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【Text 2007】「アートとはただの言葉」 作品をみて・はなすことで起きた出来事

2007年アメリア・アレナス(元ニューヨーク近代美術館教育担当)による、鑑賞教育研修会が長野県で行われた。

東山魁夷でおなじみの信濃美術館(2007.4/7)、梅野記念絵画館(2007.4/8)で開催され、約120名の教員、学芸員、美術関係者が、アメリアアレナスのレクチャーをうけた。


 私は、2007.4/8に開催された梅野記念絵画館でのレクチャーに参加した。


梅野記念絵画館では「生の軌跡」と題された木下晋展が開催されていて、その展覧会の中の作品4点、エントランスに展示された私の作品『またたき』を用いて、「対話型鑑賞」が行われた。


「対話型鑑賞」とは、アメリアが提案する美術作品を「みる」方法のひとつである。


アメリアは参加者を作品の前に座らせて、三つのことを要求する。


「作品をみること」


「考えること」


「話すこと」


じっくり作品を見る時間を持った後、その作品についてどう感じたか、何を発見したか、を考え、その意見を発表する時間を持つ。


アメリアは、時間をかけて、参加者のほとんどに意見を聞く。


沢山の人が、自分の意見を発表していくことで、参加者は、一つの作品について様々な見方があることに気付く。


自分が考えていた意見と似ているもの、全く異なるもの……


自分が作品を○○と思う、□□と感じるという、○○や□□の意見を、アメリアは尊重し、どうしてそう思ったのかとたずねる。


自分が○○と思った理由を参加者は改めて、「みて、考えて、話す」。


その意見を聞くまでは、自分とは異なる意見だと思っていた意見も、他の参加者の「みて、考えて、話す」プロセスに触れることで、「確かに、そういう見方もできるな」と他人の意見、思考を自分の中に取り入れ、認めることができる。


従来、鑑賞教育というと、作品の年代や時代背景、作家の制作スタイル、表現意図などの情報を伝達するというものが多い。


しかし、アメリアは、実際に作品を見ている人の中で起こっていることを重要視する。


アメリアは言う、「アートとはただの言葉だ」と。


「アートというものがあるとしたら、アートを見ている人の中に何かを起こすもの、そして、それを誰かと共有したり、議論したりできるものではないか。」と。


 私は、ある小学生が、友人の意見を聞き、さらに自分の想像力を飛躍させていたことが印象に残った。


友人の意見を自分のものとし、さらにその意見を足かがりに、考えを膨らませるその姿を見て、アートの意義や価値について改めて考える機会を得る事ができた。

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[またたき 1449mm×1974mm Inkjetprint (2004年作)]


