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着物きるきるくるりくる

 着物──文字通りには「着る物」なので、衣服全般を指しても良さそうなものであるが、現代日本語では和服を意味する。一方、「服」は基本的に洋服を指し、「和服」と言わないと和服を意味しない(妙な言い方だ)。「電話」も携帯電話やスマホの普及により、「家電」という新しい語が定着してしまった。ありていにいえば、時代の流れである。

 マイ・ホームタウン岡山県は、制服の生産量日本一である。トンボやカンコーといった大手制服メーカーも岡山に本社を構えているのだ。私自身、小中高とすべて制服であった。テレビドラマで小学生が私服でランドセルを背負っている姿は、瀬戸内海で戯れるシーラカンスぐらい非現実的であった。よく学校のディベートの練習で、「学校は制服が良いか私服が良いか」というのが議題になることがあるが、岡山においてこのテーマは一種のタブーである。たとえ仮想であったとしても、もし私服派がマジョリティとなってしまったら、郷里の主要産業が脅かされることになるからだ。

 小学校の男子の制服は半ズボンで、長ズボンはなかった。雪が降っても全員半ズボンである。子供は風の子というが、六年間凍てつく冬でも半ズボンで過ごしたのだから、あながち間違っていないのかもしれない。高学年になると、そのむき出しの太ももにビンタを浴びせるという、なんとも暴力的な遊びが流行した。恐ろしいことだ。うまくヒットすると、白き銀世界に手形の紅葉もみじがよく映えたものだ。なぜか「パセリーゼ」と呼ばれていたその平手打ちは、良い子も良い大人も決して真似してはならない。

 中学は学ランで、高校はブレザーであった。というより、ブレザーの高校を選んだのだ。「貴校を志望した理由は制服がブレザーだからです。学ラン、飽きちゃって」なんて志望理由書に書けないので、その辺りはテキトーにまとめて受験に臨んだ。だいたい、きっかけとか動機付けとか、大して重要ではない。バンプも歌っているではないか、「目標なんか無くていいさ、気付けば後からついてくる」と。

 そんな制服に縛られた青春時代に、個性を発揮できる数少ないところがスニーカーであった。中学は校則が厳しく、白を基調としたスニーカーしか許されなかった。たいてい皆ナイキのエアフォースを履いていたが、私はアディダスのスタンスミスを愛用していた。不良は校則で禁止されているハイカットのエアフォースを履いていた。不良以外が履いていたら狩られてしまうので、ハイカットは高校までおあずけであった。

 ファッションとは、なりたい自分を表現するのと同時に、他人に見られたい自分を表現することである。いわば自己と他者の境界にファッションはある。ものすごく深いことを言い出しそうな雰囲気を醸し出したところで、今回はおしまい。

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