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I・カルビーノ『見えない都市』を読んで考えたこと

友人から勧められ、通勤の合間に読んでいた本。マルコポーロとフビライ汗によって紡ぎ出されるフイリグラーナ(宝玉糸線細工)のような都市の風景。都市批評にも精神分析的にも読める不思議な本。
何の経緯で友人はこの本を僕に勧めたのだったか。確か、会話の中で、僕が九州に来てから土地と想像力、最近は戦後の小説家について考えていて、、みたいな事を話していた時だったような。

その時、「島尾敏雄の奄美、石牟礼道子の水俣、遠藤周作の長崎(そして、芹沢高志の別府)、彼らの文章には風景が、土地と向き合う個人が紡ぐ小宇宙があり、彼らの目を通して土地に入っていくことがとても豊かで、ある種の可能性すら感じてる」みたいなことを僕が言っていて(我ながらなんて青臭いんだ、、!)。だったらあなた、これはどうかしら、と教えてもらったものだ。

正直、この本を読み進めて心に残るものは少なかった気がする。空想の都市に想いを馳せるほどの好奇心はもう僕にはないのかもしれないとも。
けれど、上で述べた彼らのように、土地や歴史と真摯に向き合いつづけ、しかし、そこから漏れ出てきてしまうように描かれる想像の風景や、その土地をより深く鮮明に捉えるための空想(思い込み)に僕は惹かれるし、何かしらの希望を感じてしまう。
それらは似ているようでやはり違う想像力だ。
おそらく、後者こそが、これからの僕たちの時代にもう一度必要な想像力なのだと。かつて建物があったであろう駐車場への、土地と人を繋ぐよすがへの眼差しを。

読んでいる間、不思議とその事ばかり考えていた。もしかしたら、このことこそがこの本の主題だったのではと、今まで書いて、はたと思い至った。いや、きっとそうだ。
友人にお礼を言わなくちゃ。

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