序 楊範・鄭令蔓伝
序 楊範・鄭令蔓伝
楊範は九原の人である。字は獅猴。幼いときに一家を略奪者によって失い、その後龍法戦士の一門に引き取られ、竜門山にて修行をつんだ。その才能を師である霊元道人に認められ、龍法戦士の技を若くして収めた。霊元道人については伝がある。
楊範は中原塞外の人でも珍しく、金髪碧眼であった。身の丈は七尺で筋骨たくましく、不思議なことに頬に堅い髭が生えていた。額には塞外の人の風習で奇妙な刺青を施していた。このため彼は龍三眼[i]とあだ名された。
少年のころから武術にすぐれ、また仁義に厚かった。当時、共工氏の末年で、法は極めて煩雑となり、微罪で奴卑となったり、重い税金や兵役に耐えかねて流民となるものも多かった。また鉄鎖[ii]のような奴隷商人が大守や宦官に賄いして幅を利かせていた。
十五歳のとき、楊範は霊元道人の使いの途中、鉄鎖の奴隷狩りから逃れた少女を救った。実はその少女は上郡大守のもとへ献上されるはずの美女であった。すぐにその事は鉄鎖の知れるところとなり、二人は追われることとなった。
楊範は少女を守り、竜門山へと向かった。道中、鉄鎖の刺客と何度も渡り合ったが一度も敗れることなく、少女を守りきった。最後に鉄鎖の兵が彼らを包囲したが、事態を悟った霊元道人の助けで無事竜門山へと戻ることができた。この事件で霊元道人は既に楊範の腕が達人の域に達していることを知り、彼に竜門山の師範代の仕事を任せたのである。
楊範は十六歳のときに初めて天覧武闘会[iii]に参加し、なみいる強豪を倒して優勝した。これは有虞氏の時代から続く天覧武闘会でも初めてのことだった。時の天子は帝陵であったが、これを驚き約束どおり楊範に武礼撫[iv]の号を与えるとともに、大都紫陽宮に招き、参議[v]として神策軍[vi]の指揮を任せた。
帝陵は当時未だ即位してまもなく、政治は主に宰相員不外より令されていた。このため皇帝は自分の腹心を必要としたのである。しかし楊範自身は政治に興味はなく、帝陵の信任をうけながらもただ神策軍の訓練にのみいそしんでいた。宮廷では後ろだてのない楊範は員不外らに冷遇された。彼の友といっても良いのは同じ塞外出身である衛将軍の馬弓だけであった。馬弓は不慣れな生活といわれない中傷に傷つく楊範を影ながら支え、しばしば彼のもとを訪れ酒を組み交わした。
ある時馬弓が楊範の郊外の家を訪れると、楊範は庭で酒を飲みながら一人で空を見つめていた。声をかけるのがためらわれた馬弓は、そのまま桃の木の陰から楊範の様子を見ていた。すると楊範は詩を口ずさんだ。いわく
鷹は空を飛び、船は水を行く
歳月は雲のように流れて行く
雲はあのように故郷の上へと流れて行くというのに
翼のない鷹のように自分はそれを眺めるだけ
馬弓に気付いた楊範は気恥ずかしそうに笑った。その青い目を見て馬弓は涙ぐんだ。馬弓には楊範が囚われの鳥が森を恋しがっているかのように見えたのである。
楊範の館から帰る途中で馬弓は従者に言った。
「わしは龍三眼が野に生ける野生の生き物であることが良く判った。野生の鳥を篭に閉じこめておけば死ぬか、逃げ出すしかない。」
* * *
三年に員不外が死去すると、帝陵は聴政をはじめた。しかし陵は開明国[i]への遠征や大極宮の造営、運河の開削などを始めたため、その負担に氏族は耐えられなかった。さらに宦官趙威韻と左道士巫凱の登用、そして趙威韻と対立した員氏の族滅でにわかに皇室の回りは不穏になった。実は左道士である巫凱は伽難国[ii]の将軍であった。
激しくなった政争の中、楊範はこれ以上都にとどまることは耐えられそうに無かった。神策軍の将という立場である以上、いずれかの派閥に加わらなければならなくなることは明らかだったが、彼にはその考えは無かったからである。しかしこのままでは無実の罪を受けて投獄されることになりかねなかった。
既に大将軍となっていた馬弓は楊範の苦悩をみかねて、彼に密かに書を送った。
「君はもともと宮廷人ではない。空を飛ぶ龍なのだ。だから都と言う名の籠にいれば、いずれ朽ち果ててしまうだろう。そうなる前にここを出るべきだ。私はここに残って君が無事に去れるように図ろう。
君とともに酌み交わした酒と、共に船上で吟じた詩を忘れない。再び相まみえる日を心待ちにしている。」
馬弓は帝陵に楊範の参議辞職を認めるよう奏上した。楊範を快く思っていない趙偉韻もこれに同調し、彼は無事に職を辞して野に下ることができた。とはいうものの武礼撫の爵に定められているように、楊範は国外にでることは許されず、わずかな年金を与えられて中原の内側で暮らすこととなった。しかしようやく抗争の外へと逃れ出た楊範は竜門山の傍の小さな屋敷を手に入れ、そこで拳法の修行三昧をおくることとなった。
* * *
軒轅氏を中心とする豪族の連合軍と王朝軍、そして伽難国に後押しされた祝融氏の三つ巴の乱が起きると、楊範の住む竜門郡も戦火に巻きこまれることとなった。楊範は帝陵の召し出しに応じず、近所の人々とともに竜門山に逃れた。一軍の将たる技量は十分に持ちあわしていたが、王朝に戻る気にもなれず、かといって反乱側に身を投じる理由もなかったからである。彼は野盗や、時には政府軍・豪族の略奪から竜門山をまもってしばしば活動した。
乱は次第にはげしくなり、祝融氏が勢力を増すと元高官である楊範の立場は悪くなった。彼は帝陵だけではなく祝融氏の召し出しも拒み、竜門山に残っていたからである。帝陵と軒轅氏らが共倒れし、祝融氏の首長劉衛が武帝と号して即位すると楊範は反逆者として追われることとなった。特に龍法戦士の本山である竜門山が祝融氏と伽難国の蛇美夫人によって狙われると、龍法戦士達の運命は極まった。伽難国の魔将が竜門山に現れ、全山が焼きつくされると、楊範は死闘の末単騎で南方へと逃れることとなった。
楊範は馬商人に助けられ、無事会稽郡へとたどりついた。そこで彼は名士である御龍氏、関子邑の元へと身を寄せた。関氏は地元の盗賊結社白龍の元締めでもあり、食客を多数養っている豪族であった。関子邑は楊範を快く迎えいれ、白龍の組織を使って祝融氏や伽難国の追っ手がかからぬように工作した。
二年ほどして、関氏の元に奇妙な客人が訪れた。朔州から来た道士、鄭令蔓である。
(1へ続く)
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