を過り表情が暗くなった時、

「大丈夫、あなたにもできるから」

と妻が横で笑いながら言った。

人の心に刻まれるキャラバン


朝の御霊験

ヒヴァ最終日の朝、妻や子ども達が微睡む中、私は1人でイチャン・カラへ向かった。長旅と酷暑による疲労にため、日中の観光に満足がいかなかったからだ。タシュ・ダルヴァザ門(南門)やイチャン・カラ南部の史跡はまだ拝めてもいない。ゾロアスター教の紋章の謎も解明したい。もう一度史跡を写真に収めたい。しかし、今日は子ども達にリフレッシュしてもらうため、駅前の遊園地に行く約束をしている。行くなら今、この朝しかない。妻に声をかけ、2時間で戻る約束をして部屋を出た。
アパートからヒヴァ駅を越え、足早にパルヴァン・ダルヴァザ(東門)へ向かった。空には雲ひとつなく快晴。既に日は昇り、風は生暖かい。汗をかくほどではないが、歩くにつれ身体の火照りを感じた。とはいえ、昼間の熱気に比べれば歩きやすいことこの上なかった。

パルヴァン・ダルヴァザ門

イチャン・カラの建築は奴隷が担っていた。現在のイチャン・カラは18世紀から19世紀にかけて修復を行なわれたものだが、ヒヴァでは奴隷の売買が行われていた。奴隷には周辺国だけでなくロシアの出身者もおり、その保護が1876年にロシア帝国に侵略される口実となったという。奴隷市場が開かれていたのが東門だったそうだ。門前の広場は、今では観光客の写真スポットになっている。
東門から南門まで、城壁に沿って歩いた。南門の先にはデシャン・カラがあり、さらに足を伸ばした。カラ・クム砂漠への出入口とされる南門だが、現在では門の先に農地が広がり、マハッラーのアーチを構えた緑豊かな村があった。往時、門を潜って荒涼とした砂漠を目の前にした隊商は何を思ったのだろうか。

城壁に棺が並ぶタシュ・ダルヴァザ門
南のデシャン・カラから見るタシュ・ダルヴァザ門

南門をくぐり、これまで歩けなかったイチャン・カラの南部を徘徊する。史跡の写真を撮っていると、住民が訝しげにこちらを見ている。観光には早い時間らしい。生活がすぐそばにあるのが何とも面白い。

名もわからぬメドレセ

徘徊するうちに、イチャン・カラで最大のドームを持つ、パフラヴァン・マフムード廟に辿り着いた。外観をもう一度カメラに収めようと外壁沿いに歩いていると門が開いている。引き込まれるように廟内に入った。見事な彫刻が施された木戸に手を触れながら、暗がりの先にある中庭に抜けた。伝統装飾の木柱のテラスがあり、石畳の回廊の右手に身を清める水場があった。口に含むとほのかに塩辛い。
回廊の先に廟があり、入口にいくつも靴が置かれていた。信者が朝の礼拝に来ていたのだ。躊躇せず中に入った。左右に椅子が置かれ、右手の椅子には信者が座りイマームを囲んで話し込んでいた。気配を消そうとすり足で左手の椅子に座った。正面にムハンマド・ラヒム・ハンの棺がある。仄かな照明に揺れている。新橋色のタイルに施されたアラベスク模様は息をのむ美しさがあった。光は壁に沿って伸び、その先に目をやると柘榴と思われる模様に覆われた天蓋が広がっていた。すっかり見入っていると、ふと話し声が止むのに気づいた。どうしたのだろうと右手に目線を向けた刹那、静寂を破るようにイマームが祈りの言葉を唱え始めた。掠れた声で、しかし朗々とイマームは詠う。廟内に木霊する荘厳な響きにしばし耳を傾けた。

パフラヴァン・マフムード廟
パフラヴァン・マフムード廟のファサード
廟内は静寂に包まれていた

祈りの後、礼拝に訪れる人も増えてきたため、左奥に眠るパフラヴァン・マフムードの棺は拝むことなく廟を出た。中庭を通り門を出ようとした時、初めて改札ゲートの存在に気づいた。とぼけていたわけではない。イチャン・カラの共通券にはQRコードが印刷され、観光客はチケットをかざしゲートを開けて入館するが、来た時はゲートのバーが降りていて目にも入らなかったのだ。そういえば係員もいない。

