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20200308_読了『2000年の桜庭和志』

「かつての少年たちの人気者、アントニオ猪木。歳月は流れました。しかしながら脈々と、その少年たちの胸に『アントニオ猪木』の一文字が息づいております。我々は思えば、全共闘もビートルズも、お兄さんのお下がりでありました。安田講堂も、よど号ハイジャックも、あさま山荘も、三島由紀夫の割腹も、よくわからなかった。ただ金髪の爆撃機、ジョニー・バレンタインとの死闘、あるいは、クリス・マルコフを卍固めで破ってワールドリーグ戦に優勝した、アントニオ猪木の雄姿はよくわかりました」

 以上は言うまでもなく、「8.8」こと1988年8月8日、アントニオ猪木 vs. 藤波辰巳の60分フルタイムの歴史的名勝負で古舘伊知郎が残した、伝説の名実況の一節である。
 当時34歳(!)の古館は、全共闘の狂熱に間に合わなかったコンプレックスを吐露しつつも、我々の青春は常に、アントニオ猪木の黄金時代とともにあったと胸を張った。

“僕らの青春”と言わざるを得ない、桜庭和志の時代

 正直いって僕は、“世代”だの“僕ら”みたいな、ざっくり過ぎる括りに当てはめながら自分語りをする物言いが、どうも生理的に苦手だ。
 いや、本当は自分もやってみたいのだけど、自尊心というか、「そんなもんはこっ恥ずかしいだろ」という羞恥心が、自分語りをしてみたい本音に急ブレーキをかけているのかもしれない。
 しかし、この『2000年の桜庭和志』を読了した途端に、とうとう僕は我慢ができなくなってしまったようだ。
 だって、よく考えていただきたいのだ。
 いま40歳を過ぎたプロレスファン・格闘技ファンにとって、桜庭和志が最も瑞々しく、溌剌と跳躍していた時代こそが、自らの青春真っただ中とシンクロした、いちばん幸福な季節だったのだから。

 “僕ら”よりもふた回り上の世代の古舘伊知郎は、アントニオ猪木が「若獅子」から「燃える闘魂」、そして「格闘技世界一」まで駆けあがる軌跡のすべてを目撃することができた。
 もちろん、僕らが子供の頃も猪木はスーパースターだったし、シリーズ最終戦・蔵前国技館のメインイベントは、いつも猪木がキッチリ勝利して締めくくっていた。しかし、僕らが物心ついた頃の猪木は、すでに四十路の声を聞く頃合いであり、ロングマッチで大汗をかくと、頭頂部がやや寂しくなっているのが、TVでも容易に確認できてしまうようになっていた。猪木がエースでありスーパースターであるのは間違いないが、年齢的にも猪木の引退は、もうそう遠くはない。僕らは子供心にも、そう思っていた。

 東京プロレスのジョニー・バレンタイン戦、日本プロレスのクリス・マルコフ戦は、生まれる前の出来事だった。
 モハメド・アリ戦、ウィリー・ウィリアムス戦は、まだ幼すぎて、リアルタイムの視聴に間に合わなかった。ひと回り上の世代の方々から語り継がれる「格闘技世界一決定戦」の死闘の数々は、古館流にいえば、残念ながら“お兄さんのお下がり”であった。
 ただ、「VT(ヴァーリ・トゥード)に桜咲く」と讃えられた、カーロス・ニュートンとの回転体の攻防、あるいは、UWFインターとキングダムの道場で培った技術でグレイシー一族を次々打ち破った、桜庭和志の雄姿はよくわかった。
 僕らは、“1976年のアントニオ猪木”には間に合わなかった。
 しかし僕らの青春は、“2000年の桜庭和志”とともにあった。そう胸を張りたいのだ。

“僕らの青春”とシンクロする、桜庭和志の肉体性

 桜庭和志の黄金時代を思い出す時、きっと誰もが、数々の名勝負で繰り広げられた鮮やかなテクニック、そしてリングを縦横無尽に跳ね回る若きIQレスラーの、無限の肉体性に思いを馳せることだろう。
 ビクトー・ベウフォート戦での、ローリング・ソバットにサクラバード・キック。
 ホイラー・グレイシー戦での、腰を思いきり回転し大きく踏み込んで放たれる、ボーウィー・チョーワイクン仕込みのムエタイ・ローキック。
 ヘンゾ・グレイシー戦での、ダンスを舞い踊るように極まったサクラバ・アームロック。
 あの頃の桜庭は、数々の死闘をニコニコ顔でのほほんと凌ぎ、そしてその都度、奇想天外のテクニックで僕らの度肝を抜いてみせた。
 そんな桜庭の闘いを支えるのが、いつ果てるとも知らぬグラップリングのスパーリングなどの“強くなる練習”のみで培われた、ナチュラルな逆三角形の肉体だった。
 “何でもあり”の闘いが、技術と戦術を競うMMAの洗練に収斂されず、粗野で危険なVTのスペクタクル性によって広がっていった時代を、あの頃の桜庭和志は、色白でしなやかな無駄のない肉体を携えて、痛快無比に踊るように駆け抜けていた。

