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盛大な老婆心。誰かの“得”になりますようにと願いながら。

学生時代のクラスメイト夫婦が富山市に住んでいる。
元日の能登半島地震を受けて、LINEの同級生グループにはみんなが続々と心配するメッセージを送っていた。私は妻のほうと仲がいいので個人アカウントに連絡して、彼らはそれほど被害を受けなかったとわかった。

富山出身の夫のほうは報道職で、発災してすぐ緊急出動したそう。沈黙を保っていた彼が、2週間が経った週末の夜中、初めてLINEグループに次のような投稿をした。

・報道の現場では、甚大な被害を受けた石川県に人員を割いたため富山のマンパワーが不足し余裕がなかった。ようやく人員が確保でき週末に休めて投稿できた。
・能登ほどではないが、富山も小さくない被害を受けた。特に氷見市は断水が続き、家屋の被害も大きい。
・県の西のほうの自分の実家(氷見市ではない)も、外からはわからないけれど、内壁が剥がれ落ち外気を受けて室内も寒い。開かない扉があったりして家が歪んだようだ。このくらいの軽微な被害は数えきれないはず。
・被害の大きい能登のことを考えると、元の暮らしに戻るには何年もかかる。北陸に目を向け続けてほしい。

(2024年1月14日)

報道の現場にいるプロだけあって、過不足なく、事実が端的にわかりやすくまとまり、過度な個人的感情は排除された「伝わる」文章だった。

その後、妻に連絡をとってわかったことには、彼があのよく練られた文章を投稿したのには理由があった。
このクラスを包括する同窓生のグループに、「富山に仕事で行ったけれど、富山は全然被害がありませんでした」と発信した人がいたのだそうだ。
報道マンとして各地の被害状況を把握して、本当にほぼ被害がなかった自分たちの状況と比較もでき、また実家が受けた被害で外観から推し量れない家屋のダメージについても知っていた彼には、見過ごせない誤解を生む投稿だった。
それで、「せめて同期には実情を知ってほしい」と、一生懸命考えて書いていたという。すごいと感心したあの文章は、渾身の“原稿”だったわけだ。

「富山は心配に及ばない」という風評が広がってサポートが止まったら、大小さまざまな被害を受けている富山の方たちの大きな不利益だ。間違った情報を信じてしまうのは、サポートを考えているような被災地外の人たちの利益とも思えない。

「富山は大丈夫ですよ」と発信した人は、何のためにそんなことしたのだろう? ――「自分は被災地を見た!」という特権意識のようなものと、「みんながアクセスしづらいレアな情報を教えてあげよう」という親切心や使命感が合わさった感じだろうか。
だけど、ちょっと近くで「見た」からといって、実情をよく調べずに発信するのは無責任だ。発信者は一時の注目を集めてうれしいかもしれないけれど、だからといってその人の価値が上がるわけでもない。
この情報、誰も得しない。


がんに関する情報発信にも同じようなことが言えるのではないだろうか。

たとえば。
いまは見なくなったけれど、ひと昔前によく週刊誌などにあった言葉、『がん激痩せ』。
「がんになっちゃったあの人を目撃したよ。こんなに痩せちゃってたよ。がりがりだよ。がんって怖いね~。かわいそうだね~。がんになりたくないね~」。そんな書き手の下品な思惑を感じて、「誰得!?」といつも嫌な気持ちにさせられていた。

「なかなか見られないものを見た」特権意識丸出しで、人間の野次馬根性と怖いもの見たさの心理を刺激する、いたずらにセンセーショナルな見出し。姿をさらされた方にとっても、がんへの不安を植え付けられた受け手にとっても、何もメリットはない。受け手にはむしろ、がんを恐れて目を背けさせる作用のほうが強かったのではないだろうか。私がそうだった気がする。
不利益でしかない無責任な情報の代表だと思う。