「もしかして、いけないことをしたのかな・・・」

そんな反省の念は次の邪念によって掻き消された。

「係員が来る前なら、史跡の内部を拝めるかも!?」

もはや妻と5人の子どもを養う責任ある大人の思考ではなかった。私は狡猾な牙を剥き出しにし、拝観できたらと思っていたもう一つの史跡、クフナ・アルクに向かって走り出した。クフナ・アルクは歴代のハンが執政を行った宮殿跡であり、監獄や造幣局に関する展示もある博物館でもある。写真で見た中庭にあるアイヴァンの壁面は見事であり、一見の価値がある。気になったもう一つの理由は、ガイドブックに載っていたアイヴァンの壁面に六芒星が描かれていたからだ。私が観光した限り、幾何学模様で六芒星を描いていたのは、ブハラのウルグベク・モスクだけ。イスラムとユダヤの繋がりを表象していたら面白いなと妄想を膨らませていたのだ。今になって顧みるとなりふり構わぬ自分に呆れるばかりだが、その時は一目見たい一心で向かっていた。

クフナ・アルク

果たしてクフナ・アルクにつくと、錠が外れ今にも扉が開こうとしていた。まずい、すでに人がいる。やはり無理か。中に入ると、案の定チケットを見せなさいと係員の女性に止められた。どう答えたものか、普段は妻を苛立たせるだけの緩慢な頭をフル回転させた。

「・・ええっと、部屋に忘れちゃって」

もっとマシな答えはなかったのか。女性の怪訝な表情は消えない。畳み掛けるしかない。

「お願いです、写真だけでも撮らせてもらえませんか?」

思い切って話してみると、こちらの腹の内を知ってか口元を緩ませながら、入りなと首をクイっと振った。ほんとに?思考が現実化した。写真だけだよと女性に念を押され、中に入った。クフナ・アルク内部を駆け巡り、目に入るものをカメラに納めていった。監獄に関する展示は拝見できなかったが、監獄跡を見学し、造幣局に関する展示を読み、当時の貨幣を撮影した。アイヴァンの装飾はこれまで拝見したどのタイルより繊細だった。ただただ見惚れ、因縁はわからないままだったが目当ての六芒星を拝むこともできた。

クフナ・アルクのアイヴァン
アイヴァンに刻まれた六芒星
古代ホレズム帝国の貨幣

クフナ・アルクを出ると、さらに欲が膨らみ、ジュバ・モスクにも入りたいと足を向けた。前日に、改札ゲートの脇から院内の光景はカメラに納めていたが、一本一本彫刻が異なるという木柱をじっくり見たり、この手で触れたりしたかったのだ。231本の木柱が並ぶ院内に入ろうとすると、中庭に座っていた係員の女性が「チケットは?」と語気強めに叫んできた。「忘れちゃって・・」と弱気に答えると「出て行きなさい」と至極真っ当な答えが飛んできた。仏の・・いやアッラーのご加護も三度までということか。

朝日に輝くジュマ・モスクのミナレット

ゾロアスター教の紋章については、最後まで謎が解けなかった。クフナ・アルクの女性に去り際に質問しても「知らない」と言われた。土産物を売る女性に声をかけたらロシア語が通じなかった。日本人かと声をかけてきた観光用ラクダのオヤジに聞くと、「ああ、あれは単なるデコレーションだよ」と素っ気のない回答。もはやこれまでかと諦めていたが、オタ・ダルヴァサ門にある土産物屋のおにいさんがこんな答えをくれた。

「あれは“目”だよ。魔除けのお守りだ。だから、城壁や史跡の門に嵌められ、街の至る所にあるんだよ。」

なるほど、合点がいく話だ。トルコ土産で見かけるナボール・ボンジュウと同じく邪視を祓っているのか。テュルク系民族だから共通の迷信を信じているのか。言われてみれば、目に見え・・・いや、目には見えないんだけど・・・。話を聞いた刹那の感動は、またしても疑問の渦に消えていった。

妻との約束通り、2時間でアパートの部屋に戻ると、朝食を終えた子ども達がテレビを見て寛いでいた。

「お帰りなさい」

荷物の整理をしていた妻が迎えてくれた。

霊験灼かなイチャン・カラの観光は素焼き人形を買って締め括った



「#5 再びタシケント」に続きます。


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