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ある休日の午前中、ミスド。

レジでお会計を済ませ、二人掛けの席のソファ側に壁を背にするように座り、周囲を見渡してみる。

向かい合ってお互いに少し身を乗り出し、ヒソヒソと会話をしているカップル。
スマホを片手に母親の話を聞きながら、面倒くさそうに相槌を打つ女子高生。
一人黙々と本を読む中年男性。
テーブルに置いたスマホを覗き込みながら、クスクスと笑っている男子大学生。

客層はいつもバラバラ。
老若男女が思い思いの過ごし方をしている休日の午前中のミスタードーナツが好きだ。


小さい頃からミスドが好きだった。

山梨の山奥には自然こそあれど、なかなか中高生が楽しめるような娯楽はない。自然は確かに好きだったけど、多感な時期の中高生に「もっと自然を楽しめ」というのは少し酷な話だ。

休日、部活がない日に私が友達と出かける場所といえば決まってショッピングモールだった。
特に特徴があるモールではない。(というかモールとはそういうものだ。どの地方にいても同様のサービスを提供すべく建てられた商業施設なのだから)

ただ、いつも自然に囲まれた場所でショッピングなんてろくにしていなかった中学生の頃の私にとっては、自宅から40分ほど電車に揺られながらモールに向かう日は、ちょっとした冒険の日、というと言い過ぎだが、特別な日だった。

金もなく、ショッピングにも興味はなかったため、決まって行く店は限られていた。
映画館で映画を観て、みんなで意見を合わせるのが面倒という理由だけでフードコートに行き、ちょっとだけゲームセンターでUFOキャッチャーをやって帰る、というのが定番コース。
その最後に必ず立ち寄っていたのがミスドだ。

翌日の朝に家族で食べるため、ミスドでドーナツを買って帰るのが習慣だった。
別に親に頼まれていたわけではない。
単純に自分がドーナツを食べたかったからか、駅まで送迎してくれる親に気を遣っていたのか、はたまたそれ以外の理由か。
学校とは少し違う友達の姿を見て少しだけ距離が縮まったような気がした日も、誰か知り合いに彼女といるところを見られやしないかとそわそわして結局手も繋げなかった日も、なけなしの小遣いの残りを使って、ドーナツを買っていた。

それがミスドの原体験というやつで、その後、好きが高じて大学時には2年間ミスドでバイトしたりしたのだが、まあ何にせよ、ミスドが好きで、ここ最近は休日の午前中にミスドに来て読書をするのが習慣になっている。


ここ最近観察してみて気がついたことがある。

ここのミスドは11:00を過ぎると小さな子供を連れた家族の割合がグンと増える。

意識をPCの画面から店内に向けてみると、やっぱり今日も多い。

普段、ただただ働いて、友達と飲んでという日を繰り返していると小さい子供を見る機会すらも限られているからか、ミスドで子供と親の微笑ましい戦いを聞くともなしに聞いていると、子供を持つってどんな感じなんだろうとついつい考えてしまう。(もちろん、今すぐとかそういう話ではない)

子供について考えるとき、私の中には2つの正反対の気持ちが振り子のようにいつも揺れている。

「子供を自分が育てるなんて時間的にも経済的にも精神的にもまだまだ無理」という気持ちと「子供がいても何とかなる気がする」という気持ち。

手がかかりそうな子供を見ると「無理」側に振り子が少し振れ、それでも可愛らしい仕草を見ると「何とかなる」側に少し振れる。

別に今すぐに子供を、と考えているわけでもないし、考えたところでそのタイミングを意図したように決められるわけではないものだとわかっているのに、ついつい考えてしまうのは遺伝子がそう命令してくるからなのか、ただの考え過ぎなのか、、、

就職するまで、この振り子はずーっと「無理」側にあった。当たり前だ。イメージすらできなかった。

ただ就職して自分で稼げるようになり、少しは大人になったのかもなと思うことが少しずつ増えてくると、ずっと固定されていた振り子が動き始めた。

時には「何とかなる」側に振れることも増えてきた。


先日、大学のサークルの先輩後輩とBBQに行った。

いつも仲良くしてくれる先輩Rさんには、半年前にお子さんが生まれた。

父親になったことを自覚したタイミングをこう語ってくれた。

「出産に立ち会ってもなお、本当に生まれてくるまで実感がわかなかったんだよね。でも元気な男の子ですよって生まれたばかりの子供を手渡されてその顔を覗き込んだ時、ぶわーって涙が出てきて止まらなくなって。その時に父親になったんだって実感したよ」

そんな話をしているRさんの顔は本当にキラキラしていて、ちょっと後光が差していた。


最近、詩って面白いなぁと思って詩集を読み始めていたところ、『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集』という詩集に出会った。

子供たちが書いた詩を集めた詩集。子供たちのみずみずしい、純粋な感性によって切り取られた日常が詩から伝わってくる。(()内は私の感想)

 「とけい」(神奈川県・4歳)
 もうちょっと / ゆっくりの / とけい / かいたい
 (ああ、自分もゆっくりのとけい欲しいなぁ)

 「あめ」(静岡県・3歳)
 あめ ちょうだい / いっこだけでいいです / あか と みどり
 (「いっこだけ」からの「あかとみどり」の可愛さたるや)

 「れ」(埼玉県・3歳)
 ママ / ここに / カンガルーがいるよ
 (「れ」という文字の形がカンガルーっぽいなんて、大人には絶対に見つけられない)

こんな子供たちの純粋な感性に触れると、ああ子供っていいなと思う。


今、私の振り子はちょっとだけ「何とかなる」側に振れている。

さて、残りのドーナツを口に放り込んで席を立とうとすると、隣にだいぶ元気があり余った兄弟がやってきた。年子だろうか。その姿に、私と、私の一つ上の兄の姿を重ね合わせ、少し気になって様子を観察してしまう。

…。だいぶ元気だなこの子たち。

ソファの上に立って飛び跳ねている。
机をバンバン叩いている。
レジの方から声をかけている親の注意に全く耳を貸さない。
よろけた弟が私の机にぶつかりコーヒーがこぼれた。
PCにかかりそうで危なかった。

今、私の振り子は「無理」側にゆっくりと戻っていった。


おわり。

2023.7.29 12:38
ミスドブレンドコーヒーを飲みながら。(おさけじゃないけどまあいいや)

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