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世間からの消え方。

自分は心が弱い人間で、それ故に、さらっと報道されさらっと忘れられていくニュースとても感情移入してしまうことがある。

そしてその当事者とそのご家族のことを想像して、(自分ができることは何一つとしてないとはわかっているのに)くよくよと思いを巡らせてしまうことがある。


仕事の合間に昼ごはんを用意している時だった気がする。

起きてきてスマホを見ていた妻からぼそっと、重くも軽くもないトーンで言われた。

「あのタレントのRさん、亡くなったみたいね。自殺だったって。」

私はそのRさんのファンだったわけではない。本当に(こう言ったら誤解を招くけれども)好きでも嫌いでもなかった。一時期テレビでよく観ただけで、思い入れは一切なかった。

それなのに、その言葉を聞いた瞬間、心臓がきゅっと小さくなり、呼吸が少しだけしづらくなる感覚を覚える。

もう何回目なんだろう、こんなニュースを目にするのは。

有名俳優、有名舞台女優、某動画配信サービスの恋愛リアリティショーで有名になった方。最近こんなニュースばかりじゃないか。

この手のニュースを聞いて、やるせなく、悲しくなる時、いつも私の胸に浮かんでくる映画がある。

『鍵泥棒のメソッド』だ。
(ここからはネタバレを含むため、内容を見ずに映画を観てみたい方は、一度映画を観てから戻ってくることをお勧めします)

『鍵泥棒のメソッド』は2012年に公開された。この映画を観たのは、おそらく映画好きの父がTSUTAYAで借りてきたからだと思う。
(父は大の映画好きで大学の頃はレイトショーをはしごして映画を観ていたような人だ。息子が受験勉強に集中している時にも、家全体に響くような大音量で映画を観ているような、とっても自由な人だ)

公開の1年後、2013年にはTSUTAYAに出ていたと仮定しても、かれこれ10年前、つまり私が中3か高1の頃ということになる。

10年前に観たにも関わらずこの映画は、事あるごとに私の意識に上ってきて、心の弱い自分にとっては(少し大袈裟に言えば)救い、または願いとなっているような映画である。


以下に簡単にあらすじを紹介する。

この映画の主人公は、凄腕の殺し屋「コンドウ」と売れない三文役者「桜井」だ。

コンドウは仕事終わりに訪れた銭湯で足を滑らせ、記憶を失ってしまう。

役者人生に嫌気がさしていた桜井は、足を滑らせたコンドウのロッカーの鍵をすり替えることを思いつく。

それから桜井はコンドウの、記憶のないコンドウは桜井の人生を過ごすことになるのだが、桜井はコンドウの家を物色し、困ったことになったことに気がつく。

コンドウは殺し屋だったのだ。

桜井は身分を偽装しながら殺し屋の仕事を遂行しようとするが、やがてコンドウは記憶を取り戻していき、、、

というストーリーだ。重ねて忠告しておくがここからは本格的なネタバレになるので、映画を楽しみたい方はここで読むのをストップすることをお勧めします。

この映画で私が最も印象に残っているのは、コンドウが桜井に自身の本当の仕事を明かすシーンである。

コンドウ「俺は便利屋だ。殺し屋じゃない。東京だけで毎年何人行方不明者が出ると思う?中には自分から消えたいと思う人間もいるんだよ。大金払ってでも。」
桜井「じゃああの社長は?」(その前のシーンで大手企業の社長が亡くなるシーンがある)
コンドウ「(略)今頃沖縄でゴルフでもしているよ」

コンドウの仕事とは、”世間”から姿を消したいと思う人を”社会からは消えたことにする”ということだったのだ。

心が強い人には笑われるかもしれないが、私はこんな”消え方”があってもよいかもしれない、というよりもむしろあってほしいと思うのだ。

(これはもう言い古されたことかもしれないが)日本では”世間”というものの価値が非常に高い。そして(これも既に何度も言われていることだと思うが)SNSの普及によって、"世間"の感度・影響力・辛辣さは増していると思う。

そして、一挙手一投足がネット上で取り上げられ、「これは好き」「これは嫌い」という評価に晒されることになる。

一度、人前に出る人として認識してしまった人はもうそこから逃げられない。

時には(もう”時には”という言葉では生温いかもしれないが)人間性を否定するような誹謗中傷に日常的に晒される。それはもう徹底的に。

生身の人間にとって、この仕打ちはあまりにもひどい。きっと消えてしまいたいと何度も思ってしまうまで追い詰められてしまうんだろう。

実際に終わりにするという選択をされた方々の、悔しさとか、やるせなさとか、絶望を思うたび、私なんかが感情を寄せることなんておこがましいとは思いつつ、彼ら/彼女らの気持ちを想像せずにはいられない。

人生の中で(タレントならなおさら)いろんな人に勇気や元気を与えてきた方々の終わり方がこんな形でいいんだろうか。


そんなとき、彼ら/彼女らに救いがあってもいいのではないかと思うのは、自分勝手なんだろうか。

彼ら/彼女らが(もちろん現実的にはそんなことはあり得ないと思いつつも)この"世間"のしがらみから逃れて、別の場所で好きな人生を生きていてほしいと一縷の望みに願いをかけるのは私が心が弱い人間だからだろうか。

社会構造をこう変えた方がいいとか、個人個人がこうするべきとか、そういう難しいことは自分には言えない。

でも、心が弱いからこそ、他者への想像力を忘れたくない。遠い出来事でも(そしてすぐに自分が何かできるようなことではなくても)矢面に立っている当事者が自分の妻だったらどうだろう?両親だったら?兄だったら?友達だったら?そんな気持ちで、心を寄せていたいと思う。

『鍵泥棒のメソッド』

日々に忙殺されて、他者への想像力を忘れてしまいそうなこんな世の中において、私の救いであり、願いのような世界観をみせてくれる大切な映画である。

気になった方はぜひ。

2023.7.15 0:33
七賢 純米 淡麗純米 を飲みながら。

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