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愛されていることを感じられないあなたへ。

私たちはつまるところ、安心したいのだと思う。
わたしはわたしでいいんだ、という命そのものに対する、安心があれば・・・つまり、不安が少なければ少ないほど、心穏やかに、軽やかに生きることができるし、やりたいことに踏み出したり、挑戦できる。

どんなことであれ「こわい」時、私たちは踏みとどまってしまうものだから。
欲しい未来があっても、そこに不安があれば、私たちはそこそこに生きられる今を、選ぶ。
だけど。
欲しい未来に行っても大丈夫なんだと、1ミリでも思えたら。
行ってみたい、行ってみようと、思える。1ミリ前進してみよう、って、思える。


では、安心が得られない時の不安は、何か・・・というと
「この自分では愛されない、存在していいと思えない」
「こんなことをしたらいけない」・ダメという思考や感覚・感情。

だからこそ、「愛されている確証」を探す一方で「愛されていない確認」をしてしまう。
ここまでならいいよね、ここから先はダメだよね、と。

ではそもそも、愛されているとは、なんだろう。

あなたにとって、愛されている、とは何をもって感じられるのか。
それは本当にそうなのか。
なぜ、それによって、あなたはそう感じられると思っているんだろう?
本当に・・・そうなの・・・???

わたしはほんとうは一体何を求めているんだろう?

そんな問いから始めてみるのもいいと思います。

世間的な「愛されている概念」ばかり追いかけていては、もうこれは解決しないのです。
 
世間の誰彼が言っている「愛されているということ」は誰彼にとっての、答え。
だから、それを基準にすることはあっても、無理くり当てはめることは必要なくて。いえ、そもそも、ハマれないのです。あなたと誰彼は違うから。しっくりこなくて、違和感があって、当然なのです。

外側の誰かのいろんな答えを基準にしながら、「わたしはどう想うのか」「どう感じるのか」「わたしは本当は何を求めているのか」「どういきたいのか」そんな問いを自分にかけ続けていくうちに、、、、ふと、答えを感じられる時が来るのだろうと、思う。

誰かの答えと同じ自分に気づくのではなくて「わたしにとっては、これだったんだ。」と気づく日が。


わたしは今日、ひとつのその答えを思い出したように思います。
だからこれも・・・・

あなたが自分だけの「わたしも、愛されていた」ということを思い出す、ひとつの基準、きっかけとして、読んでもらえたら、あなたの心に、何かが生まれるかもしれません。





今日は次女の誕生日。
18歳。成人を迎えます。

9時半前に
おなかから出てきました。


二度目の帝王切開で。

長女の時は初体験だったから
帝王切開で生むとはわかってても
何がどうなるか、わかってなくて
まな板の上の鯉状態。

まさか、、、、、

開腹したわたしのお腹の中に
器具がハマって押し広げられ

にんげん(先生)の手が 
ずぼっと入ってきて
赤ちゃんを取り出すとは・・・!!

