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いまなお燃える命【不死身のエターナルパワー】

はい
ゆったりと息を吸って
ゆったりと吐く

風はどこからともなく吹き 
そなたの鼻腔を通じて肺に入り
あなたのからだを経由して 
そして再び出ていく

それは再び風となる
風は偉大なるかな
住むところを知らず
住む目的を知らず

常にどこからともなく吹き
どこへともなく吹いていく

人がいつの日か本当にこの風とともになることができたら
どれだけ軽やかにこの人生を送ることができようか。

つかず離れず吹く風よ

気がつけばここは幕末。
長崎奉行の支配する浦上天主堂の近く。

いつも、坂道を駆け上がったところに家があり、そこから海を見つめたり、空を見つめて過ごしました。

初めは両親は素朴な仏教徒でしたが、どうも仏というものを身近に感じることができず、生きてる人間に語りかけてくださるように思えず、もっと新鮮に身近な形で語りかけてくださる宗教はないものか?

そんな時に触れたのがキリスト教でした。
キリスト教では、キリストという存在は自分の内側、すなわち信念の中にもある、肉体の中にもあり、自然界にも満ち満ちていると。

そこへいきますと仏教の教えは、決められた作法に従って、決められた場所に行って読経する。

いかにもキリスト教の方が、普遍的で、自分のすぐそばにいてくださるようで、これを一生の心の支えにしようと思っていました。

とりわけあなたの父親は、熱心な隠れキリシタンでした。

お父様の仰るイエス様はどういう存在ですか?

昼の間は空の中にいらっしゃる。
わしらはいつも辛い時は空を見ている。
そこから勇気をもらえる。

辛いと言うのはな、目先の問題で心がいっぱいになって、視野が狭くなってるから辛いんだ。

空を見つめているとな、心がどこまでも広がる

夜は海の中にいらっしゃる。
安心してわしらは海の中に任せる。

空と海がわしらにとってのキリスト様じゃ。

さて、そうした素朴なキリスト信者を、当時の幕府は許すことがありませんでした。

一人残らず信者を捕まえて、石の上に座らせて水をかけ、鞭で打ったりして過酷な処罰を与えました。

言い分はこうでした。

お前たちの心の中にも体の中にもキリストという孫が住んでいる。
それを叩いて、追い払ってやるのだから。
むしろ感謝しろ。

当時の幕府にとっては、キリスト教というのはとても危険な思想でした。
なぜならば徳川家という大将軍はさておいて、その上に人がいるという思想ですから。

はっきり言えば当時の幕藩体制は、根こそぎ否定するようなもので、支配者にとってはまことに都合が悪かったのです。

信徒は次々と捉えられ、獄門刑によって次々と志を変えていきました。

我が国にはキリストの教えなど一切不要じゃ。
どの本を読んでもキリストが素晴らしいとは書いてない。

ついに捕獲の手は、あなたの父親のうえにも及んできました。

どうじゃ左衛門よ、キリストの教えを捨てよ。
家族が可愛くないのか?
お前が信仰を捨てなければ、お前はもちろんのこと、家族も皆獄門刑に処す。

父親はある日頭を下げて、あなたにこう言いました。

よいか、信仰を捨てるのじゃ。
もちろんわしは捨てるわけにはいかん。
であるからわしは、やがては殺されるであろう。
お前だけは生きてほしい
だから信仰を捨てるのじゃ。

父親はそれから一月ほどして、獄中で死んでしまいました。

さて、そなたの父親は転んだぞ。
よいか、ここ10日の間に信仰を捨てるのじゃ。
さすれば命だけは助けてやる。

奉行の役人に捕らわれて、そう命じられました。

とは言え、何の不安もなかったわけではありません。
死という体験をしていませんので、死がどれほど怖いものかわかっていませんでした。

ここで信仰を捨てればいいのか?
それとも信仰を貫いて殺されるのか?