「がんが自然に治った!」「奇跡の治療」。そんな発信や書籍も数多く目にする。
がんの当事者ならみんな、ちょっと心が惹かれてしまうと思う。惹かれなくとも、「自然に治ったらいいよね?」と聞いたら全員が「そりゃそうだ」と言うはず。
発信者にとっては真実なのだと思う。ただ、そうはいっても、奇跡はほとんど起きないからこそ奇跡。これを受けて治療をやめた「奇跡が起こらない側」の人、つまりほとんどの人は、病気の進行という結果に終わるだろう。
「がんは自然に治る」という発信は、無責任ということになると思う。これも得する人はあまりいそうにない。

また、著名人が標準治療や先進医療についての説明なく「先進医療で治った」とだけ発信するのも、偏った情報になってしまうと思う。つい最近、先進医療後の重い副作用への加療が必要になっている方のSNSに出合って、その思いを新たにした。

たばこのパッケージには、喫煙の健康リスクについて注意文言の表示が義務付けされている。それと同じように、がんの治療にかかわる内容の書籍の最後にも、「標準治療」の意味と、そのときのがんの標準治療への情報アクセスを表示することを義務化したほうがよいのではないかと、真剣に考えている。


危うさを感じてしまう著名人の病気経験に関する発信はほかにもある。
勇気をもって自身の経験を明かし、たくさんの人にがんについて啓発しようという志には共感する。さすが、著名になるくらいの方たちはバイタリティにあふれ、前向きなのだろう。力強いメッセージだ。

「でも」、と疑り深い私は思うのだ。実際のところは、イメージを悪くしないために、前向きな「部分」の発信という人も少なからずいるのではないだろうか。
もちろん受けた治療の詳細は個人情報。秘密を守っていいし、治療中の苦痛や感情をつまびらかにレポートする必要はない。

だけど、治療中にはいろいろあったと思うのだ。手術後の痛みや想像を超えたダメージ、化学療法のさまざまな副作用、残った後遺症のあれこれ。そのあたりのことをごっそり割愛したダイジェストになっている気がする。

詳しくレポートしていても、痛みや苦痛の感じ方の個人差は大きい。痛みに強い人にとっては痛くない治療も、痛みに弱い人には痛い治療になる。
私と近いがん種で同じような治療を受けた方のブログなどを読んで、「この方、ものすごく痛みや苦痛に強い(あるいは鈍感な)人なのではないかな?」と感じることがある。私には苦痛だったことが、大変ではないように読めるのだ。

「〇〇がんと前向きに闘ってきましたよ。こんな治療を受けて今は元気です。がんは怖くありません!」のようなライトな発信は、「〇〇がんができても、簡単な治療で元通りに治せるから特に大変ではない。それほど心配する必要のない病気」と受け取られる可能性もある。
「がんなんてたいしたことない」「がんにはそれほど注意しなくても大丈夫」というメッセージで伝わったら、逆効果だ。

かといって、悲劇の主人公になって苦痛ばかりを強調してしまい「がん=恐ろしいもの」と刷り込むことも、悪い影響しかないと思う。

ポジティブな心持ちとネガティブな出来事や心理、そのどちらかを強調せずに、病気経験を「事実」として表現している方を見かけると、すごいなぁと尊敬する。そんな発信を目にすると「あの方にも同じようなことがあったんだ」と病気経験者の私は孤独感を和らげてもらい、病気を経験していない人たちにも注意喚起をうながす適切な情報になるだろうと、勝手にほっとする。


私が発信をするのは、「がんになっても生き残ればOK、ハッピーエンド」と思っている人が多いような気がしたから。自分がそんなふうに誤解していたから。
私が生き残るための治療は、吐いたり便秘したり下痢したり頭から毛が抜けたり鼻から入れた管から1カ月くらい濁った液体が出てきたり唾液がなくなって歯が黒くなったり、文字通りきれいごとではなく、心身に大きな痛手を負った。
そして幸運にも治癒しているけれど、残る後遺症や副作用に苦痛にまだ翻弄されて病気以前のように自由な気持ちになれていない。

治癒できても以前と同じに戻れない場合もあることは、知っておくといいと思うのです。
病気のリスクを減らせるなら減らしたほうがいいと思うのです。後遺症や副作用が出ない程度の治療で治せる段階で、病気を見つけられるほうがいいと思うのです。

盛大な老婆心。誰かの“得”になりますようにと願いながら。

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