捻出の神秘(言語論)

第92話

「言語化」という単語があります。

「言語化」とはその名の通り「言葉にすること」ですが、
では"何を"言葉にするのかというと、
その人が持っている「感覚」や「イメージ」とかになるわけです。

私たちはイメージをイメージのまま共有することは実質的には不可能です。

(↑この回でもちょっと触れてますね。)

つまり私たちは、他人の「言語化前のもの」を受け取ることはできないんです。
言語論的立場では言葉によって世界が文節されて認識されますし、
理性中心な近代のわれわれは、理性=ロゴス=言葉ということからも
そのことが分かります。


ちょ、今回評論文書こうとしてる?

なんかいかにもなワードが出てますけど。

今日私は塾で現代文の特訓講習を受けてきましたんで、
そういうテンションなんです。

続けますね。


「言語化前のもの」は理性では認識できない。
しかしどうやら"ある"らしい。
そのため、「言語化前のもの」は神秘的であり、
「あるらしいもの」(無)から「確かにあるもの」(有)に変える
言語化という作業そのものも、神秘的であると言えます。

言葉に限ったことではありません。
音楽や芸術、ダンスなども、
無から有への神秘的な捻出を経て、この世に存在しているのです。


「無から有への神秘的な捻出」に傍線引かれて問題出されそうw
嫌だなぁ〜。

いや、私、別に教科の現代文は苦手ではないですよ?
少なくとも数学よりは得意です。

現代文の、特に記号問題が得意です。
記述は時間をかければできます。
抜き出しは苦手です。
苦手な原因は明確で、文章の内容はわかるんですけど、
本文に線を引いたり四角で囲ったりとかはあまりしないので、
どこに書いてあったかわからないんですよねー。

また、記号問題であっても、
何故それを選んだかを訊かれると答えられないんですよね。
じゃあ勘だったのかと言われると、そうじゃないんです。
分かってるんです。私の中では。


ここで、「言語」という単語の意味を広く取ってみましょう。

(うわ。)

私たち一人一人は、
自分の感覚を完璧に説明できる"言語"を持っているとします。
ここでは〈私言語しげんご〉と呼ぶことにします。

例えば、私の母語は日本語ではありません。
私の母語は私言語であって、
日本語は私の私言語から一番"翻訳"しやすい言語なんです。
この"翻訳"は、一般的には「言語化」・「捻出」にあたります。

私は、私言語によって現代文は理解できているんです。
ただ日本語への"翻訳"が時間がかかるので、記述問題が遅い。
対して、記号問題は私言語で出ている答えと照らし合わせるだけでいいので
楽なんです。

あとは抜き出し問題なんですけど、
本文に書き込みができる人は、線や四角や矢印といった"言語"と
近い私言語を持っているんだろうなーって思います。
私は遠いんですよ、多分。
少なくともその"翻訳"が慣れてないんです。


というわけで、
私は現代文が解っているんです。
実際、記号問題の正答率はいいですし。
けれどその記号を選んだ理由が答えられないんです。
日本語のような共有言語で考えてはいないので。

答えられない場合、「あなたは解っていない」とされてしまいます。
人間は言語によって物事を理解するという言語論に基づいているのでしょうね。

あくまでその論に則ったまんま、自分の言い分を通したかったので、
言語の意味を広く取ってみたのです。

それでも私の記号選択理由が勘だとされてしまうなら、
私はいっそ、勘を鍛えたいと思います。

点を取ればいいんでしょ?


以上です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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