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モラトリアム潜水、それから文学的ストリップ

 人に見せられないものばかり作っている時間が、たぶんもっとあってもいいと思います。SNSのタイムラインに現れるのが波間に鼻先を出して呼吸することだとしたら、今は深く深く潜っていたいような時間かもしれないからです。そのためには体に取り付けてあった浮き袋を一つずつ丁寧に外しながら、より下のほうの深いところ、暗がりの溜まった淀みへ降りていくことが必要だからです。急に水深を下げすぎてはいけません。ゆっくりと、体を慣らしながら潜水していきましょう。浮き上がるより潜っていくほうが体力がいります。

 イラストレーションを描くのに必要なのは判断力だ、とどこかで聞いたことがあります。僕もイラストレーションを描いたことがありますが、はたしてそれはなかなか当たっているような気がします。シルエットの形を線で決めていくのも、複数の色を使って塗り分けていくのも、判断力を必要とします。だから、「描く」という行いは、言い換えると「判断する」という行いと限りなくイコールに近い関係を持っていると僕は考えています。面白いのは、絵を描くうえで、その判断には不正解というものが存在しないところです。どんな線を引くか、どんな色を塗るか。それらは作者が、えいやっと決めてしまえばそれが正解なのです。その、えいやっと決めてしまう選択の数々を、作家の「個性」と呼んだりもします。とにかく、何かを選択して決めていくことでイラストレーションは出来上がっていきます。そこに僕は魅力を感じています。

 という前置きをしたうえで、最近は「判断をしない」ということを心にとめて生活をしています。正確には「判断を急がない」というほうが良いのかもしれません。無論、これはイラストレーションを描くときの姿勢の変化のことではなく、日常生活を送る1人の人間として、むやみに判断を早まらないように心がけています。例えば「あの人は○○だから」とか「彼女はああいう人間だから」と、性格的なタイプに分類をして、その人について判断してしまうことをなるべく思いとどまってみようとしています。もしかしたら、彼女は自分の見えていないところでは全く違う人間かもしれないし、実際そうであることは多いような気がするからです。自分の目線から見えているものだけで判断をしてしまうと、彼女のことを理解した気になって、彼女を観察し、その先の行動や心の動きを読み取ろうとするのを止めてしまう可能性もあります。

 「では一体どうしたらいいんだ」

 そう思うかもしれません。ここにシンプルな答えがあります。それは「判断を先延ばしにして、観察を続ける」ということです。判断をするには情報が必要です。エビデンスとか科学的証拠と呼ばれるものです(僕はこういう言葉があまりしっくりこないので材料、と呼んでいます)。それらを集めるためには対象をよく観察すること(その人物が何に腹を立てるか、どういう時に腹を立てるか、腹を立てそうなことが起きているのに腹を立てない時があるのはどうしてか)、そういった細かなディティールを採集し続けることが欠かせません。何も人間関係に限ったことではなく、あらゆる出来事に関して、すぐに答えを出さないでよく観察をして考え続けることが大切です。大切です、なんて言うと説教臭く嫌なので、豊かになる、と言い直しておきます。

 既存の何かの型に当てはめて判断をすると、思い切りがよく気持ちがいいのですが、その型に当てはまらない対象の細部、つまりは溢れ出たディティールを取りこぼしてしまうような気がするのです。もちろん「実生活の中では細部なんてどうでもいいし、ざくざくと判断していくほうが世の中をスムーズに渡っていけるよ」という意見には異論はありませんし、もっともな考え方だと思います。ただ、芸術的もしくは文学的な「面白み」というのは、そういうこぼれ落ちた細部に含まれているような気がしてなりません。そしてそれらは一つ一つを見ていくと本当に些細な、どうでもいい情報たちなのです。そういうカケラを逐一頭の引き出しにしまっておいて、必要な時に取り出してつなぎ合わせたり、ぶつけ合わせたりして、何か人の心に残る物質を作ることができるのではないか、少なくとも自分が面白いと感じることができるものを生み出すことができるのではないか、と考えています。

 すべては知的好奇心から始まっています。僕は、注意深く観察する、という基本的スタイルを徐々に確立しつつあります。それは一見ネガティヴな、直面したくないような不快感を伴う出来事に対しても、有用だと言えます。ただ落ち込んだり、回避しようとするという段階から、「これはかなり嫌な気持ちがするけど、とりあえず一部始終しっかり見ておこう」という不思議なバランスを持ったエネルギーが誕生することもあります。勇気は好奇心の内側にある、というのは案外あり得る事実かもしれません。最近はそういう生き方をしています。

 僕はイラストレーションを描くのが好きです。写真を撮るのも好きです。本の装丁なんかもやるし、映像も作ります。身体も動かします。表現の手段というのは、数えることができないくらい多くのものがあります。その中でも、文章を書く、というのは自分にとって最も自然発生的な表現であり、知的な好奇心を観察によって満たすことのできる営みのようです。自分が心地よく、水を上から下へ流すように違和感のない作業です。判断を先延ばしにしながら、文章を書きながら考え続けることができます。ですから、最近は文章を書くこと、それから読むことに興味が向いています。文章を書くことで絵を描くことを止めたり、その他への興味を完全に失うことはないだろうと思っています。それらは別々に切り離されたものではないからです。絵を描くように文章を書くことはできるし、文章を書くように絵を描くこともできるだろうと思っています。ともかく、時々こうして今の気分を振り返ることが自分には重要みたいです。文章を書くことでどんどん正直になって、服を脱いで裸になっていくことが必要みたいです。


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