 桜庭が快進撃を続けていた当時、僕らも青春期のただ中にいた。
 体も心も疲れ知らずだったし、自分の命が永遠であると錯覚するぐらいには、元気が満ち満ちていた。
 さて、ここからが僕だけしか当てはまらない話なのかもしれないが……、桜庭和志の、グラップリングに特化したバランスの良い筋肉がリングで躍動するさまに熱狂する時、僕は、自分の肉体に永遠が担保されたかのような正体不明の全能感を覚えていた。
 逆に、自身の身体に活力と元気がみなぎっていると自覚できる瞬間にふと、桜庭和志の魔法のような闘いを思い出すことが何度もあった。
 例えば、自転車で長い坂道をてっぺんまで駆け上がり、そして一気に下っていく、あの得もいわれぬ快感。アップとダウンのほんの短い間に僕の身体は、拍動の高まり、大腿の筋肉の躍動と弛緩、背筋ににじんだ汗が下り坂で一気に放散される爽快感などを、一度に味わうことができる。
 僕はその時、自らの肉体が夏の盛りを迎えていることを自覚し、そして、自身の肉体性の永遠を錯覚し、大いにうぬぼれる。
 その瞬間、脳裏に浮かぶのが、桜庭和志のムチのようにしなるローキックや、稲妻のようなスピードで地を這うローシングルだった。
 僕は青春期に、自身の肉体と桜庭和志の闘いを、勝手にシンクロさせていた。
 黄金時代の桜庭和志は、数々の闘いで示したその肉体性をもって、僕らの夏盛りの季節を“青春”に昇華してくれたのだ。

“青春”を遠く過ぎてなお続く、桜庭和志の挑戦
 
 しかし、「グレイシーハンター」と称揚された桜庭和志の快進撃にも、いずれ終わりがやって来る。
『PRIDE.13』でヴァンダレイ・シウバに鮮烈KO負けを喫して以降、ストライカー有利なルール変更に、著しい体重差の対戦相手との連戦と、逆境まみれの境遇が続き、桜庭の痛々しい敗戦を目にする機会が増えていった。
 シウバを筆頭とする重い階級の強豪たちと闘い続けるために、無理に増量した桜庭の肉体は、流麗な逆三角形から不格好な太鼓腹に変節していた。
 桜庭にとって最も瑞々しい季節が終わりを告げたことは、視覚的にも明らかだった。
 そして、桜庭が自身の黄金時代から緩やかに転がり落ちていくのと時を同じくして、僕らも徐々に若さを失っていった。
 桜庭が敗戦を重ね始めた頃、僕らの青春も静かに終わっていったのだ。

 その後も、“ヌルヌル事件”に、片耳が裂けるアクシデントと、数々の屈辱と不運に見舞われ続けた桜庭は、いつしか五十路も近い年頃になっていた。
 僕らも、自らの肉体を永遠と錯覚できた青春期を遠く過ぎ、いつしか齢40も、あっという間に飛び越えてしまった。あの頃と違い、生命と身体の有限性をひしひしと感じざるを得ない場面は、歳を重ねる度に否応なく増えていって、まったくもって寂しい限りだ。

 そんな中、五十路に差しかかった桜庭が、魅惑のグラップリング・イベント「QUINTET(クインテット)」を立ち上げ、新たな挑戦を僕らに見せてくれている。
 数々の敗戦とアクシデントを経験し、髪にもヒゲにも白いモノが目立つ今の桜庭が見せる、酸いも甘いも噛みしめた上のニコニコ笑顔は、僕らにとっても、とてつもなく魅力的だ。

 僕らの青春期は遠くに過ぎ去っていったし、僕らのほとんどが、かつて夢見たひとかどの“何者”にはなれなかった。僕自身もそうだ。
 しかし、青春が終わっても、“何者”になれなくても、何度無様な負け戦を繰り返しても、その後の人生はいつまでも続く。
 僕らのヒーローだった桜庭和志だって、黄金時代はとっくに過ぎ去って、「これ死んだんじゃないか」というぐらいの惨敗を何度も見せてきたけれど、齢50を過ぎてなお、新しい挑戦を見せ続けている。
 青春なんてとっくの昔に終わったし、何者にもなれなかった人生だったかもしれないけれど、僕らだって、負けまくったその後の落とし前を、ニコニコ顔で始めたっていいじゃないか。そう、クインテットの桜庭和志みたいに。
 僕らはもう一度、桜庭の挑戦を自らの日常とシンクロさせるべきなのだ。
 青春期真っただ中も、青春を遠く過ぎても、桜庭和志は、永遠に僕らの世代を奮い立たせるアイコンなのである。

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