奉行はこうも言いました。

なぜそこまで信仰にこだわる?
なんと頑固なやつだ。
ならば聞くが、キリストとやらを信じるから生きていける。
キリストがいなければ生きていけぬ。
だからお前はそこまで頑固に信仰を捨てないのじゃ。

それから毎晩毎晩鞭打ちの刑を受けます。
冷たい水に入れられたり、石を投げられたり、鞭で打たれたりしました。

その辛い体験の中で、あなたは懸命にキリストに祈りを捧げます。

明日はおそらく鞭を打たれたら、目の玉が飛び出し、もはや食べ物をとることも水を飲むこともできますまい。
これ以上打たれたら、生きていくことはできない。

それにしても私の心はなんと不思議だろう。
ここまでひどいことをされても、信じる気持ちがなくならないとは。

その晩高熱が出て、まさに磔になったキリストがあなたにのり移ってきたのです。

キリストは苦しい息の下で、あなたにこう語りかけました。

よいか、お前はいま極限の苦しみを受けている。
私も同じだった。

あと数時間で命が終わると知った時、人生が走馬灯のように心を横切ったさ。
これまでよく生きてきたなと、自分を褒めた。

それは信じるからこそ、生きてこられたのであろうか
信じるものを失ったら、生きていけないだろうか

私が十字架にかかった時、神は私を必ず救い出してくださると思っていたが、ついにその奇蹟は起きなかった。

やがて「奇蹟を起こしたものを主」という概念が、私の中から見事に消えていった。もはや私の信ずるものはどこにもない。

奇蹟を起こしたもう神はどこにいったのか?
あれほど何千人も癒した神が、なぜ奇蹟を起こさないのか。
私の求める神は、ついに私のもとから立ち去りたもうたのだ。
すなわち、今だからいうのだがな、私は信仰を失ったのだ。

しかしその信仰は、どんな時でも奇蹟をおこしたもうという信仰だった。
その信仰が見事に崩れていった。

さて! 
なにが起きたと思う?

信仰は崩れたが、私は生きていた。
自ら自殺しようとは思わなかった。
信ずるものがなくなっても、私はなお生きようとしていた。
そして初めて私は知った。

信じるから生きるのではなく、生き切るからこそ、その生き切る自分を顧みて、
私は神を信じる。

生き切らそうとするその力が、神のわざなのだと私は知った。

よいか、死にゆく時ですら、生きるとするその力を見よ。
死んでゆく自分ではなく、なおも生きようとする自分を観るのだ。

不幸や苦しみの最中にあったとしても、それでもなお生きようとする自分を観るのだ。

私は十字架にかかって、初めて一つの悟りを得た。

生き切る
生きようとする
そこから本当の信仰が湧いてくるとな。

信仰とは頭でつくりあげるものでない。
生きて生きて生き抜こうとする、たとえ十字架の上であってもだ。

なんと素晴らしいことか。
あと数時間で息絶えるのに、それがわかっていながら、私の命は生きようとしていた。

さて、朝目が覚めた時、からだ中の傷が元のように癒えていたのである。
苦しいその極限の最中においても、生きんとするその自分の命を、ただそれのみを見つめ続けた。

奇蹟が起きたのだ。

いかなる時でも、あなたの中にある生き通しの力が、いかなる困難な環境においても今もなお生きようとしている。

矛盾に満ちたこの世の中で、いかに生活苦が襲おうと、将来の見通しが断たれようと、それでも生きようとするのが人の命の偉大さ。

現在のキリスト教は真髄を伝えておりません。
正しくは、「命の教え」でした。

あなたは、これから自分の人生において、この生きんとする素晴らしき命に、
それのみに意識を向けなさい。

さすれば、様々な職業、立場の人に勇気を与え、失われつつあった人々の生活に、彩りと勢いを再び吹き込むことができる。

今の時代に必要なのは物ではありません。
インスパイアされた活力そのもの。

命は、現在進行形でいまなお燃えている。

アバ アボン
オン ジーザスクライスト

いかなる時も、命の海を見よ

この命に心の焦点を当わせた時、太古の時代より秘められし、
不滅の力がよみがえる。

すなわち、不死身のエターナルパワーがよみがえる。

再び、息を吸う
永遠を吸って永遠を吐きなさい。

不死身の命と一つとなり、命の扉を我がうちに感知し、
あなたは命そのものとなり、「命の道」を歩むなり。

光の柱を立て

はい
ゆっくり息を吸って
ゆっくり吐く

もう一度
ゆっくり息を吸って
ゆっくり吐く

ゆっくり目を開けて

2023年9月 
アロマタマシイヒーリング(記憶と香り)
Dr.Shu五島秀一(&SAIKO)









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