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休日の夕暮れ、一本の電話が【短編小説】【小説1】

 彼は、仕事を辞めることを決意していた。この3年間に意味はあったのか?このまま辞めてしまっていいのか?周りの人はどう思ってるのだろうか?そういった後ろ髪を引かれる感覚は全くと言っていいほど彼の中にはなかった。ただ、見失った灯台の代わりとなる一筋の光に向かって、船は帆を進めようとしていた。
 「そういえば夕日がキツイ部屋だったな」連勤明け、仕事を辞める前最後の休日に、オレンジが強烈に差し込み彼の部屋は妙に浸食されていた。その眩しさに灯台を見失ったのかもしれない。行き先を見失った船内では仕事終わりと同じ小さな宴が催されていた。コンビニで買った鮭缶でストロングゼロをいつものように体の中に押し込みはじめたところ、一本の電話がかかってきた。
 「おっ、なんだなんだ?」知らない番号からの電話は、彼の好奇心を掻き立てた。いつもであれば、面倒だと感じるそれもこの時ばかりはアルコールと共鳴していた。動画を見ていた画面を閉じ、少しばかり普段より早く電話に出ると、聞こえてきたのは彼にとって聞きなじみのある声だった。なみちゃんだ。

 「お疲れ様です。」その彼女のジャブに、彼は「お疲れ様です。」とジャブを返した。ここでカウンターを合わせなかったのは、彼女の人柄のよさだろう。そもそも彼がいつも人との会話でカウンターを合わせにいくのが問題なのだが。ついこの間帰省した時にはこの男、「久しぶり!」とテンションを上げる彼の妹に対して、「太った?」とカウンターを合わせている。そのくらい無神経になれる彼が気を使うほど、彼女は人から好かれる性格をしていた。
「休日にごめんなさい、少し時間頂戴してもいいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。どうしました?」
「安田さん、会社辞めるんですか?それを聞いて電話しました。」
昨日話したことが今日彼女の耳に届いていることに彼は少し笑いを浮かべながらこう返した。
「ええ、話が早いですね。聞きました?」
「聞きましたよ」
そう返す彼女の声は、いつも通りに彼には感じられた。
「どうして辞めるんですか?」
やっぱり滝谷さんが辞めたからですか?と続けない彼女の問いは、彼女の聴く力を物語っているなと感じさせた。滝谷は彼にとって模範としてもいいと感じた人生で二人目の人だった。
「滝谷さんが辞めたからですよ」
「やっぱり、そうですか」
少し気落ちした彼女の声に彼はこう返した。
「ええ、滝谷さんがいなくなって、目標としていた人がいなくなって、自分の中である程度想定はしてましたけど、やっぱり仕事に対するモチベーションが低くなってしまったんですよね。その状態でみんなに迷惑かけて、そういうの良くないなって感じたのが辞める理由としては大きいですね。」
「そうですよね、安田さん、滝谷さんのこと慕ってましたもんね。」
彼が入社しようとしていた年に、配属で人事として滝谷の下で働くことになった彼女は、彼が滝谷に対して崇拝にも近い想いを抱いていたことを感じ取っていた。彼が入社後滝谷を見て行動を改めたこと、彼が滝谷と一緒に笑っていたこと、滝谷に対して彼が人よりも数倍気を遣っていたこと、そのことを彼女は社内の誰よりも近くで見ていた。
彼もまた話に共感してくれる彼女に「なみちゃんらしさ」を感じていた。彼女は人の心がわかる人だ。滝谷の横にいる彼女を観察していた彼はそう結論づけていた。彼女は滝谷が冗談でからかったときもしっかりとそれを理解して、笑っていた。滝谷が彼女を𠮟責しているときも、泣きながら彼の言うことに耳を傾けて理解しようとしていた。そのことを彼もまた見ていた。そんな優しい彼女に彼は意地悪をしたくて、少し続いた沈黙を破った。

「そういえば、どうして電話してきたの?」
同じようなことを聞く彼の質問に彼女は真っ直ぐなこころでこう返してきた。
「安田さんがやめるって聞いて、田島さんに電話しなくていいのって聞かれて、電話しますって」
その答えに彼は少し落胆を感じた。やつの一言がなければ、この電話がなかったことに少しばかり苛立ちを覚えながらも、そういったものかと自分に言い聞かせていた。彼はやつが嫌いだったし、その指図で真っ直ぐに電話してきた彼女が私はかわいそうに感じた。しかしながら、それが彼女の今の仕事なのだろう、そして彼女が私の気持ちを理解してくれているのは本当なのだろうと言葉を飲み込んだ。時刻は18時を回っていた。
「そうですか、電話ありがとう。でも私はもう次も決まってるから。私のことは気にしないでプライベートに戻りなよ、仕事終わりなんでしょ」
「どうしてそんなこというんですか?」
珍しく怒気をちょっとまとわせた彼女の声に彼は驚きつつ、答える。
「人ってさ、大切にしたい人がいるじゃん。親でも親友でも恋人でも。私はそういう人たちとの時間を大切にすべきだと思うんだよね。なみちゃんが私がやめるって聞いて電話をかけてくれたことはうれしいけど、理由はさっき言った通りだし、これ以上は長くなるし。それよりはせっかくの仕事終わりなんだから大切な人たちと貴重な時間を過ごした方がいいんじゃないかな」
彼の優しさだった。というよりは、彼の優しさの履き違えだったのかもしれない。彼の無神経さの産物かもしれない。

「そんなことない」
とうとう彼女は泣き始めた。彼はすこし戸惑いつつもこう返した。
「いや、なみちゃんが大切にしたい人を大切にするべきだよ。そしてそれは私とは違う人たち」
「そんなことない」
「ううん、そうなんだよ。人ってどうしても時間が有限だから関わっていく人も限られてくるし、その中で重みをつけていかなければならない。だからなみちゃんはなみちゃんが大切にしたい人を大切にすればいい。」
「そんなことない、私はみんな大切にする、家族も仲間も同じように安田さんも!」
強く主張する彼女に対して、彼は呆れに近い感嘆を感じていた。「ああ、そういえばこういう人だったな、なみちゃんは。なるほど、人に好かれるわけだ。人を好いているのだから。人に寄り添っているのだから。」彼女のもたらした静寂の間に彼はいくつもの彼女の人柄のよさを痛感させられた。思い返して、現実に戻った彼は、話を終わらせようと彼女の主張に折れた。

(続く…出来次第)

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