以下は、『またたき』でのトークの様子である。


作品が設置された梅野記念絵画館のエントランスは明神池が一望できる静かな空間です。


アメリア・アレナス(以下:A・A)「それでは、最後に(木下晋展の4つのトークの後)玄関にある作品を見てみましょう!レッツゴー!」

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―エントランスにある作品を前にして

A・A「それでは、この作品の周りを歩いてみて!」


―子供たちは作品の周りをくるくる回り始める。

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A・A「それでは、座ってじっくりみてみましょう!」


―子供たちは『またたき』の周りに腰を下ろし、作品をじっくりみる。


A・A「それでは、思ったこと、感じたことを聞いていきたいと思います。」

―アレナスの隣の児童が発表する。

児童1「めだかがいるみたいだけど、星が生まれたようにみえる。」


A・A「あなたは、水面にも見えるし、空のようにも見えたってことかしら?おもしろいわね。貴方はどう?」

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児童2「何かが落ちたんじゃないかな」


児童3「山の中にある湖に石が落ちたんじゃないかな」


A・A「山の中だと思ったのはどうして?きれいな水だと感じたから?」


児童3「そうです。」


A・A「なるほど。次の貴方はどう感じた?」


児童4「私は、水の中に石が落ちたと思いました。」


児童5「私は、一つ一つ(『またたき』の波紋)が似ているようで似ていないと思いました。」


A・A「一つ一つ見てみると確かに似ているけれどどれも違うね。貴方はどう?」


児童6「池や湖の中に石が落ちたみたい」


児童7「いろいろな大きさの石を池に落として撮ったものじゃないかな」


A・A「一つ一つの(波紋の)大きさが違うから、そう感じたの?」


児童7「そうです。」


児童8「私は、どうしてこうした写真を撮ったのか知りたい。」


A・A「その疑問は最後にとっておきましょう!忘れないように。次の貴方はどう感じた?」


児童9「おもしろいと思いました。」


児童10「いろいろな形を写したものだと思います。」


児童11「石を落として、水がどのように変わるのかを調べたと思います。」


A・A「実験的に何度も何度もやってみたのかもね。最後に貴方はどう?」


児童12「僕は遊びで水面に石を投げていたら面白くなって、沢山の石を投げたのだと感じました。」


A・A「そうかもね。では、この作品をつくった浅見俊哉さんを呼んでみましょう!浅見さん!こっちに来てください。」


―アレナスの横に招かれ、私に児童の目線が集中する(緊張が最高潮に高まる瞬間である)。


A・A「さっきの質問(児童8の質問)に答えてください。」


私:「私がこの作品をつくった理由は、水面に広がる波紋に自分自身を確認できるからです。なぜなら、私がいて、水面に石を投げなくては波紋は生じません。生じた波紋は自分自身です。」


A・A「さっきみた、木下さんの自画像を描いた作品もそうだったけれど、アーティスト達は、自分自身を作品に投影しようとします。鉛筆で描く絵、石を投げて生じた波紋を撮影した写真…そのどちらも、水面の作品に浅見さんの顔は写っていないけれど、同じ自画像の作品です。つまりこの作品は、浅見さんの自身なのかもしれません。」


A・A「今日は、沢山の意見を発表してくれてありがとう!これでトークを終わりにします。」


―一同から拍手が生じる。


私は、この「対話型鑑賞」の様子を見ていて、自分自身が行った行為(楽しみながら石を水面に投げ入れる)を、児童達も体験していると感じた。


児童12の意見にもあるように、初めは何の気なしに投げていた石なのに、石の落ちた波紋をじっくり見ているうちに、波紋の形に強い興味が湧いていた。


周りにある小さな石や、大きな石を次々に水面に投げ入れ、生じた波紋に見とれながらシャッターをきった。


児童7、児童11の意見が、そのものズバリであることに鳥肌が立った。


正解、不正解ということではなく、児童達が主体的に、作品をみることで、自分の中で、作品をつくっていたのだと感じた。


児童が帰った後、行われたアレナスのトークでは、


「木下さんのトークも、浅見さんのトークも、とても具体的なもので分かりやすい。大人はよく、作品について話すとき、抽象的な考え方や比喩を用いる。一方今日来ていた子供達の意見は、とても具体的です。この具体的な意見は、対象をよく観察しているからこそ生まれるものです。こうした具体的な考え方ができなければ美しい抽象、比喩にいたることはできない。そうした意味で、大人よりも子供達のトークの方が魅力的だった。」


「アーティストは霧のようなものだ。」


「作品は作家が制作しただけでは終わらない、もしその場で完結してしまっている作品があったとしたら、それはアートと言えるだろうか?」


「作品は見る人がいて、初めて完成するものである。」


と語った。

この時の状況は

豊田市美術館発行の美術館とガイドボランティア10周年記念誌

「観る人がいなければアートは存在しない!」に掲載されている。

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https://www.museum.toyota.aichi.jp/about/publication.html

―『またたき』はこれまでに岡山県立美術館、長野県信濃美術館で、小・中学生に観てもらった。同じように、山奥の東御市梅野記念絵画館で展示し観てもらったときに、他の二館では出ない言葉が鑑賞者から飛び出した。それは、「山の中のきれいな水の中に何かを投げ入れた」というものだった。なぜこの梅野記念絵画館だけでこの言葉が飛び出したのかとい

うと、展示フロアと関係している。この展示フロアの目の前に大きな湖がある。子ども達はその作品だけを観ているとは限らない、他者や環境の相互性、作品が置かれた環境も含めて観ている―

(高知大上野先生のテキスト)


―このテキストは2007.4.9・4.12記述のものを再編したものです―

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⚫︎写真作家・造形ワークショップデザイナー ・キュレーター・「時間」と「記憶」をテーマに制作。2012年〜ヒロシマの被爆樹木をフォトグラムで作品制作 ●中之条ビエンナーレ2019参加アーティスト ●さいたま国際芸術祭2020 市民プロジェクトコーディネーター