部分麻酔で
その感覚が全部わかるなんて・・・!と

驚きの連続で。


自分の体の中にほかの人の手
(腕あたりまで)があるという
とてつもなく不思議な体験をしました。

二年後の
二度目の帝王切開は

もうそういうのも、わかっているし、
だいじょうぶ

そう思っていたはずなのに

いざ、部分麻酔をして
手術が始まるとなったら。


本当は
わたしは、怖かったのよね。

また、あれが・・・
先生の手が
お腹の中に入ってくるんだなぁ・・・
こわいなぁ・・・・・


なんて、手術台の上で思っていたら

まさかの、容体急変で

血圧がみるみる下がり始め
手先や足先がどんどん冷たくなって
固まっていくのが自分でもわかって
意識がぼーっとしてきて。


手術室がバタバタし始めて
先生が焦り始め

看護師さんが
頑張って!頑張るのよーーーー!!って

しまいには
お願い〜〜〜!頑張ってーーー
だいじょうぶだから、頑張って!みたいになり。笑

一生懸命、体をさすってくれて。

頑張れ、がんばれ
もうちょっとだから、って


あの時、人生で初めて




あれ
わたし、死んじゃうかも。



と、思ったのです。



あらーー
ここで人生オーバーかぁーーー、って。





この前、お酒の席で
人生で 死にそうになる経験をすると
人生観が変わる、という話がありました。


その瞬間、、、
もっとこうしておけばよかった、ということを
感じる、と
みなさん話されていたんだけど・・・


わたしはあの時、
それがまったくなくて

死ぬかもしれないけど
娘はどうかよろしく。


という気持ちで、
死に対する恐怖とか
わたしの人生が
ここで終わることに対する
悔いや絶望はまったくなかった。

どうか赤ちゃんは助かってほしい。


ほんとに、それだけ。
先生、頼むで。みたいな。


もしかしたら
あの時にわたしは
自分の命を一度
諦めたのかもしれない

でも

次につなぐいのちに賭けたものが
あったように、思うのです。 


それは、
執着とかそういうものではなくて

朦朧とした意識の中にあっても
確かでありながら
やわらかな強さとやすらかさだったなと
今思い返してみても、思う。



あなたは、どうか生きて
幸せにね、と。


終わっていくかもしれない中で
大切な、次なるいのちの
「そのさき」を願うとき
そこに不安も恐怖も、何もなかった。 

今になって、思う

愛するとは そういうことなのかもしれない、って。

ただ、想う。
ただ、願う。


きっとね
今ここに生きていて
これを読んでいるあなたも
そんなふうに
あなたは生きて幸せに、と

願われ、託され

まるごとその生を愛されて
生まれたいのちなのです。


あの経験をしてみて思うのは

命を賭すことなんて
容易いことと感じるくらい
そう想うことさえなく
なんの躊躇もなく

人間は
本能的に
次なる命に
自分の命を託せる


繋がれた命とは
それくらいに、
たいせつな、もの。


たいせつに、願われたもの。


それからの時間が
どうだったとしても

生まれる時
産み落とす時そこにあるのは
 
幸せな生への
願いと想いでしか、ない。




わたしの人生も色々あったし
愛されていることを感じられずに
孤独だなぁって思った時もあったし

幾つになっても
そんな拗れたものが
拗れた出来事になって
なんやかんややってたりも、するけれど。

これって、
我欲、エゴのある人間状態の視点で

(これを感じて、ほぐしていくのが
 人間の世界で生きるということでもあるよね。
 人生、エゴの寸劇。)


自分が欲しいものを、欲しいように欲しい


という視点から離れて
おーきなおーきな視点から見てみると



私たちはきっと。

愛し方を知らなかったり
愛し方が違ってたり

時には

愛する表現を 
間違えてしまったり
してしまうんだけども


それでも

確かに。
確かに愛された命 であり

そしてまた

深いところでは
愛しているし

(愛愛うるさい笑)


絶大に愛され、
愛する力を、持っている
(だから、生まれている)


生まれ生きている時点でもうそれは
受け取って、満たされて
叶っているんだろうね。^^



ただ、人間の、人間らしい
我欲、エゴが

時にその感覚や目を
曇らせてしまう、だけ。


「わたしが欲しいものを頂戴!
 それ以外はいらない!愛じゃないのよ!」なんて。


今生きている私たちは

あなたもどうか生きて幸せに

という
命懸けで産み落とした人の
愛そのもの。


そして
産み落としてくれた人もまた。
その愛をもらったからこそ、
生まれ生きてきている。


そんなふうに思う、娘の誕生日。

18歳。
長女も次女も、
無事成人に、なりました。


わたしのたからもの。


わたしも、やーっと
ちょっとは、心の成人に、
近づけたかなぁ。笑


命こそが愛である
そんなことを
じっくり
美味しいコーヒーとともに
味わいしたためる朝です。



愛があったから、生まれている。

今は心からそう感じられなくても
いつかそれが
ストン、と腑に落ちる時が、来るといいですね。
 
いえ、きっと来ます。
 

自分に問いかけ続けていたら、
いつかそれは必ず、訪れる。

求めれば、答えは与えられる日がきっと来る
そう思います。

わたしも、そうでしたから。

一歩一歩。


心と思考の絡まりをほぐして、新しい人生の扉を開くセッションをしています。


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