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楊範・鄭令蔓伝 壮途編 三「私も楊範と呼ばれるより、本名のヤンと呼ばれたほうが」

三「私も楊範と呼ばれるより、本名のヤンと呼ばれたほうが」

 翌朝はさすがのテレマコスも昼近くになって起床することになった。昨夜あれだけ痛飲して、さらにいろいろな食客とあってという宴会である。長旅の後ということもあるが、疲れきってしまったのはしかたがない。
 布団から起き出したテレマコスに気がついたリンクスが、どこからかお粥をもってあらわれた。湯気があがっているところを見ると、おそらくわざわざ暖め直してもらったのだろう。

「すまんなリンクス。おまえは朝飯を食ったのか?」
「これお昼ご飯ですよ、テレマコスさん。」

 苦笑するリンクスは腕時計を見せた。たしかに既に昼食にふさわしい時間である。どうもテレマコスはすっかり朝食を食べ損ねてしまったらしい。もともと昼ご飯としてつくられたものだから熱々というわけだった。

 テレマコスはせっかくのお粥がさめないうちにすすりながら、昨夜のパーティーの様子をおもしろおかしく話し始めた。リンクスはまじめそうな眼でテレマコスの話に聞きいっている。いつものことだがリンクスはテレマコスの話に相づちのようなものはほとんど打たない。しかしこの少年剣士はテレマコスの言葉を細部まで聴き逃さずちゃんと分析しているのである。
 テレマコスの話が…彼が泥酔寸前になってお開きになるところまで進んで、お粥も同時に空になった。

「というわけだ。どうだね?」
「…」

 「どうだね」というのは、今までの話でリンクスの興味を惹く話があったかどうかという意味である。とはいっても、接待攻勢で酔っぱらいまくっていたテレマコスの視点から見た宴会の光景なのだからなんだかいいかげんなのだが。
 リンクスは笑いながらこたえた。

「やっぱり楊範さんですね。興味深いのは…」
「まあそうだろう?うむうむ。」

 昨夜の宴会では、興味深い人物はあの金髪碧眼の楊範とかいう拳法家以外にはいそうにない。テレマコスの判断がそうなのだから、彼の話を聴いただけのリンクスもそういう印象を受けるのもしかたがないのである。それがリンクスの苦笑の意味だった。
 ところがリンクスはそのまま意外なことを言ったのである。

「実は僕、今朝楊範さんに会いました。朝の練習をしていたんだと思いますが。」
「おお!」

 いや、魔道士であるテレマコスにとってこそ意外だが、リンクスのような剣士は朝に練習をするというのはあたりまえのことである。同じ戦士である楊範と出くわしても驚く話ではないのだろう。

「すごい拳法家の方みたいですね。びっくりしました。」
「ふうむ…」

 掛け値無しに誉めるリンクスにテレマコスは複雑な表情である。テレマコス自身は楊範が目の前のリンクスより強いという印象は受けていない。まあ武術のことは戦士であるリンクスのほうが良く判るのだろうが…テレマコスの興味の中心はそういうことではない。

「うむむ…それだけしか感じなかったか?リンクス…」
「ちょっと独特の感じはするんですが…今のところ危険というほどじゃないと思います。」

 「独特の感じ」というのがテレマコスのうけた衝撃と同じものであるのかはちょっとわからない。ただ、戦士のリンクスがそれほど危険を感じずに、魔道士のテレマコスのほうが強く何かを感じるということは、なにか魔法的な事象なのだろう。
 思案にくれるテレマコスにリンクスは少し首を傾げてから言った。

「そういえばテレマコスさん。今夜もう一度楊範さんと宴席があるって聞きましたが…そのことですか?」
「おおっ、そうだった!忘れておったわ。」

 関子邑は早速楊範との宴席をセットしてくれたのである。となれば当然ながらテレマコス達が感じた謎を調べるチャンスもあるということだった。今までの釈然としない気分が一気に好奇心に塗りかえられ表情も変わる。要するに…テレマコスは魔道士なのである。

「テレマコスさん、相変わらずですねぇ。」

 リンクスは少し呆れたように笑い声をあげる。テレマコスは照れを隠すようにあわてて鞄から着替えを取り出した。

*       *       *

 楊範との宴席というのは、関子邑の邸宅でははずれのほうにある小さな離れで行われることになった。昨日のようににぎやかな大宴会ではなく、あくまで小規模な「夕食」というあんばいである。
 テレマコスのたっての頼みで今回はリンクスも同席するということになった。リンクスはこういった宴席は不慣れなのだが、さっきの「魔道士の直感」とやらを確かめるためだと強く主張されてはしかたがないというわけである。テレマコスの隣で居心地悪そうに座る羽目になった。

 と、ほどなくして部屋の扉が開き、楊範が姿を見せた。中原風の鮮やかな服と黄色い幅広の帯をきちんと締めた姿は「拳法家」というより「将軍」といってもよい風格である。事実「武礼撫」とかいう高い爵位の貴人なのであるから「将軍」と呼んでもおかしい話ではない。

「わざわざ申し訳ございませんな、楊範将軍。」

 テレマコスとリンクスは席を立って楊範に挨拶した。「将軍」と呼ばれた当の楊範はちょっとびっくりしたように二人を見る。おそらくあまりそんな風には呼ばれたことがないのだろう。

「いやお気遣いなく、鄭令蔓どの。鄭子とお呼びしてよろしいか?」

 楊範は青い目が見えなくなるくらい恥ずかしそうに笑った。こうしてみるとやはりこの青年は若い。身の丈こそ違うが、実はリンクスとそれほど歳が離れていないのかもしれない。

「鄭子でも鄭さんでもかまいませんよ。まあ本当はテレマコスと申しますが…」
「テ…レマコス殿…ではそうお呼びしましょう。」
「あ、あと彼はリンクス、私が面倒を見ているものでして、将軍の素晴らしい武術に興味があるらしいので同席させました。」

 リンクスがぺこりとお辞儀をすると、楊範はにっこりと笑ってうなずく。

「『将軍』は勘弁してください、テレマコス殿。もう今はただの食客ですから。」
「いやいや、御謙遜を…」

 しかし楊範はテレマコスの言葉を遮り、首を横に振った。

「そうですね、私も楊範と呼ばれるより、本名のヤンと呼ばれたほうがいい。テレマコス殿…」
「ヤン?…」
「そうです。私の本名はヤン・ハヌマットといいます。塞外の生まれですから中原では楊範と呼ばれていますが…」

 そういいながら楊範…ヤン・ハヌマットはテレマコスに手をさしだした。テレマコスはヤンの大きな手を取って微笑んだ。

「判りました、ヤンさん。今後ともよろしくお願いします。」
「いえこちらこそ。さあ一献あけてください。そして今宵はいろいろ遠い国の話をゆっくり…」
「そうですな、それに私もリンクスもあなたのことに興味があってしかたがない。今夜はたっぷりお話しをうかがいますぞ。」

 テレマコスは左手にあった徳利を取るとヤンの目の前に差し出した。瑠璃の杯に酒がなみなみと注がれると、ヤンはそれを一気に、おいしそうに飲み乾したのである。

(4へつづく)


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